第2話:遅刻魔の才能

廊下の窓から差す冬の光が、職員室前の床に白い帯を作っていた。


チャイムが鳴り終わっても、二年一組の前だけがざわついている。


「……真鍋、またかよ」


扉の隙間から、担任の声が漏れた。呆れた息が、言葉の端に張り付いている。


桐生静は、プリントの束を抱えたまま立ち止まった。隣にいた相沢陸が、視線だけで教室を指した。


「今日もっすか」


「静かに」


静が廊下側の窓を見た瞬間、階段の踊り場から足音が駆け上がってきた。上履きが床をこする音。呼吸が乱れている。


真鍋ミオが現れた。髪は濡れていないのに、前髪だけが妙に乱れている。制服のスカートのプリーツが一箇所だけ折れて、そこだけが目立つ。


教室の前で、ミオは止まった。息を整えようとするが、胸が上下したまま止まらない。


担任が扉を開けた。


「真鍋。今、何時だ」


ミオは腕時計を見ない。見ないで、目だけを上げた。


「……すみません」


「すみませんじゃない。何回目だ。遅刻届、もう何枚目だと思ってる」


「……」


「入れ。席座れ。あとで来い、って言いたいところだけどな。授業止まるんだよ」


ミオが教室に入ると、何人かが笑った。机を軽く叩く音が混じる。


「またか」「やべえな」と、聞こえるように言う声。


ミオは反応しない。反応しないまま、机の間を抜けていく。視線が床に落ちている。


静は廊下に残った担任に声をかけた。


「朝の連絡、回してもらえますか。真鍋、今日の放課後、第3に」


担任は一瞬、眉を寄せた。


「桐生先生、正直言って……」


「正直でいいです」


担任は声を落とした。


「もう、こっちも手が回りません。注意しても、反省してるフリだけで。家にも電話しました。お母さんも『どうせ無理』って。進路の話なんて、今さらですよ」


「今さらでも、期限は来ます」


「それは分かってますけど、遅刻で内申落として、推薦も無理で、一般も……」


担任が言いかけたところで、職員室の奥から誰かが「黒川先生、資料です」と呼んだ。教頭の名前が廊下に流れて、担任の声がさらに小さくなる。


「……上からも言われてるんです。問題生徒、増やすなって。校内放送で締めろって。遅刻は学校の印象に直結するからって」


静は担任の目を見た。


「締めるのは簡単です。締めた後、どこに落ちるかも、考えないと」


担任は肩をすくめた。


「桐生先生、頼みます。第3なら……何か、やり方があるんでしょ」


静は頷くだけで、プリントを抱え直した。


相沢が小声で言った。


「担任、もう投げてますね」


「投げた球を拾うのが仕事になった」


「それ、損じゃないっすか」


静は歩きながら、相沢の方を見ない。


「損か得かは後で決める。今は、遅刻の理由を聞く」


放課後。


第3進路室の扉は、相変わらず薄い。廃準備室の名残の金属棚が壁に沿って並び、机は二つだけ。掲示の紙は、誰かが落書きした跡を静が白い修正テープで塞いでいる。


「成績表に書けない良さを持って来い」


その文字が、少しだけ歪んで見えた。


相沢が椅子を並べていると、廊下に足音が近づいた。ゆっくり。躊躇いが混じる歩幅。


扉がノックされる。小さく二回。


「どうぞ」


ミオが顔だけ出した。視線は部屋の中を一周して、すぐ床に落ちる。


「……呼ばれました」


「入って。座って」


ミオは椅子の端に座った。鞄を膝に乗せ、両手で抱える。逃げられる形のまま。


相沢は「俺、ちょっと外で」と言いかけたが、静が首を横に振った。


「相沢、いて。記録手伝って」


「え、俺っすか」


「紙とペン」


相沢が渋々、机の引き出しからメモ帳を出す。


静はミオに向き直った。


「真鍋ミオ。遅刻、今学期だけで何回」


ミオが唇を動かす。声が出るまでに少し時間がかかった。


「……数えてない」


「数える。現実は数字で来る」


ミオの目が一瞬だけ上がる。すぐ逸れる。


「担任からは、内申が落ちる、推薦が消える、って言われてると思う。そこは本当」


「……はい」


「でも、遅刻が全部『だらしない』で片付くかは別。理由を言って」


ミオは鞄の取っ手を握り直した。


「……寝坊です」


「毎回?」


「……はい」


静は一拍置いた。


「寝坊の原因は?」


ミオは答えない。答えないまま、指先が白くなる。


相沢が小さく咳払いをして、メモ帳を見つめた。書くふりをして、ミオの顔を見ないようにしている。


静は声を急がせない。


「言えないなら、言えないって言って」


ミオの喉が動く。


「……家、うるさいんで」


「朝?」


「夜」


静は頷いた。


「誰がうるさい」


「……お母さん」


「仕事?」


「……パート。帰ってくるの遅い」


「遅いのに、うるさい?」


ミオは笑いそうになって、笑わなかった。


「帰ってきて、怒るんです。『役立たず』って。『あんたのせいで』って」


静はその言葉を繰り返さない。代わりに、机の上の時計を見た。秒針が進む音がやけに大きい。


「夜、何時に寝る」


「……二時とか」


相沢が思わず顔を上げた。


「二時? それ、毎日?」


ミオは相沢を見ない。


「……だって、寝たら、朝が来るから」


静が言った。


「朝が来たら、怒られる?」


「……怒られるし。学校も、行きたくないし」


「でも来てる」


ミオの肩が少しだけ動いた。否定でも肯定でもない揺れ。


静は机の上のプリントを一枚引き寄せた。校則の遅刻規定。出席扱いの基準。指導票の扱い。現実の紙。


「遅刻が続くと、指導が入る。指導が入ると、調査書に影響する。これは避けたい。で、避けるには『遅刻しない』が一番。でも、それができないなら、次に取れる手は二つ」


ミオが顔を上げた。ほんの少しだけ。


「……二つ?」


静は指を二本立てない。立てると説教になる気がした。


「一つは、生活を変える。睡眠の確保。家の状況を学校に共有して、配慮を取り付ける。保健室、スクールカウンセラー、福祉につなぐ。これは時間がかかる」


ミオが小さく笑った。


「……そんなの、うち、無理です」


「無理って言い切るのは早い。もう一つは、遅刻しても落ちない道を増やす。出席要件が厳しくない進路、定時制、通信、就職、資格。『遅刻魔』のままでも生きられる設計にする」


ミオの眉が動いた。反発か、救いか、どちらにも取れる。


「遅刻魔のままって……」


「今のままだと、学校は切る。黒川教頭は数字しか見ない。遅刻は数字に出る。だから、こっちが先に動く」


相沢が「黒川……」と小さく呟いて、メモ帳に何かを書いた。


ミオは唇を噛んだ。噛んだあと、離した。


「……でも、私、何もできないし」


静は即座に否定しない。ミオの手元を見た。鞄のファスナーが、きっちり閉まっている。角が揃っている。雑に扱っていない。


「今朝、教室に入るとき、誰にもぶつからなかった。人が多い時間帯に、あれは簡単じゃない」


ミオが瞬きをした。


「……え」


「遅刻して焦ってるのに、周りを見てる。自分の失点を最小にしようとしてる。そういう人は、現場で強い」


相沢が口を挟む。


「現場って、バイトとかっすか」


「例えばね」


ミオは眉を寄せた。


「……バイト、落ちました。面接で、遅刻したことあるし」


静は頷いた。


「遅刻する人は、落ちる。普通はそう。じゃあ、遅刻しない仕組みを作るか、遅刻が致命傷にならない働き方に寄せるか」


ミオが小さく言った。


「仕組みって……」


「まず、明日の朝。何時に家を出る」


「……七時四十分」


「間に合う?」


「……間に合わないです。いつも八時半くらい」


静は即答した。


「じゃあ、明日は八時半でいい。遅刻は遅刻。でも、目標を『間に合う』に置かない。『昨日より早い』に置く。現実的に積む」


ミオの目が揺れた。期待していいのか分からない顔。


「……それ、意味ありますか」


「ある。出席日数の帳尻は、まだ取り返せる。遅刻を欠席に変えないこと。遅刻が続くと、担任は欠席扱いにしたがる。手続きの都合でね。そこを止める」


相沢が顔をしかめた。


「そんなこと、できるんすか」


「できるかどうかは、交渉。担任に資料を出す。保健室とも話す。遅刻の背景があるなら、指導の形も変えられる。簡単じゃないけど」


ミオは椅子の端から、ほんの少しだけ深く座った。鞄を抱える力が弱まる。


「……お母さん、学校から電話来ると、もっと怒る」


静は言った。


「電話はする。するけど、内容は選べる。『遅刻が多い』だけじゃなくて、『朝来るための相談をしている』って伝える。あなたの味方が学校にいるって形を作る」


ミオが首を振った。


「……味方とか、いらない。どうせ、最後は……」


言葉が途中で切れた。口の中で折れたみたいに。


静は紙を一枚、ミオの前に置いた。第3進路室の簡単な面談シート。名前、現状、困りごと、できること、やりたいこと。空欄だらけ。


「味方がいらないなら、取引にしよう」


ミオが顔を上げた。


「……取引?」


「あなたは、明日、八時半に来る。できたら八時二十分。できなかったら、来た時間を書いてここに持ってくる。私は、担任と教頭のところに行って、欠席扱いにしないよう止める。それと、保健室とカウンセラーの枠を確保する。どっちも、やった分だけ返す」


相沢が「うわ、交渉戦だ」と小声で言う。


ミオは紙を見た。ペン先が置かれている。


「……書いたら、変わるんですか」


「変わらないかもしれない。でも、変える材料が増える」


ミオはペンを取った。指先が少し震えている。名前を書く。真鍋ミオ。文字は丸いが、線が強い。


静はその文字を見て、口元だけ動かした。


「字、読みやすい」


「……普通です」


「普通を続けるのが一番難しい」


相沢がメモ帳を閉じて、ぽつりと言った。


「ミオ先輩、明日、俺も朝いるっす。……たぶん。バイト前だけど」


ミオが初めて相沢を見た。驚いたみたいに。


「……なんで」


相沢は視線を泳がせた。


「いや、俺も遅刻したことあるし。……怒られるの、だるいじゃないっすか」


ミオは「ふーん」とだけ言って、また紙に視線を落とした。けれど、鞄を抱える手はもう戻らなかった。


廊下の向こうで、放送室のマイクチェックみたいな声が響いた。校内放送の準備だ。誰かが「遅刻指導、来週から強化」なんて言い出す前触れみたいに。


静は椅子から立った。


「じゃあ、私は担任のところに行く。相沢、ここで待ってて。ミオが書き終わったら、コピー取ってファイルに入れて」


「え、俺が?」


「頼む」


相沢が「はいはい」と言いながら、机の端にコピー用紙を揃える。


ミオはペンを止めた。


「……先生」


「何」


「教頭って……そんなに、怖いんですか」


静は扉に手をかけたまま振り返った。


「怖いというより、速い。切るのが。だから、先にこちらが遅刻するな」


ミオが意味を測りかねた顔をする。


静は扉を開ける。


「明日の朝、遅れてもいい。来るのだけは、遅れるな」


廊下の冷たい空気が入ってきた。静はそのまま職員室の方へ歩き出す。


背中の後ろで、ミオのペンが紙を擦る音が、さっきより少しだけ迷いなく続いた。



翌朝、八時二十三分。


第3進路室の扉は少しだけ開いていた。中では相沢陸が、机に突っ伏して片目だけ開けている。コンビニの袋が足元に落ちていた。


廊下の向こうから、軽い足音が近づく。


真鍋ミオが現れた。昨日より息が乱れていない。けれど頬が赤い。手が、冷えたみたいにこわばっている。


「……来ました」


相沢が顔を上げる。


「お、八時台。勝ちっす」


ミオは「別に」と言って、髪を耳にかけた。指先に、薄い切り傷が見えた。


静は椅子から立ち、時計を見た。


「八時二十三分。昨日より早い」


ミオは鞄を置かず、肩にかけたまま頷いた。


「……でも、間に合ってない」


「間に合ってない。だから話す。座って」


ミオが椅子に腰を下ろす。相沢はメモ帳を開いた。


静は昨日のシートを机に置いた。名前と、来た時間が書き足されている。字はやっぱり読みやすい。


「昨日、寝るのが二時って言った」


「……はい」


「今日は何時に寝た」


「一時半」


「早くなってない」


ミオの口元が固くなる。


「……だって、やることあるし」


静はミオの手の傷を見た。


「その傷、何」


ミオは反射で手を引っ込めた。


「……何でもない」


「包丁?」


「……ちょっと、指切っただけ」


相沢が小さく「料理?」と呟く。


静は声を落とした。


「何作った」


ミオは目を逸らしたまま、短く言う。


「弁当」


「誰の」


「……下の子」


静は椅子に座り直し、紙を一枚出した。白紙。ペン。


「下の子、何人」


「二人。弟と妹」


「年」


「弟が小四、妹が小一」


相沢が目を丸くする。


「小一……」


ミオは言い訳みたいに早口になる。


「お母さん、朝いないんで。早番の日は四時半に出るし。夜も遅いし。私がやらないと、あいつら、何も食べない」


静は頷くだけで、紙に線を引いた。時間の軸を作る。


「じゃあ確認。あなたは何時に起きる」


「……五時半」


「弁当作る」


「作る」


「送り出しは?」


「弟は自分で行くけど、妹は……途中まで」


「何時に家出る」


「七時四十分」


静は紙の上で、五時半から七時四十分までを指でなぞった。


「その間に、弁当二つ。朝飯。妹の準備。自分の支度」


ミオが小さく頷く。


「……あと、洗濯回して、干して。昨日は雨で乾かなくて。制服が……」


言いながら、ミオはスカートの折れを指で直した。そこだけ、昨日と同じ場所が崩れている。


静は言った。


「寝坊じゃない」


ミオの目が上がる。すぐ伏せる。


「……でも、遅刻は遅刻だし」


「遅刻は遅刻。学校の処理はそう。理由は書類に載らない。だから、こっちで整理する」


相沢がメモ帳に走り書きをして、顔を上げた。


「先生、これ……担任、知らないんすか」


ミオが先に答えた。


「言っても意味ないし。『親に頼れ』って言われるだけ」


静はミオに向けて、短く聞いた。


「親に頼った?」


ミオは肩をすくめる。


「頼った。『私も働いてる』って。『あんたがちゃんとしないから』って。……終わり」


静はそのまま続きを促さない。紙に、もう一つ線を引いた。「できること」とだけ書く。


「弁当は毎日?」


「基本。たまに、お金置いてくけど、コンビニ行けないし。妹、パン嫌がるし」


「おかずは何作る」


ミオは少しだけ言葉が滑らかになる。


「卵焼き。ウインナー。冷凍のやつ。あと、前の日の残り」


「前の日の残りを弁当に回せるのは、段取りがいい」


ミオが眉をひそめる。


「段取りって……普通です」


静はさらっと言った。


「普通にできない大人がいる。あなたはできてる。そこは事実」


相沢が「すげえ」と小さく漏らす。ミオが睨むと、相沢は口を閉じた。


静はペンを置いた。


「で。問題は二つ。ひとつは、あなたの睡眠が削れて遅刻が増えること。もうひとつは、あなたがそれを『言えない』こと」


ミオが反発するみたいに言う。


「言ったら、余計に面倒になる。『家のことは家で』って。学校はそうでしょ」


静は頷いた。


「そう言う先生もいる。黒川教頭は特にね。家庭事情は同情材料にしか見ない。遅刻は遅刻で切る」


ミオの指が椅子の端を掴む。


「……じゃあ、言わない方がいいじゃん」


「言い方を選ぶ。『同情してください』じゃなくて、『必要な配慮はこれです』で出す」


相沢が顔をしかめる。


「配慮って、遅刻OKみたいな?」


「遅刻OKにはならない。そこは現実。だけど、欠席扱いにしない運用、朝の居場所、提出物の締切、面談の時間。調整できる範囲はある」


ミオが小さく言った。


「……調整って、誰がするの」


「私がする。あなたは材料を出す」


ミオは唇を噛む。


「材料って……弁当作ってますって、証明とかできないし」


静はすぐに否定しない。代わりに、机の引き出しから小さなチェック表を出した。日付と、起床時間、弁当、送り出し、家を出た時間、登校時間。欄は細かい。


「これ、今日から一週間。書く。嘘は書かない。書けない日があったら空欄でいい」


ミオが紙を受け取る。指の傷が、白い紙に赤く浮く。


「……これ、誰に見せるの」


「まず私。必要なら担任。もっと必要なら、保健室とカウンセラー。教頭には、要点だけ。あなたの生活全部は渡さない」


ミオの目が揺れる。


「……お母さんにバレたら」


「学校から連絡は入る。隠すと、もっと大きくなる。だけど、伝える順番は作れる。あなたが一人で受けない形にする」


相沢が口を挟む。


「先生、家庭のことって、福祉とか……そういうの?」


静が頷く。


「状況によっては。ひとり親か、同居家族がいるか、収入がどうかで使える制度は違う。けど、今ここで『役所行こう』って言っても動けないだろうから、まず生活の実態を切り分ける」


ミオが小さく笑った。


「……制度とか、うちには関係ない。手続きとか、無理」


「無理なら、無理なまま進める道を増やす。学校内でできることからやる」


静は紙の上に、もう一つ項目を書いた。「朝、誰が弁当を作るか」。


「質問。弟と妹の弁当、毎日あなたが作る必要がある?」


ミオが即答する。


「ある」


「本当に?」


ミオの視線が鋭くなる。


「……じゃあ誰が作るの。お母さんいないし」


静は静かに返す。


「例えば、前夜に仕込む。例えば、弁当を一品減らす。例えば、弟に一部やらせる。例えば、週に二回だけ買う。『全部あなた』じゃない形を作れるかどうか」


ミオは首を振る。


「弟、やらない。やらせたら、ぐちゃぐちゃになる。妹は泣く。……結局、私がやる」


静はそこで押し返さない。代わりに、ミオの手元の傷を見る。


「ぐちゃぐちゃでもいい日を作る。毎日きれいにするから、あなたが削れる」


ミオが小さく言った。


「……きれいにしないと、怒られる」


「誰に」


ミオは答えない。答えないまま、チェック表の端を折りそうになる。指先が力を逃がせない。


相沢が椅子を少し引いて、空気を変えるみたいに言った。


「ミオ先輩、卵焼き、甘いやつっすか」


ミオが一瞬、面食らう。


「……普通」


「普通って、砂糖入れる?」


「入れる。少し」


相沢が頷く。


「俺、しょっぱい派」


「知らない」


静が口を挟む。


「卵焼き、毎朝焼くのは時間食う。冷凍できる」


ミオが眉を上げる。


「冷凍……できるの?」


「できる。厚焼きは水分多いから注意。薄めに焼いて巻く。小分け。レンジで戻す」


ミオはチェック表を見ながら、ぽつりと言った。


「……そんなの、誰も教えてくれない」


静は淡々と言う。


「教わる前提を捨てる。使える情報を拾う。あなたはそれができる」


ミオの指が、紙の上で止まった。止まったまま、静の方を見る。


「……私、才能とかないよ。弁当作ってるだけ」


静は椅子の背にもたれず、前に少し体を出した。


「弁当を作って、下の子を送って、学校に来てる。毎日。しかも誰にも褒められない。これを『だけ』って言うなら、世の中の仕事の半分は『だけ』だよ」


ミオの喉が動く。言い返す言葉が見つからないみたいに。


廊下のスピーカーから、放送委員の声が試しに流れた。「遅刻指導強化週間について――」という言葉が途中で途切れる。誰かがマイクを切ったらしい。


相沢が顔をしかめる。


「来た……」


静は立ち上がった。


「今日の昼、担任と話す。放送が本番になる前に、運用を押さえる」


ミオが急に不安そうに言う。


「……言わないで。私の家のこと」


「全部は言わない。遅刻の背景があること、朝の負担があること、支援につなぐこと。必要最低限だけ」


ミオは小さく頷いた。頷いたあと、チェック表を鞄にしまう。その動きが、昨日より丁寧だった。


静が扉に手をかけると、ミオが背中に言った。


「先生」


「何」


「……明日も、来る。たぶん遅れるけど」


静は振り返らずに言った。


「遅れてもいい。記録して来い。交渉の弾になる」


扉が開く。廊下の空気が流れ込む。


相沢がミオの方を見て、ぼそっと言った。


「卵焼き、今度……見せて」


ミオは「無理」と言いながら、鞄の口を閉めた。けれど、その「無理」は昨日より硬くなかった。


静の足音が遠ざかる。職員室の方へ、放送が本番になる前に。ミオはチェック表の角を指で確かめてから、立ち上がった。授業に遅れる時間を、もう一度計算するみたいに。



昼休み前のチャイムが鳴ると同時に、二年一組の廊下がざわついた。


「真鍋、また呼ばれてたらしいじゃん」


「第3? あそこ、落ちこぼれの部屋でしょ」


ミオは聞こえないふりで、鞄の口を閉めた。机の中から弁当袋を取り出す手つきだけが、無駄なく速い。


そのとき、教室の扉が開いた。


桐生静が顔を出す。担任の隣で、短く言った。


「真鍋、昼、少し来られる? 五分でいい」


担任は腕を組んだまま、視線を外している。


ミオは頷き、弁当袋を持ったまま立った。周りの視線が追ってくる。笑い声がひとつ、遅れてついてくる。


第3進路室に入ると、相沢が先にいて、机を拭いていた。コンビニの袋は今日はない。


「お、弁当」


ミオは椅子に座らず、机の端に弁当袋を置いた。


「食べるだけ」


「見せて」


「やだ」


静が椅子を引いて座る。


「見せなくていい。ただ、確認したい。昨日言った記録、持ってる?」


ミオは鞄からチェック表を出した。起床五時半、弁当、送り出し、家を出た時間、登校時間。二日分が埋まっている。字は小さいのに潰れていない。


静は目で追い、ペン先で空欄を指した。


「食費。弁当の材料、誰が買ってる」


「……私。っていうか、お母さんが置いてくお金で」


「いくら置いてく」


ミオはすぐ答える。


「週に三千。足りない分は、家にあるので回す」


相沢が思わず口を挟む。


「三千で四人分の朝と弁当? 無理じゃね」


ミオは眉を寄せた。


「無理じゃない。米があるし。卵と冷凍と、野菜は安い日に買う。肉は小分けで冷凍」


静が短く言う。


「レシート、残してる?」


ミオが一瞬固まる。


「……なんで」


「責めない。確認。家計の話になると、学校はすぐ『家庭で』って切る。切られない材料がいる」


ミオは弁当袋を握り直し、鞄の内ポケットから小さな封筒を出した。折りたたまれたレシートが何枚も入っている。


「……捨てると、後で怒られるから」


静は受け取らず、封筒の厚みだけを見る。


「怒られる相手は、お母さん?」


ミオは答えない。代わりに封筒を机に置いた。


相沢が目を丸くする。


「え、ガチで管理してんの」


ミオがぶっきらぼうに言う。


「しないと、足りなくなる」


静が言った。


「弁当、今日の中身、口でいい。言って」


ミオはため息をついて、指を折らずに並べる。


「米。ふりかけ。卵焼き。ほうれん草のおひたし。にんじんのきんぴら。ウインナー二本。ミニトマト。あと、冷凍のコロッケ半分ずつ」


相沢が「色、ちゃんとしてる」と呟く。


静は間髪入れない。


「栄養、意識してる?」


「……野菜入れないと、便秘になるし。妹、肌荒れるし」


「タンパク質は」


「卵と、ウインナーと、コロッケ。あと、夕飯が魚の日は、ほぐして入れる」


静は頷き、質問を重ねる。


「朝、どれくらいで詰める」


「十五分」


「買い物はいつ」


「日曜。あと、木曜に特売」


「特売、どこの店」


「駅前のスーパー。木曜は卵安い。火曜は冷凍」


相沢が笑いそうになって、飲み込んだ。


「先輩、チラシ読んでるタイプっすね」


ミオが睨む。


「読まないと、終わる」


静がその「終わる」を拾わないまま続けた。


「下の子の好き嫌い、把握してる?」


「妹はピーマン無理。弟は魚の骨が嫌。だから魚はほぐす。ピーマンは細くして、肉と混ぜると食べる」


静はペンを止めた。視線だけでミオを見た。


「……それ、誰に教わった」


ミオの口が少し歪む。


「誰にも。勝手にやってたら、そうなった」


相沢がメモ帳を取り出して、勝手に書き始める。


「生活スキル、えぐ」


ミオが「やめて」と言うが、声が強くない。


静は机の上の白紙に、太めの字で書いた。


「生活設計能力」


ミオが眉をひそめる。


「……なにそれ」


「才能の名前。弁当作りじゃない。栄養、段取り、コスト、在庫管理、家族のコンディション。全部見て、毎日回してる」


ミオが反射で言い返す。


「回してない。遅刻してる」


静は即答した。


「回してるから遅刻してる。優先順位が家に寄ってる。それが良い悪いじゃない。事実」


相沢が静の方を見て、小声で言う。


「それ、学校的にはアウトっすよね」


「学校は『授業が優先』でしか見ない。だから、言語化して、別の評価軸に乗せる」


ミオが首を振る。


「評価軸って、内申のこと?」


「内申には載らない。だけど、進路には使える」


ミオの目が細くなる。


「……就職とか?」


「就職も。専門学校も。奨学金も。面接も。志望理由書も。『生活を回してきた』は強い。ただし、証拠と説明が要る」


ミオが弁当袋を抱えた。


「説明って、弁当の話するの、恥ずかしい」


「恥ずかしいなら、数字で話す」


静はチェック表の横に、簡単な表を作り始める。


「週三千で、弁当二つと朝食。買い物は週二回。調理時間は朝十五分。下の子の好みの調整。これ、面接官は好きだよ。現場の人間だから」


相沢が頷く。


「現場、好きっすね。先生」


「机上で生きてない子は、現場にいる」


ミオが小さく言った。


「……でも、遅刻してる人、雇わない」


静は視線を逸らさずに言う。


「雇わないところもある。だから、遅刻を減らす仕組みと、遅刻の理由を『言い訳にしない説明』に変える。両方やる」


相沢が口を挟む。


「言い訳にしない説明って、むずくないっすか」


「難しい。だから練習する」


静は弁当袋を指した。


「今日の昼、食べる前に写真撮っていい?」


ミオが一瞬固まる。


「……なんで」


「記録。『作ってる』の証拠。毎日じゃなくていい。週に二回。あと、レシートも月でまとめる。家計簿アプリじゃなくて、紙でいい。あなたは紙の方が向いてる」


ミオが唇を噛んだまま、弁当袋の口を少し開けた。中のプラスチック容器が見える。きっちり詰まって、隙間がない。


相沢が身を乗り出す。


「うわ、マジで色ある。赤と緑と黄色」


「見ないで」


「見てないっす」


見ている。


静がスマホを出すと、ミオが慌てて言った。


「顔とか、撮らないで」


「撮らない。弁当だけ」


カシャ、と短い音。


ミオの肩が少し落ちる。諦めではなく、やるしかない方の落ち方だ。


その瞬間、廊下のスピーカーが本番の声量で鳴った。


「全校生徒に連絡します。来週より、遅刻指導を強化します。遅刻三回で——」


相沢が舌打ちした。


「始まった」


ミオの手が弁当袋の取っ手を強く握る。指の傷が白くなる。


静は立ち上がり、扉の方を見た。


「この放送、教頭の肝いり。担任も動かされる。だから、今日中に担任へ『遅刻=怠慢』じゃない資料を渡す」


ミオが小さく言う。


「……渡したら、余計に目立つ」


「目立つ。だから、目立ち方を選ぶ。『遅刻魔』じゃなくて、『生活を回してる生徒』として」


相沢がメモ帳を叩いた。


「それ、担任が信じるっすか」


静は短く息を吐いた。


「信じなくても、運用は変えられる。欠席扱いにしない。朝の指導の仕方を変える。最低限、それだけ」


ミオが弁当袋を抱えたまま立つ。


「……先生、私、授業戻る。これ、食べないと午後無理」


「行け。食べて。午後の集中力も、あなたの資源だ」


ミオが扉に手をかけたところで、静が続けた。


「放課後、もう一回。弁当の段取り、削れるところ探す。あなたが倒れたら、家も回らない」


ミオは振り返らずに「分かった」とだけ言った。


相沢がその背中を見送り、静に小声で言う。


「先生、これ、教頭にバレたら『家庭の事情で遅刻を正当化するな』って来ますよ」


静は扉の隙間から廊下を見た。放送室の方角。職員室の方角。どちらも遠いのに、圧は近い。


「来る。だから、先に数字を揃える。生活設計能力は、感動話じゃ守れない」


相沢が頷く。


「……俺、レシート整理、手伝います。バイトのシフト調整、できる日だけ」


静は相沢を見た。


「助かる。じゃあ、次は担任との面談セットする。資料作るぞ」


机の上に、弁当の写真が残った。詰め方の隙間のなさが、何よりの証拠みたいに見えた。


廊下の放送は続いている。遅刻三回、指導、保護者連絡——数字と処理の言葉。


静は白紙をもう一枚引き寄せ、ミオの一日の時間割を書き始めた。削れる十五分を探すために。次の衝突に備えるために。



放課後の廊下は、部活の掛け声と掃除用具の車輪の音が混じっていた。


第3進路室の扉が開く。


ミオが入ってきた。昼より顔色が落ち着いている。弁当袋はもうない。代わりに、教科書の角が揃って鞄から覗いている。


「来た」


静が言うと、ミオは椅子に座る前に聞いた。


「担任に言った?」


「言った。要点だけ」


ミオの目が細くなる。


「なんて」


「『家庭の朝の負担が大きい。遅刻を欠席扱いにしない運用にしてほしい。記録を取っている』」


「……で、担任は」


静は机の上に、短いメモを置いた。担任の判子が押されている。「欠席扱いは当面保留。遅刻指導は継続。保護者連絡は桐生経由」。


ミオがそれを見て、息を止めたみたいに固まる。


「……桐生経由って」


「あなたの家に、いきなり電話が飛ばないようにした。担任も、面倒を避けたいから飲んだ」


ミオはメモの端を指で押さえた。紙がよれない程度の力。


「……教頭は」


静は肩をすくめる。


「今は知らない。知られたら言われる。『遅刻は甘やかすな』って。だから、こっちも数字を積む。遅刻回数を減らす。記録を揃える。進路の話も進める」


ミオが小さく言う。


「進路……」


静は机の引き出しから、パンフレットを二つ出した。派手じゃない。写真は実習室と施設の廊下。文字が多い。


「福祉系と、調理系。現実的な候補」


相沢が背後の棚でファイルを整理しながら、耳だけこっちに向けている。


ミオはパンフレットに触れずに言った。


「私、頭悪いし。専門とか無理」


静は即答しない。パンフレットの端を指でトントンと叩く。


「偏差値で行く場所じゃない。条件で行く場所。あなたの条件は、生活を回せること、段取りが組めること、手が動くこと」


ミオが眉を寄せる。


「……条件って、遅刻してるのに?」


「遅刻があるなら、遅刻が致命傷にならない形にする。福祉も調理も、現場は早い。だからこそ、早番遅番の組み方、通勤距離、睡眠の確保。生活設計がそのまま仕事になる」


ミオがようやくパンフレットを手に取った。表紙をめくる指が慎重だ。


「福祉って……介護?」


「介護だけじゃない。保育補助、障害福祉、児童施設、放課後デイ。まずは資格の入口が多い。初任者研修とか。高卒で働きながら取る道もある」


ミオが顔を上げる。


「働きながら、取れるの」


「取れる。ただし、体力と時間は削られる。甘くない」


ミオはパンフレットの写真を見つめた。車椅子を押す手。食事介助のスプーン。施設の厨房。


静がもう一つのパンフレットを滑らせた。


「調理は、給食センター、病院の厨房、弁当工場、惣菜。調理師免許は、学校ルートと実務ルートがある。実務なら二年働いて受験資格。学校なら一年〜二年で取れるところもあるけど、学費がかかる」


ミオの指が止まる。


「学費……」


静が頷く。


「そこが壁。奨学金、教育ローン、給付型、分納。制度はあるけど、審査もある。家の状況次第」


ミオが小さく笑う。


「……ほら。結局、無理」


静は笑わない。


「無理って言うなら、無理なままの道も出す。高卒で就職。食品工場のライン、スーパーの惣菜、施設の調理補助。資格は後で取る。進学実績にはならないから、学校は推しにくい。でも、あなたの生活は回る」


相沢が棚の向こうから口を挟む。


「学校、就職コース弱いっすもんね。ここ」


静が短く言う。


「黒川教頭は進学実績の学校にしたい。就職は数字が弱い。だから、こっちは『就職でも学校の評価を落とさない形』を作る。求人票、職場見学、欠席遅刻の説明。手順で勝つ」


ミオがパンフレットを閉じて、机に置いた。


「……私、遅刻の説明、できない。面接で『なんで遅刻多いんですか』って聞かれたら終わり」


静は紙を一枚出し、ペンで短い文章を書いた。途中で止めて、ミオに見せる。


「『家庭の事情で朝の役割が大きかったため、登校が遅れる日がありました。現在は記録を取り、改善のための仕組みを作っています。仕事では時間管理を最優先にし、改善策を継続します』」


ミオが目を細める。


「……きれいごと」


「きれいごとじゃない。事実と対策。言い訳は、事実だけ言って対策がない状態。あなたは対策を作れる」


ミオの喉が動く。


「……対策って、何」


静は机に指で四つの点を打った。


「一つ。弁当の作り置きで朝十五分削る。二つ。弟に『米をよそう』だけ任せる。三つ。登校ルートを固定して迷いを減らす。四つ。朝、学校に着いたら第3に寄って記録を出す。遅刻でも、逃げない」


ミオが小さく言う。


「弟、やらない」


「やらせる。やらないなら、やらない理由を潰す。米をよそうだけ。失敗しても死なない」


ミオの口元が引きつる。


「……妹が泣く」


「泣かせない方法を探す。あなたはもう、ピーマンを泣かせずに食べさせてる。応用」


相沢が「ピーマン理論」と呟いて、静に睨まれて黙る。


ミオはパンフレットの端を指でなぞった。


「福祉……調理……。私、そういうの、なりたいとか、思ったことない」


静は椅子の背にもたれないまま言った。


「なりたい、から始めなくていい。向いてる、で始める。生活が回る方を選ぶ。で、あとから好きに寄せる」


ミオが小さく首を振る。


「向いてるって、遅刻魔が?」


静は言葉を選んで、短く言った。


「遅刻魔じゃない。あなたは、朝の責任者」


ミオが固まる。


「……責任者」


「家の朝を回す責任者。段取りとコストと栄養を見てる。現場で言うと、シフトリーダーの素質に近い」


ミオの目が揺れた。笑うでも泣くでもない。呼吸だけが少し乱れる。


「そんなの……誰も言わない」


「言わない。成績表に書けないから」


静はパンフレットの、募集要項のページを開いた。指で条件を指す。


「福祉系の学校は、出席と実習が命。遅刻が多いままだと厳しい。だから、今から半年で遅刻を半分にする。無理なら、働きながら資格ルートに切り替える」


ミオが息を吸う。


「半年……」


「調理も同じ。厨房は時間が絶対。あなたは時間が守れない人じゃない。時間を守るために、誰かの時間を削ってきた人だ」


ミオの手が、膝の上で握られている。指の傷が、また少し開きそうな力。


「……私が削らないと、家が回らない」


「回らないなら、回るように作り直す。あなた一人に寄せた設計は、いつか折れる」


ミオが顔を上げた。


「……折れたら、どうなる」


静は目を逸らさない。


「遅刻が欠席になる。欠席が増える。卒業が危うくなる。家も学校も、あなたを責める。だから、今、折れる前に設計を変える」


沈黙が落ちた。


廊下の向こうで、教頭の声が誰かに指示しているのが聞こえた。「遅刻の集計、来週までに」。名前は呼ばれないのに、背筋が冷える声量だった。


相沢が視線を泳がせて、ファイルを抱え直す。


「……集計、来るっすね」


静が小さく頷く。


「来る。だから、ミオ。これ」


静は別の紙を出した。学校の職業適性検査の申込用紙と、近隣の職業訓練校の説明会案内。日時が赤で丸されている。


「来週、職業訓練校の見学がある。福祉と調理、両方のブースが出る。制服で行け。質問を三つ作って。相沢も同行できるならさせる」


ミオが紙を見つめた。


「……見学って、お金かかる?」


「見学は無料。交通費はかかる。片道いくら」


ミオが即答する。


「……二百四十」


「出せる?」


ミオは一拍置いて頷いた。


「……出せる。弁当作れば」


相沢が吹き出しそうになって、口を押さえる。


静が言った。


「それが、生活設計。強みだ。で、見学に行けたら、次。求人票も見始める。『遅刻魔』のままじゃなく、『朝を回してきた人』として書類を作る」


ミオは紙を鞄にしまった。ゆっくり、丁寧に。逃げるみたいな動きじゃない。


「……先生」


「何」


ミオは小さく言った。


「遅刻の私に、別の名前がつくって……変な感じ」


静は頷くだけで、余計な言葉を足さない。


相沢が代わりに言う。


「変じゃないっすよ。俺も、バイトで遅刻したとき『時間守れない奴』って言われたけど、店長に『ピーク前に仕込み終わらせる奴』って言われたことあって」


「自慢?」


「自慢っす」


ミオが鼻で笑った。ほんの一瞬。


静が机の上のカレンダーを指で叩く。


「じゃあ決める。明日から一週間、弁当の写真は二回。レシートは週末にまとめる。遅刻は、八時二十分を目標。無理なら八時半。来た時間は必ず書く」


ミオが頷く。


「……分かった」


静は立ち上がった。


「私は今から教頭に呼ばれる可能性がある。遅刻指導の件で。来たら来たで、資料で殴る」


相沢が「物騒」と言いながらも、メモ帳を握った。


ミオが椅子から立つ。


「……私、明日も来る」


「来い。遅れても、逃げるな」


ミオが扉に向かう。廊下のざわめきが一瞬だけ大きくなる。部活の勧誘、委員会の呼び声、誰かの笑い声。


その中で、ミオは足を止めずに歩き出した。


静は机の上に残ったパンフレットを揃え、次のページを開く。説明会の申込締切は、思ったより近い日付だった。次の一歩を、遅刻させないために。



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