成績表に書けない才能
深渡 ケイ
第1話:第3進路室、開室
廊下の突き当たり、使われなくなった準備室の札が、白くくすんでいた。
桐生静が鍵を差し込むと、金属が擦れる音がやけに大きく響いた。扉が重い。押し開けた瞬間、乾いた埃がふわりと舞って、喉の奥がざらつく。
窓は小さく、曇ったガラス越しの光が薄い。机が二つ。片方は脚が少し曲がっていて、もう片方には古い出席簿が置きっぱなしになっている。黒板の端に、消されないチョークの線が残っていた。
背後で革靴の音が止まる。
「ここが、第3進路室です」
黒川教頭は扉の枠に手を置いたまま、室内を一瞥した。眉ひとつ動かさない。
静は鞄を机に置かず、床に置いた。埃の積もり具合を見て、指で机の天板をなぞる。指先が灰色になった。
「ずいぶん、歓迎されてますね」
「予算は出ません。あなたが望んだ役目でしょう」
「望んだ覚えはありません」
黒川が静の横顔を見た。
「あなたは“面倒を見るのが得意”だと聞きました。成績下位、欠席多め、素行が不安定。そういう層を、ここでまとめて扱う」
「まとめて、ですか」
「言い方が気に入りませんか」
静は指先の埃を払った。指をこすり合わせると、細かな粉が落ちる。
「生徒を荷物みたいに言うのは、昔からの癖ですか」
黒川は肩をすくめなかった。代わりに、靴先で床のラインをなぞるように一歩入ってきた。
「学校は企業です。数字がすべて。進学実績が落ちれば、地域の信頼が落ちる。募集が減る。予算が削られる。あなたも、ここも、消える」
「だから、下位層を隔離する」
「隔離ではない。“処理”です」
静の視線が黒川に移る。声は低い。
「処理って言いましたね」
黒川は視線を外さない。
「トラブルを起こす前に、芽を摘む。退学、転校、通信。就職。いずれにせよ、学校の外でやってもらう。あなたの仕事は、そこに抵抗することではない」
静は鞄の持ち手を握ったまま、椅子の背を軽く指で弾いた。ぎし、と鳴る。
「抵抗はしません。選択肢を増やします」
黒川の口元がほんの少しだけ動く。笑いではない。
「選択肢? “救う”と言い換える教師を、私は何人も見てきた」
「救うなんて言いません。現実は厳しい。だから道を増やす。それだけです」
「道を増やすには、時間も金も必要だ。ここにはどちらもない」
「じゃあ、ある範囲でやります」
黒川は静の足元の鞄に目を落とした。
「あなたの善意が、学校を壊すこともある。覚えておいてください。第3進路室の生徒が問題を起こせば、責任はあなたが取る」
「責任って、具体的に?」
「指導記録。保護者対応。最終的には、あなたの評価です」
静は小さく息を吐いた。埃が光の中で揺れる。
「評価で生徒の人生は変わりません。変わるのは、進路と、金と、家の事情です」
「その家の事情に、あなたは踏み込めますか」
黒川は言い捨てるように続けた。
「成績表に書けない努力を抱えた子ほど、家庭も荒れている。学校が抱え込める範囲を超える。だから、ここで“整理”する」
静の指が机の角を掴む。木がささくれていて、指腹に引っかかった。
「整理の仕方は、私が決めます」
黒川が少しだけ眉を上げた。
「決められると思うなら、どうぞ。期限は三年生の出願まで。結果が出なければ、第3進路室は閉じます」
「閉じる理由は?」
「成果がないからです」
黒川は踵を返し、扉の外に出た。廊下の光が一瞬、室内を明るくする。
「桐生先生」
黒川は振り返らずに言った。
「下位層は、トラブルを起こす前に処理してください。学校を守るために」
扉が閉まる。鍵のかかる音がしない。閉めただけだ。
静はしばらく動かなかった。薄暗い空気の中で、遠くの教室からチャイム前のざわめきが滲んでくる。
静は鞄を机に置いた。古い天板が、鈍い音を返す。
引き出しを開けると、折れたチョークと、誰かの使いかけの進路希望調査票が一枚だけ残っていた。名前欄が空白のまま、志望欄に乱暴な字で「しらない」と書かれている。
静はその紙を指で押さえ、椅子に座った。椅子がまた、ぎし、と鳴った。
「……しらない、か」
廊下の足音が近づいてきて、扉の前で止まった。
「ここ、入っていいんすか」
少年の声。遠慮がちなのに、逃げる気はない声だった。
静は扉の方を見たまま、椅子から立ち上がらない。
「鍵、かかってない。どうぞ」
扉が少し開き、制服の袖が覗く。中を覗き込む目が、埃っぽい空気に一瞬だけ瞬いた。
「……ほんとに、進路室?」
「第3。座れる椅子は、今のところ一個だけ」
少年は足元を見て、机の脚の曲がりを見て、苦笑いを飲み込むように喉を鳴らした。
「じゃ、立ってます」
静は机の上の空白の調査票を、指先で少年の方へ少しだけ滑らせた。
「立つのもいいけど。名前、書ける?」
少年の目が紙に落ちる。廊下のざわめきが、少し遠のいた気がした。
少年は紙に目を落としたまま、指先で自分の制服の胸を押さえた。名札が少し傾いている。
「……相沢。陸」
「相沢陸。学年」
「二年」
「出席番号」
「忘れました」
静はペンを差し出した。ペン先がわずかに震えるほど、この部屋は冷えている。
「じゃあ、名前だけでいい。座る?」
「……立ってます」
相沢は受け取らなかった。視線だけが紙と静の間を往復する。
「“しらない”って書いたの、俺じゃないっすよ」
「そう。じゃあ、あなたは何て書く」
「……知らないっすね。進路とか」
静は紙を引き寄せ、空欄の名前欄に「相沢陸」とだけ書いた。本人の字じゃない、教師の字で。
「知らないは、選択肢がないって意味じゃない。情報が足りないだけのことが多い」
「めっちゃ先生っぽい」
「先生だからね」
相沢の口角が少しだけ上がる。すぐに引っ込めた。
「ここ、落ちこぼれの隔離部屋っすよね」
静は机の上の埃を、手のひらで一筋拭った。拭った場所だけが妙に目立つ。
「そういう呼び方をする人もいる」
「教頭とか」
「言った?」
相沢は肩をすくめる。肯定もしない。否定もしない。沈黙が答えだった。
静は立ち上がり、古いロッカーを開けた。中から、丸められた画用紙と、使いかけのガムテープ、錆びた画鋲の箱を取り出す。
「相沢、手、空いてる?」
「……何すか」
「掲示物を作る。廊下に貼る」
「え、今?」
「今。人が通る時間がいい」
相沢は画用紙を受け取った。指先に白い粉がつく。
「何書くんすか。『進路相談やってます』とか」
「違う」
静はマジックペンのキャップを外し、紙の中央に大きく書いた。
『成績表に書けない良さを持って来い』
相沢が息を漏らす。笑いにしきれない音。
「……何それ。宗教?」
「求人票みたいなもの」
「求人票?」
「あなたの“良さ”を採用する場所を探す。採用される形に直す。そのための材料を持って来い、ってこと」
相沢は紙をのぞき込み、眉をひそめた。
「成績表に書けない良さって、何すか。そんなの、進路に関係なくない?」
静はペン先で「良さ」の字を二回なぞった。インクが濃くなる。
「関係ある。成績が足りないときほど」
「でも結局、数字っしょ」
「数字も必要。否定しない」
相沢がすぐに食いつく。
「ほら。結局」
「結局、じゃない。数字だけだと詰む人がいる。ここに来るのは、だいたいそういう人」
相沢は紙を持ったまま、壁の汚れを見た。視線が落ち着かない。
「詰むって、退学とか?」
「退学、通信、就職、浪人。家の金。親の意向。どれか一つで決まることもある」
相沢は黙った。静が言葉を足す前に、相沢が先に言う。
「……俺、バイトしてます。家の都合で」
「週何回」
「四。たまに五」
「それで寝てる?」
「寝てないっす」
「成績落ちるよね」
「落ちるっすね」
相沢の声が少しだけ尖る。笑いに逃げない。
「じゃあ、バイトやめろって言うんすか。先生」
静は首を横に振った。
「やめろとは言わない。やめられないなら、時間の使い方と、進路の幅を変える」
「進路の幅って、どうやって」
「今は知らなくていい。まず貼る」
静は画用紙を持って廊下へ出た。相沢もついてくる。廊下は昼の光が差して、ここだけが別世界みたいに明るい。遠くで先生の声が飛ぶ。
掲示板の前に立つと、既に「難関大合格者速報」と「模試偏差値ランキング」が色褪せたまま貼られている。上位者の名前が太字で並ぶ。相沢の目がそこを一瞬だけ掠め、すぐ逸れた。
静はその隣の空きスペースに、ガムテープを四隅に貼った。指で押さえる。剥がれないよう、強めに。
『成績表に書けない良さを持って来い』
文字が廊下に浮く。
相沢が腕を組んだ。
「絶対、笑われますよ。『良さ(笑)』って」
「笑う人は笑う。来る人は来る」
「来るわけないっす。こんなの」
「じゃあ、あなたが一番に来たらいい」
相沢は鼻で短く笑った。
「俺の良さ? ないっすよ。成績もないし」
静は掲示板の上に貼られた偏差値ランキングを指でトントン叩いた。音が乾く。
「そこに載ってないことは、全部“ない”になる?」
相沢はすぐ答えない。代わりに、掲示板の端の画鋲を一本抜いた。指に刺さりそうなほど固い。
「……先生、これ貼ったら、教頭に怒られません?」
「怒られるかもね」
「やめといたら?」
「やめない」
静は画鋲を受け取り、ガムテープの上からさらに留めた。念押しみたいに。
「怒られたら、どうすんすか」
「説明する。第3進路室が何をしてるか、数字にする」
「数字にできんの?」
「できる範囲で。相談件数、欠席の改善、出願の提出率。小さい数字から積む」
相沢が唇を噛んだ。何か言い返したそうにして、飲み込む。
そのとき、背後から女子の声が飛んだ。
「なにこれ、ウケる」
別の声が続く。
「第3って、あそこ? やばい子の部屋?」
相沢の肩がわずかに跳ねた。静は振り返らず、掲示物の角をもう一度押さえた。
「相沢」
「はい」
「今の、聞こえた?」
「……聞こえました」
「聞こえる場所に貼った。わざと」
相沢が眉を寄せる。
「わざと傷つけにいってる?」
「傷つくかどうかは、あなたが決める。でも、黙って隠れてると、道は増えない」
相沢が掲示物を見上げた。インクの黒がやけに強い。
「……来たら、何すんすか。具体的に」
静は廊下の先、職員室の方向をちらりと見る。そこから視線を戻す。
「“良さ”を言葉にする。証拠を作る。見せ方を作る。で、現実的な出願先と就職先を並べる」
相沢が小さく息を吐いた。
「めんど」
「めんどいことが、現実」
相沢は掲示板から目を離し、静の横顔を見る。
「先生、ほんとに、ここでやるんすね」
「やる。だから」
静は廊下の壁に貼られた時間割を指差した。
「放課後、十五分でいい。第3に来て。あなたの“良さ”の棚卸し、始める」
相沢は即答しない。けれど、掲示物の角が少し剥がれかけているのを見つけると、無言で指先で押さえた。
その指が離れる前に、チャイムが鳴った。廊下が一斉に動き出す。人の波が来る。
静は掲示物の前から一歩退き、流れに飲まれない位置に立った。
「相沢、教室行って」
「……はい」
相沢は人混みに紛れながら、振り返らずに言った。
「放課後、気が向いたら」
静は返事を急がなかった。人の肩がぶつかりそうになるのを避け、掲示物が剥がれないかだけを見ている。
廊下の向こうで、誰かがまた笑った。
その笑い声の中に、足を止めた気配が一つ混じった。掲示板の前で、視線が貼り紙に刺さる。静はその影だけを横目で捉え、背筋を伸ばした。
放課後のチャイムが鳴っても、第3進路室の扉は一度も叩かれなかった。
静は机の上の紙を揃えた。進路希望調査票の予備、学校案内の古い冊子、近隣の専門学校のパンフレット。どれも端が少し反っている。
壁の時計が、秒針の音だけを立てる。
廊下からは部活の掛け声。教室の椅子を引く音。笑い声。遠ざかる足音。
静は立ち上がり、扉を少し開けた。廊下の明かりが細く差し込む。掲示板の方を見ると、貼り紙はまだ残っている。けれど、その前で立ち止まる人はいない。誰もが通り過ぎるだけだ。
「……来ないか」
独り言が埃の匂いに吸われた。
廊下に出ると、ちょうど相沢陸が階段の方から歩いてきた。鞄を肩にかけ、スマホをいじりながら、目だけで静を見た。
「来た?」
静が聞くと、相沢は足を止めずに言った。
「来てないっすね」
「あなたは」
「俺? 今日はバイト。十五分も無理」
「そう。何時から」
「五時。駅前」
「遅刻したら?」
「クビっす」
相沢はスマホをポケットにねじ込み、静の背後の扉を見た。
「先生、待ってたんすか。ずっと」
「仕事だから」
「……へえ」
相沢は笑うでもなく、目を細めた。
「貼り紙、剥がされてないだけマシっすね。教頭に」
「見回りはある」
「じゃ、終わりっすね。怒られて」
静は相沢の肩の鞄の紐を見た。擦れて白くなっている。
「相沢」
「はい」
「明日、五分でいい。来れる?」
相沢は一瞬だけ口を開け、すぐ閉じた。
「……気が向いたら」
同じ言い方を残して、相沢は階段を降りていった。靴音が軽い。軽くしようとしている音。
静は掲示板の前まで歩いた。貼り紙の端に、ボールペンで小さく「キモ」と書かれている。インクが乾ききって、消しゴムでは薄くしかならない。
静はポケットから消しゴムを出し、指で押さえて擦った。紙が毛羽立つ。文字は完全には消えない。
背後から声がした。
「先生、何してんの」
振り返ると、同じ学年の女子が二人、教室の前で鞄を抱えて立っていた。目だけが笑っている。
「掃除」
「そこ、先生の部屋の宣伝でしょ」
「そう」
「“成績表に書けない良さ”ってさあ。何それ、って感じ」
もう一人が口を挟む。
「落ちこぼれの慰め?」
静は消しゴムをしまい、二人に向き直った。
「慰めが必要な人もいる。必要ない人は通り過ぎればいい」
「冷たっ」
「現実的」
女子たちは顔を見合わせ、肩を揺らして去っていった。笑い声が廊下に残る。静は貼り紙を見上げたまま動かなかった。
そのとき、廊下の向こうで、別の笑いが起きた。さっきより近い。濃い。
「おい、落ちこぼれ。第3行けよ」
「相談してこいって。良さ持って来いだってさ」
「良さって何? 遅刻の記録?」
靴音が数人分。壁に寄りかかる気配。通せんぼする気配。
静は音の方へ歩いた。曲がり角の手前で、足を止める。
見えたのは、教室の前の狭い廊下。男子が三人。輪の中心に、背の低い少年が立っている。手にプリントを握りしめ、指が白い。視線は床。肩が内側にすぼんでいる。
「なあ、偏差値いくつ? 言ってみ」
「言えない? あ、二桁?」
「やば。存在が赤点」
少年は何も返さない。返した瞬間に何かが増えるのを知っているみたいに、口を閉じている。
静の足元で、床板が小さく鳴った。
男子の一人が顔を上げる。静を見て、口元を歪めた。
「あ、先生。第3の」
別の一人が笑う。
「先生、こいつ連れてってよ。処理して」
「処理、って言葉好きだよね」
静の声は落ち着いていた。けれど、廊下の空気が少し固くなる。
少年は静を見ない。プリントだけを握る。紙がくしゃ、と鳴った。
男子が肩をすくめる。
「冗談じゃん。先生、真面目」
「冗談って、誰が笑うやつ?」
「みんな」
「本人は?」
静が少年の方を見た。少年は喉を動かしたが、声は出ない。
静の脳裏に、黒川の声がよぎる。――トラブルを起こす前に処理しろ。責任はあなたが取る。
ここで割って入れば、面倒は増える。記録も増える。保護者も呼ぶことになるかもしれない。明日、教頭室に呼ばれる未来が簡単に想像できる。
静は一歩、踏み出しかけて止まった。
少年が、ほんの少しだけ視線を上げた。静と目が合いそうで、すぐ逸れた。助けを求めるとも、拒むとも言えない速さで。
「……先生?」
男子の一人が、静の沈黙を面白がる。
「何、説教? 進路の話? こいつ進路ないっしょ」
静は息を吸い、吐いた。口の中に埃の味が戻る。
「進路が“ない”生徒は、この学校にはいない」
「きれいごと」
「きれいごとじゃない。手続きの話」
静は少年の手元のプリントを顎で示した。
「それ、何」
少年が答える前に、男子が奪うように覗き込んだ。
「追試のお知らせだって。うわ、また?」
「返して」
少年の声は小さかった。やっと出た声が、廊下に落ちる。
男子が紙をひらひらさせる。
「追試、追試。第3行って相談しろよ。良さ持って」
静の指が、自然に伸びた。紙を取るのではなく、男子の手首の前で止める。触れない距離。触れたら問題になる距離。
「返しな」
短い言葉だった。男子の笑いが一瞬止まる。
「先生、怒ってる?」
静は答えない。視線だけで促す。
男子は舌打ちして、プリントを少年の胸に押し付けた。紙がぐしゃりと音を立てる。
「はいはい。正義の先生」
三人は肩をぶつけ合いながら去っていった。笑い声が遠ざかる。廊下に残ったのは、少年の荒い呼吸だけだった。
静は少年と向かい合う。名札が見える。名字は読めないほど擦れている。
「……名前」
少年の指が名札を押さえる。
「……宮田」
「宮田、何年」
「二年」
静は頷いた。追試のお知らせの紙を見た。教科は数学。日時が赤で丸されている。
「追試、いつ」
「明日」
「今、帰る?」
宮田は首を横に振った。首だけが動いて、体は動かない。
「……部活、ない」
「じゃあ、時間ある」
宮田はプリントを折り直そうとして、手がうまく動かない。紙の角が揃わない。
静は言い方を選ぶみたいに、一拍置いた。
「第3、来る?」
宮田の目が廊下の端を見た。さっきの三人が消えた方向。戻ってくるかもしれない方向。
「……行ったら、また言われる」
「言う人はいる。止められない」
静は扉の方を指差した。薄暗い入口。目立たない場所。
「でも、ここにいると、もっと言われる。あなたが今できるのは、場所を変えること」
宮田は唇を噛んだ。噛んだ跡が白くなる。
「……先生、俺、頭悪い」
静はその言葉を拾わなかった。追試の日時を指でトン、と叩く。
「明日の追試、落とすと補習。補習は部活もバイトも削れる。家がうるさいなら、余計に詰む」
宮田の指がプリントの赤丸をなぞった。
「……うち、金ない」
「知ってるふりはしない。だけど、金がないなら、落とせないところを先に押さえる」
静は宮田の横に立ち、歩き出す速度を合わせた。先に行かない。背中も押さない。
「来るなら、今。誰もいないうちに」
宮田は一歩だけ動いた。次の一歩が遅い。けれど止まらない。
静は廊下の掲示板の前を通る。貼り紙の「キモ」の文字が目に入る。消しきれない跡。黒川の言葉みたいに、残る。
扉の前で静が鍵穴に手をかけたとき、背後から声が飛んだ。
「先生、まだ残ってたんだ。第3」
相沢陸が階段下から顔を出していた。バイトに行ったはずの時間なのに、制服のまま。
「どうした」
相沢は宮田を見て、目を少しだけ見開く。
「……その人、誰」
「今日の最初の相談者」
相沢は鼻で短く笑った。笑い方が、さっきと違う。
「来たじゃん。貼り紙、効いてる」
静は扉を開け、宮田に目で中へ促した。
「相沢」
「はい」
「五分でいいって言ったよね」
相沢は返事をせず、廊下の奥を一度だけ振り返った。誰かに見られていないか確かめるみたいに。そうして、ゆっくりと扉の方へ歩いてきた。
第3進路室の扉が閉まると、廊下の音は薄い膜を一枚挟んだみたいに遠のいた。
宮田は入口の近くに立ったまま、部屋の暗さに目を慣らしている。相沢は机の脚が曲がったほうを見て、口を尖らせた。
「……ほんとにここでやんの。雰囲気、倉庫じゃん」
静は窓を少し開けた。冷たい空気が入って、埃の匂いが少しだけ散る。
「倉庫でも、話はできる」
「話って、何話すんすか」
相沢が宮田を見た。宮田は名札を指で押さえたまま、視線を落とす。
「追試、なんすか」
宮田が小さく頷く。
相沢は鼻で笑いそうになって、途中で止めた。笑ったら、さっき廊下で言ってた連中と同じになるのが分かってる顔だ。
「……数学?」
宮田がプリントを差し出す。静は受け取らず、机の上を指で叩いた。
「置いて。自分で」
宮田はプリントを机に置いた。紙が少し震える。相沢が覗き込む。
「明日じゃん。やば」
「やばいのは、明日だけじゃない」
静は椅子を二脚引っ張った。片方は軋み、片方は脚がガタついた。静はガタつくほうを自分で座って確かめ、少しだけ位置をずらして安定させる。
「宮田、座れる?」
宮田は椅子に手をかけ、腰を下ろした。背中が丸い。
相沢は座らず、窓際にもたれた。
「先生、これ、どうすんの。勉強教えるんすか」
「教える時間はない」
相沢が即座に突っ込む。
「ないのに?」
「ないから、やり方を変える」
静は宮田のプリントの赤丸を指先で押さえた。
「明日の追試は、満点を狙わない。合格点を取る」
宮田が顔を上げる。
「……合格点」
「学校の追試は、合格点がある。そこだけを取りにいく。全部分かる必要はない」
相沢が首を傾げる。
「それ、ズルくない?」
「ズルじゃない。戦略。時間と体力は有限」
宮田の指がプリントの教科名をなぞった。
「……俺、何からやれば」
静は机の引き出しを開け、コピー用紙を一枚出した。裏紙だ。片面に去年の行事予定が印刷されている。
「宮田。今、分かるところだけ書いて。計算でも、公式でも、なんでも」
「……分かるところ、ない」
「ある。知らないって言うのは、探してないだけのことが多い」
相沢が小さく笑った。
「さっき俺に言ったやつだ」
静は相沢を見ない。
「相沢は黙って見てて。口出すなら、手も動かす」
「はいはい」
相沢は窓際から離れ、もう一枚の椅子を引いた。脚が少し鳴る。
宮田は鉛筆を握り直した。芯が短い。紙に触れるまでが長い。
静は待った。急かさない。秒針の音のほうが先に進む。
やっと、宮田が書いた。
「……九九」
相沢が思わず吹き出しそうになって、咳払いに変えた。
「それは、まあ……」
宮田の肩が縮む。
静は相沢に目だけを向けた。相沢は口を閉じる。
「九九は武器。計算問題で落とさない。次」
宮田が鉛筆を動かす。今度は少し早い。
「……一次方程式、ちょっと」
「ちょっとでいい。ちょっとを確実にする」
静は紙の端に線を引き、二つの欄を作った。
「左に“できる”。右に“落としやすい”。宮田、思いつく順で埋める」
宮田は頷いた。相沢が覗き込んで、ぼそっと言う。
「先生、こういうの、普通の進路室でやんないっすよね」
「普通の進路室は、志望校の偏差値表を出す」
「ここは?」
「落ちないための手順を出す。落ちたら志望校以前だから」
相沢は口を尖らせたまま、机の上のプリントを指で弾いた。
「でもさ。追試通っても、成績は変わんないっしょ」
「変わるよ」
静は短く言った。
「追試を通ると、“留年の可能性”が下がる。留年が下がると、出願できる学校が増える。就職票を出せる時期も守れる。全部つながってる」
宮田の鉛筆が止まった。静の言葉を、紙の外で受け止めている顔。
相沢が鼻で息を吐く。
「現実、現実って感じ」
「現実が嫌なら、もっと嫌な現実が来る」
相沢は何か言い返そうとして、言えなかった。代わりに、机の角の埃を指でこすって、灰色にした。
宮田が小さく言った。
「……先生、俺、追試落ちたら、家、やばい」
静は「大丈夫」とは言わない。プリントの赤丸をもう一度押さえた。
「落ちる前提で話そう。落ちたら、補習。補習で帰りが遅くなる。家に言い訳が必要」
宮田が顔をしかめる。
「……言い訳、できない」
「できないなら、事実を短く言う。『補習になった。これを終えないと進級できない』。それ以上は言わない」
相沢が眉を上げた。
「それで通る?」
「通らない家もある」
静は言い切った。宮田の指が紙を握り直す。
「通らないなら、学校側からも言う。担任に連絡する。必要なら私も電話する」
宮田が静を見る。目が少し揺れる。
「……そんなの、してくれるの」
「して“いい”範囲でやる。全部はできない。けど、やらないよりはマシ」
相沢がぽつりと言う。
「先生、教頭に怒られるやつ」
静の口元がわずかに動く。笑いにはならない。
「怒られるのは慣れてる」
そのとき、廊下の方で、足音が止まった。扉の前。気配が一つ。
相沢が身を固くする。
「……またさっきのやつら?」
静は椅子から立ち上がらず、声を落とした。
「宮田、気にしないで書いて」
宮田は鉛筆を動かそうとして、手が止まる。相沢が扉を見たまま、唇を噛む。
ノックはない。代わりに、取っ手がゆっくり下がった。
静は息を吐いた。自分にだけ聞こえる程度の声で。
「来なくていい。無理に来るな。逃げ道は——私が作る」
扉が開いた。
夕方の光が細く差し込み、埃がきらりと舞う。その光の中に、制服の影が立っていた。
「……すみません」
女子の声だった。小さいのに、芯がある。
静は椅子に座ったまま、目だけで相手を見る。
「どうぞ。名前」
女子は扉の縁を握って、指を白くした。
「……吉岡。三年です」
相沢が思わず声を漏らす。
「三年?」
宮田も顔を上げた。静は頷いただけで、余計な驚きを見せない。
「吉岡。ここ、何しに来た」
吉岡は一歩だけ中に入って、扉を半分閉めた。廊下の音がさらに遠のく。
「貼り紙……見ました」
「良さ、持ってきた?」
吉岡は鞄の口を開け、何かを探す手を止めた。代わりに、喉を鳴らす。
「良さ、じゃなくて……お願いが」
静は机の上の紙をどけ、空いた場所を作った。
「お願いは、現実に落とせる形で聞く。座って」
吉岡は椅子に腰を下ろした。膝が揃って、背筋だけが妙に真っ直ぐだ。
「先生、私……進路、決めなきゃいけないのに、家が……」
言い終わる前に、廊下のスピーカーが低い音を立てた。職員室からの放送の前触れ。黒川の声が乗ることもある、あのスピーカー。
静は視線を上げずに言った。
「続けて。止めない」
吉岡は唇を開いた。指先が鞄の取っ手を強く握り直す。
「……家が、進学、無理だって」
相沢の目が静に向く。宮田の鉛筆が、紙の上で止まったまま。
静は頷き、机の上のペンを吉岡の前に置いた。
「じゃあ、今から“無理”の中身を分解する。期限は近い。今日ここで、ひとつだけ決める」
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