第0話 忘却のおかん
うちに人が来る日は、だいたい決まっていた。玄関の靴が増える。紙袋が増える。誰が来るかを、私は先に知らされない。知らされないが、困らない。困らないように、全部が進む。
「これ、捨てるだけですから」
おかんは、そう言って袋を差し出す。言い方は毎回同じだった。相手が遠慮する前に、理由を置く。理由は軽い。捨てる。場所を取る。古い。どれも責任を伴わない。
袋の中身は、いつもきれいだった。ブルーのラベル。見たことのある文字。私は値段を知らなかった。知る必要もなかった。
「外商が優先的に教えてくれるから」
相手が驚いた顔をすると、おかんは続ける。
「バーゲンで三割なんですよ。そこらで買うより安いでしょ」
相手は笑う。受け取る。礼を言う。声は軽くなる。重さは残らない。
後日、箱が届く。中身はクッキーだった。和泉屋。包装はきちんとしているが、仰々しくはない。
「ああ」
おかんは箱を見る。
「これ、うちの子の大好物なんですよ。ありがとうございます」
言い切る。大好物かどうかは、私には分からない。だが、その場では事実になる。相手は安心する。返せた顔をする。
私は横で、それを見ている。何かが完了した感じだけが残る。説明はない。
ある日、エアガンが二丁あった。理由は、すぐに出てきた。
「一緒に遊ぶのに、あの子にも必要だろうし」
友達の女の子は目を輝かせる。私は新しい方を渡される。古い方は、女の子の手に収まる。古いと言っても、半年前に買ったばかりの電動エアガンだ。新品同様と言ってもいい。
「うおお! お前の母さん、神すぎ」
その言葉は、冗談みたいに出た。だが、訂正されなかった。
「いつもうちの子と遊んでくれてありがとうね」
おかんは、もう別の話をしている。誰も損をしていない。誰も借りを作っていない。遊びは始まる。
友達の母が言う。
「いつもお世話になって」
おかんは笑う。
「捨てるだけですから」
それ以上は言わない。過去も未来も、持ち出さない。
家に戻ると、何も残っていない。紙袋も、箱も、説明も。残っているのは、遊んだ記憶と、新しいエアガンだけだ。
私はそれを、特別だとは思わなかった。いつものことだったからだ。特別でないことが、特別だったのだと知るのは、ずっと後になる。
おかんは、何も教えなかった。正しさも、考え方も。やっていることだけが、繰り返された。繰り返されるうちに、関係が続いた。続くこと自体が、成果だった。
「気にしないで」
そう言われた記憶は、ない。
「捨てるだけですから」
それだけだった。
その言葉の軽さが、重いものを動かしていたことを、私は当時、知らなかった。
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