第8話 給料日の口論
給料日の通知は、思っていたより静かに届いた。アプリを開き、入金額を確認する。いつも通りの数字だった。増えてもいないし、減ってもいない。私はそれを、安定と呼ぶことにしている。
利息込みの返済額を計算した。自費出版の借金と、その他の分。数字を順番に引いていくと、残る金額は少なかったが、ゼロではなかった。ゼロでない、という事実は重要だ。可能性が残っている。
私はそのまま、彼女に通話をかけた。こういう話は、勢いがいる。考え直す前に、共有したほうがいい。
「給料日だった」
彼女は「ふうん」と返した。声は平坦だった。私は続けた。返済額、利息、残った手取り。その数字を、できるだけ分かりやすく説明した。数字は誠実だ。感情を裏切らない。
「でさ、これ見て」
私は画面を見ながら話した。残った金額を、別の計算に回す。二冊目の算段だ。印刷費、表紙、少しの広告。無謀ではない。少なくとも、完全に無計画ではない。
「二冊目、いけると思うんだよね」
私は少し得意げだった。自分でも分かる。だが、それは浮かれているというより、筋が通っている感じだった。借金はあるが、前に進んでいる。そういう物語だ。
沈黙があった。短くはなかった。
「……は?」
彼女の声が低くなった。私は聞き返そうとしたが、止めた。聞き返すと、火に油を注ぐことがある。
「ちょっと待って」
彼女は早口になった
「今さ、借金あるって言ったよね? 利息払って、ギリギリって言ったよね?」
私は否定しなかった。否定できる内容ではない。
「それでさ」
彼女の声が上がる。
「それで、次の本の話になるの、意味分かんないんだけど」
意味は分かっている。投資だ。将来への布石だ。だが、その言葉は、今ここで使うと逆効果になる。
「これはさ」
私は言葉を選んだ。
「生活と創作を切り分けないといけない話で」
彼女は笑った。短く、乾いた笑いだった。
「切り分ける? なにそれ」
彼女の声が震え始める。
「じゃあさ、私が今月仕事減ってるのも、切り分ければいいの? 不安になるのも、感情だから切り分けるの?」
私は感情の話に引きずられないようにした。ここで感情に応じると、話が壊れる。
「不安になるのは自然だよ」
私はそう言った。
「でも、それで全部止めるのも違う」
その瞬間、空気が変わった。
「違うって何? 何が違うの?」
彼女の声が一段高くなる。
「結局さ、あんたの中では全部正しいんでしょ。借金も正しい、次の本も正しい、私がキレるのは感情的」
私はそう整理していない。だが、そう聞こえる可能性は理解できた。
「私さ」
彼女は息を吸った。
「将来の話してるつもりなんだけど」
将来、という言葉が出た瞬間、私は少し身構えた。将来は、道徳論が一番強く出てしまう領域だ。
「将来のために」
私は言った。
「今やるべきことをやってるだけで」
「それ」
彼女は遮った
「それがもう無理」
沈黙。
「全部、理屈! 全部、綺麗事! 全部、俺は理解されていないって!」
彼女の声が少しだけ下がる。
「私が怖いって言ってるのに! 数字とか、算段とか! ほんと、話通じない!」
私は反論しなかった。反論は可能だった。道徳論も、正当化も、準備はできていた。だが、ここで出すのは誠実ではない。少なくとも、自分ではそう判断した。
「もういい」
彼女はそう言った
「今日は無理」
通話が切れた。切り方は乱暴ではなかった。だが、余韻が残った。
私はもう一度、残った手取りを計算した。数字は変わっていない。現実も変わっていない。だが、さっきまで前に進んでいると思っていた感覚だけが、少し揺らいだ。
給料日は、祝日ではない。確認日だ。私はそう思っている。確認した結果、可能性はまだある。だが、その可能性を誰と共有できるかは、まだ分からなかった。
スマートフォンを伏せると、部屋は静かだった。数字は正しい。理屈も通っている。それでも、何かを失った気がした。その正体は、まだ定義できなかった。
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