第9話 成功と入金条件
通知が来たのは、昼過ぎだった。知らないSNSの名前で、購入完了のお知らせと書いてあった。私は少し迷ってから、通知を開いた。自分の記事が売れた、という事実だけが先に目に入った。
金額は三百円だった。少ないが、ゼロではない。私はそれを、進展だと解釈した。評価の形は、いつも小さい。最初から大きいことは、あまりない。
私はすぐに彼女に通話をかけた。こういう話は、早めに共有したほうがいい。成功は、時間が経つと色あせる。
「記事、売れた」
彼女は一瞬、間を置いた。「え」と言って、少し声が上がった。私はその反応に、わずかに安堵した。
「ほんと? すごいじゃん」
その言い方は、いつもより柔らかかった。私は購入されたSNSの画面を見ながら、簡単に説明した。どういう記事で、どんな人が買ったのか。数字は三百円だが、意味はそれ以上だ。
「こういうのが積み重なればさ」
私は少し得意げだった。
「ちゃんと形になると思うんだよね」
彼女は黙って聞いていた。否定はなかった。ため息もなかった。その沈黙は、悪くない沈黙だった。
「で」
私は続けた。
「入金条件があって」
この「で」は、余計だったかもしれない。
「合計一万円以上にならないと、振り込まれないらしい」
少し間があった。私は条件の話を、できるだけ淡々と説明した。仕組みの問題であって、価値の問題ではない。そういう整理だ。
「三百円ってことは」
彼女が言った。
「あと、何回売れたらいいの?」
私は頭の中で計算した。答えは、簡単だった。
「三十四回くらい」
沈黙。
「……は?」
彼女の声が低くなった。私は慌てて補足しようとしたが、言葉が重なった。
「ちょっと待って」
彼女は早口になる。
「今さ、それで自慢してたの?」
自慢、という言葉が刺さった。私は自慢のつもりではなかった。報告だ。共有だ。だが、その違いは、説明しないほうがいい。
「これはさ」
私は言った。
「流れの話で」
「流れ? 結局、今いくら入るの?」
私は答えた。
「今は、入らない」
空気が一段、冷えた。
「それさ」
彼女の声が震え始める。
「入るかどうか分かんない金でしょ」
私は否定できなかった。可能性の話だ。未来の話だ。だが、彼女は未来ではなく、今を見ている。
「ねえ」
彼女は続けた。
「結婚とか、全然無理じゃない?」
その言葉は、予告なしに来た。私は一瞬、言葉を失った。結婚は、まだ話題にしていない領域だと思っていた。
「無理だよ」
彼女は畳みかける。
「三百円で喜んで、入金もされなくて、それで将来とか言われても」
私は感情に引きずられないようにした。ここで感情に応じると、話は破裂する。
「これは一歩だよ」
私は言った。
「小さいけど、前に進んでる」
「前ってどこ? どこに向かってるの?」
彼女の声が高くなる。
「私さ」
彼女は息を吸った。
「現実の話してるんだよ」
現実。その言葉は、何度も出てきた。現実は一つだと思っていたが、どうやら複数あるらしい。
「現実って」
私は言いかけて、止めた。定義の話になりそうだったからだ。
「もういい」
彼女は言った。
「ほんと、無理」
通話が切れた。切り方は速かった。ためらいはなかった。
私は購入画面をもう一度見た。三百円。入金条件。一万円以上。数字はさっきと同じだ。現実も同じだ。だが、さっきまであった手応えだけが、消えていた。
成功は、条件付きでやってくる。条件は、たいてい後から表示される。私はそれを、仕組みの問題だと理解している。だが、彼女にとっては、生活の問題だった。
スマートフォンを伏せると、部屋は静かだった。通知は消えない。購入は取り消されない。関係だけが、また一歩、動かなかった。
私はそのことを、失敗とは呼ばなかった。だが、成功とも呼べなかった。どちらでもない状態が、一番長く続くのだと、どこかで分かっていた。
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