第5話 他愛無い配信の日で
配信を始めたのは、通話がない日だった。彼女と話さない日は、時間が余る。その余った時間をどう使うかで、その日の調子がだいたい決まる。私は配信を選んだ。
タイトルは少し長くした。
「感情論と道徳の違いについて」
釣りだと思われても構わなかった。どうせ、来る人は限られている。来る人は、だいたい同じ顔ぶれだ。
話し始めると、言葉は自然に出てきた。感情は否定しない。だが、感情が判断を支配するのは危険だ。倫理とは、個人の気分を越えて成立する枠組みだ。私はそういう順番で話した。順番が大事だと思っている。
コメント欄は静かだった。たまに、同意のスタンプが流れる。それを見ると、正しく伝わっている気がした。数字は多くないが、質は悪くない。私はそう判断した。
途中で、見覚えのある名前が入ってきた。別の配信者だ。リアリズムを売りにしている人で、政治や社会の話をするときも、数字と事例を先に出すタイプだ。私は彼の配信を、何度か見たことがある。
彼は挨拶だけして、しばらく黙っていた。私はそのまま話を続けた。道徳論は、現実から乖離していると言われがちだが、実際には現実を整理するための道具だ。私はそう説明した。感情を尊重することと、感情に従うことは違う。その違いを曖昧にすると、社会は壊れる。
コメントが一つ流れた。
「それって、具体的にはどういうケースですか」
彼の名前だった。私は少し間を置いた。具体例は、話を消耗させる。消耗した先に、理解があるとは限らない。だが、無視するのも不誠実だ。
「例えば、炎上とかですね」と私は言った。
「感情が先行して、事実確認や責任の所在が曖昧になるケースです」
無難な答えだと思った。
彼は「なるほど」と返した。それ以上は突っ込まなかった。突っ込めば、別の配信者の土俵になる。彼はそれを分かっている人だ。私はそう感じた。
私は話を続けた。道徳論は、誰かを黙らせるためのものではない。むしろ、黙るべき場面を判断するための基準だ。感情をぶつけることが誠実だと信じている人は多いが、誠実さはしばしば自己満足に変わる。
コメント欄が少しざわついた。反応が増えると、話している内容が正しい方向に刺さっている気がする。私は声のトーンを一定に保った。感情を乗せないことが、この話の条件だ。
彼はもう一度だけコメントした。
「感情を扱わないと、現実が見えなくなる場合もあると思いますが」
丁寧な書き方だった。否定ではない。私は一瞬、言い返したくなった。現実と感情を混同するな、と。だが、その言葉は配信向きではなかった。
「もちろん、感情は現実の一部です」と私は言った。
「ただ、それをどう扱うかは、別の問題です」
それ以上は踏み込まなかった。踏み込めば、論点が増える。
彼はそれで引いた。
「勉強になります」
そう書いて、しばらくして退出した。気を遣ったのだと思う。彼なりの誠実さだ。私はそれを、ありがたいと思った。
配信を続けながら、私は少し物足りなさを感じていた。反論が弱い。論争にならない。論争にならなければ、道徳論は完成しない気がする。だが、完成しないほうが安全だとも分かっていた。
彼女はいなかった。彼女に向けて話しているわけでもなかった。それなのに、私はどこかで、彼女に聞かせるつもりで話していた気がする。そう思った瞬間、その考えを打ち消した。
配信を終えると、数字が表示された。いつも通りの数字だった。成功でも失敗でもない。私はその数字を、正当な評価だと受け取った。
配信を切ったあと、部屋は静かだった。誰も怒っていない。誰も泣いていない。何も壊れていない。その状態を、私は良い状態だと判断した。
スマートフォンを手に取ると、通知はなかった。彼女からも、誰からも。私はそれを確認し、机に戻した。今日は、正しい話ができた気がした。それで十分だと思うことにした。
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