第12話 帝国最高家門ペンタリス

 ペンタリス公爵家――それは、皇室を支える皇帝派の筆頭にして、影響力と資産は皇族すら凌ぐとされる、帝国最古の大貴族である。


 広大な領地の運営に始まり、鉱山業、不動産開発、海上交易、鉄道網の敷設――そして、帝国最大の商団〈ペンタリス商団〉の統括に至るまで、この帝国において、ペンタリスの息がかかっていない分野は存在しないと言っても過言ではなかった。


 ――ペンタリス公爵家本邸、パトリシアの私室の一角。


 天井の高いその部屋には、昼下がりのやわらかな光が大きな窓から差し込み、レースカーテンを静かに照らしていた。


 パトリシア・ペンタリスは、この春にアカデミーへ入学した、ペンタリス公爵家の長女である。


 絹糸のように滑らかなプラチナブロンドの髪と、琥珀にも黄金にも見える、あたたかな瞳を併せ持つ希有な存在。


 その神秘的な美貌と気品は、デビュタントと同時に社交界に瞬く間に知れ渡り、いまや舞踏会や茶会では、彼女の名を口にしない者はいない。


 人々はその現象を、半ば熱狂的に――「パトリシア旋風」と呼んでいた。


 そんな彼女はいま、専属侍女のエメラルドとともに、ある計画に向けて、変装の真っ最中である。


「ま、ま、まぶしいぃぃぃ!!」


 エメラルドは思わず、深緑の瞳を両手で覆った。


「町娘の服装と、その高貴なお顔のミスマッチ……逆に、破壊力がとんでもないことになっていますわ!」


「あら、エメラルドだって人のことは言えないわ。そんな地味な格好をしていても、信じられないくらい美しいもの」


 二人は朝からこんな調子で大騒ぎを繰り広げていた。すべてはパトリシアのこの一言から始まったのである。


 ――「わたし、金樽亭きんたるていに行ってみたいわ」


 金樽亭とは、肉汁滴るジューシーな腸詰めと、苦みのきいたエールが最高だと評判の、庶民的な酒場であった。


 帝国一の大公爵家の令嬢が訪れるような場所では、到底なかった。だが、言い出したら聞かないのが、パトリシアの性分である。


 過保護な公爵もついに折れた。


 ただし条件がひとつ――専属騎士であるケンジ卿と、その父にして公爵家直属騎士団の団長、ケンシロウ・エクスカリバーを、必ず同行させること。


 こうして、前代未聞の外出計画が幕を開けたのであった――。


「お嬢様、ご心配には及びません。こうなることは予想しておりましたので、ほかにも準備しているものがございます」


 エメラルドが取り出したのは、ぼさぼさに乱れたウィッグが二つと、地味な眼鏡が二つ。


「さぁ、お嬢様。黒髪と栗色の髪、どちらをお選びになりますか?」


「そうねぇ、どちらも素敵だけれど……じゃあ、瞳の色に近い栗色にするわ」


 パトリシアは栗色のウィッグをかぶり、エメラルドも艶やかな深緑の髪を黒髪のウィッグのなかに収めた。


 続いて眼鏡を装着するが、エメラルドがすかさず手を伸ばす。


「お嬢様、眼鏡はきちんとかけるのではなく、こうして……少しだらしなく、ずり下げてお召しになるのがよろしいかと」


 そう言って、エメラルドはそっと眼鏡を下げた。


 巨大な鏡に映った自分の姿を目にしたパトリシアは、思わず声を上げる。


「まあ! 苦労はしたけれど、これなら確かに、庶民に溶け込めそうだわ!」


 エメラルドもまた、自身の変装を整えると、鏡の前で軽くポーズを取った。


「私たち、ついにやり遂げましたね!」


「ええ! わたしたちは庶民よ!」


 二人は思わず顔を見合わせ、笑いながら手を取り合ったのだった。


 ――そこへ、トントンと控えめなノックが響いた。


「どなた?」


 エメラルドが声をかけると、扉の向こうから張りのある男性の声が返る。


「騎士団団長、ケンシロウ・エクスカリバー、並びに団員ケンジ・エクスカリバー、ここに参上いたしました!」


「入って」


 パトリシアがそう告げると、扉の前でわずかにためらいが生じた。


 それはまるで”自分のようなむさくるしい人間が、この聖域に足を踏み入れてよいのか”――そんな思いを抱えた気配だった。


 やがて重々しく扉が開き、二人が姿を現す。


「失礼いたします。お迎えに上がりました」


 パトリシアは二人の姿を一瞥すると、すぐさま言い放った。


「……お二人とも、全然だめですわね」


 ケンシロウもケンジも、庶民の店に同行するため傭兵風の装いをしていた。


 だが、先ほどのパトリシアとエメラルドと同じ現象が起きていたのである。


 精悍で整った顔立ちはどう取り繕っても隠しようがなく、特にケンシロウは全身から尋常ならざる覇気を放っていた。


 それは一介の傭兵どころか、まるで戦場を支配する将軍のような存在感――これでは庶民の酒場で目立たぬはずがない。


「困ったわねぇ」


 どうしても金樽亭に行きたいパトリシアは、腕を組んでうーんうーんと唸り始めた。


「……全然だめ、とは?」


 ケンジは戸惑いながら切れ長の目を父に向け、ケンシロウもまた困惑しつつ、大きな体を縮こまらせた。


 その様子にエメラルドがポンと手を叩いた。


「それですわ! お二人とも、そのまま姿勢を崩してみてください! うつむいて背中を丸め、膝を少し曲げて……ええ、そんな感じで歩いてみてください!」


 エメラルドの提案に、大男ふたりは素直に従った。


「こ、こうですか?」


「なんだか背中が痛いです……」


「まぁ! うってかわって庶民感が出ましたわ! 今日はこれで行きましょう!」


 こうしてパトリシア一行は、金樽亭へと出発したのであった。



***



 馬車を降りるころには、ちょうど陽が西の空に沈みかけていた。


 帝都の石畳は赤銅色に染まり、長い影を引いた行き交う人々の足音が、にぎやかなざわめきと溶け合っていた。


「なんだか新鮮な気分だわ」


 パトリシアは琥珀の瞳を輝かせ、町娘の姿に扮しながら胸を高鳴らせていた。


 金樽亭は、帝都の下町でもひときわ賑わう通りにあった。


 夕刻ともなれば、あちこちの店から香ばしい匂いが漂い、酒を片手に大声で笑い合う男たちの姿も見える。


 やがて、木製の大きな看板が目に入った。金文字で「KINTARUTEI」と彫られたその看板は、夕日に照らされて輝いている。


 扉を開ければ、そこは別世界だった。


 中は煙と香ばしい肉の匂いでむせかえるほど。


 木のテーブルが何列も並び、酒瓶とジョッキが行き交い、客たちの笑い声が絶え間なく響いている。


 厨房からは「はいよ! 腸詰め追加三皿!」という元気な声が飛び、焼き上がったばかりの腸詰めの油が弾ける音が聞こえてきた。


「すごい! これが、庶民の酒場……」


 パトリシアは思わず息をのんだ。高貴な令嬢の目に映る、初めての世界。


「おおっ、新顔さんだな! ようこそ〈金樽亭〉へ!」


 丸太のような腕をした店主が、笑顔で両手を広げた。


 年季の入った白いエプロンには油と肉汁の染みが散っているが、その笑顔は太陽のように明るい。


「さあさあ、奥の席が空いてるぜ! お嬢さん方も遠慮はいらねぇ。飲んで食べて、楽しくやってくだせぇ!」


 客たちからも「おう、座れ座れ!」「ここの腸詰めは絶品だぜ!」と温かい声が飛ぶ。


 ジョッキを掲げる者も現れ、にわかに歓迎の空気に包まれた。


 パトリシアは胸をときめかせながら席に案内される。


「……まあ! 歓迎してくださっているわ」


 琥珀の瞳が嬉しさにきらめいた。


 エメラルドも眼鏡を直しつつも、頬をわずかに紅潮させる。


「お嬢様、まるで夢のようですわね。私たちが庶民の中に混じっているなんて……」


 こうしてパトリシア一行は、帝都でもっとも庶民的で、そして熱気に満ちた酒場〈金樽亭〉に無事迎え入れられた。


 ほどなくして、先ほどの店主の奥方らしき女性が明るい笑顔で近づいてきた。


「ご注文は?」


「では、金樽亭のおすすめを、テーブルいっぱいに並べてくださる?」


 パトリシアが満面の笑みで告げる。


「あいよっ!」


 女性は待ってました! とばかりに声を弾ませ、勢いよく厨房へ駆け戻っていった。


 しばらくすると、木のテーブルの上があっという間にごちそうで埋め尽くされていった。


 泡がこんもり盛り上がった木の樽ジョッキのエール。


 金樽亭自慢の腸詰めは香ばしくはじける音を立て、燻製肉の盛り合わせからは深い香りが立ちのぼる。


 骨付き肉のローストは肉汁が滴り、巨大なチーズの塊が堂々と鎮座する。


 黒パンのかご、ぐつぐつ煮込まれたシチュー、彩り豊かなピクルスの盛り合わせ、胡椒たっぷりのキノコ串、そしてにんにくの丸揚げ……。

 

 庶民の力強さを象徴するような料理が、次々と運ばれてきた。


「まぁ、すごいわ……!」


 パトリシアの瞳が興奮で輝き、エメラルドも感嘆の声をあげた。


 さらにエメラルドが追加で頼んでいた葡萄の果実水も運ばれ、準備は整った。


「さあ、乾杯しましょう!」


 パトリシアの号令で、四人はジョッキとグラスを力強く打ち合わせた。


 ゴツンと響く音とともに、庶民の活気に満ちた宴が、いま幕を開けたのであった。


 パトリシアは泡がたっぷりと盛られた木のジョッキを、両手で持ち上げた。


「これが庶民の飲み物、エールなのね」


 周囲の客たちは当たり前のように豪快に飲み干しているが、公爵令嬢にとっては未知の世界の飲み物だ。


 意を決して口をつけると———。


「……! に、苦いっ!」


 パトリシアは思わず目をまん丸にし、肩をびくりと震わせた。


「お嬢様、大丈夫ですか?」


 慌てるエメラルドに、パトリシアはふっと笑みをこぼす。


「でも……なんだか、不思議と悪くない味だわ!」


 ケンシロウが「最初は苦いものですが、慣れるとやみつきになるんです」と言ったかと思うと、次の瞬間には、大きな喉仏と分厚い胸筋を上下させながら、息つぎひとつせず豪快に飲み干した。


「かーっ! 筋肉にしみる!」


 その迫力に圧倒される間もなく、隣でケンジもまた木のジョッキを口へ運び、父に倣うように一気に喉へ流し込む。


「おかわりぃ!」


 香ばしく焼かれた腸詰めにフォークを入れると、ぱりっと音を立てて皮がはじけ、中から熱々の肉汁がじゅわっとあふれ出した。


 立ちのぼる湯気の香りに、パトリシアは思わず目を細める。


「なんて良い香り!」


 口に運べば、肉の旨みとスパイスの刺激が舌の上ではじけ、エールの苦みと不思議なほどよく合う。


「お嬢様……これ、本当に美味しいですわ!」


 エメラルドも頬を紅潮させながら夢中でフォークを動かしている。


 その横でケンジは、肉汁が滴る骨付き肉にかぶりつき、幸せそうな顔をしていた。


ケンシロウは大きな手で燻製肉を手際よく切り分け、チーズと黒パンを添えて、豪快に口へ運んだ。


「うむ……うまい!」


 笑い声と香ばしい匂いが満ちる中、帝国最高家門の令嬢と帝国最強の騎士たちは、すっかり庶民の宴に溶け込み、夢中で舌鼓を打っていた。


 ジョッキは空くたびに次々と満たされ、料理はあっという間に平らげられていく。


 四人は心ゆくまで飲み、食べ、笑い――ついにはお腹がはちきれそうになるほどだった。


 気がつけば、パトリシアもエールを三杯、ワインを四杯も口にしていた。


 にもかかわらず、全員驚くほど酒に強く、酔いつぶれる気配はない。


 せいぜい、パトリシアの頬がほんのり赤く染まっている程度――それも果たして酒のせいなのか、それともこの熱気のせいなのか分からなかった。


「はぁ……もっと飲みたいけれど、お腹が苦しいわ」


 パトリシアがそうこぼすと、みなが深くうなずき合う。


 満腹のあまり、誰もが腹をせり出して椅子に身を沈め、しばし至福のため息をついた。


 ――そのときだった。隣のテーブルの声が、耳に届いてきた。


「おい、ライオネル。お前ずいぶん景気がよさそうじゃねぇか」


 その名前を耳にした瞬間、エメラルドの表情がわずかに動いた――。

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