第10話 真夜中の訪問者
アカデミーの学術大会が開かれたその夜。
シャーロットは、胸の高鳴りを抑えきれずにいた。
今日は久しぶりに、エドワードが屋敷へ帰ってくる。
部屋に戻り、食後のお茶を口にしながら時間を持て余していると、軽やかなノックの音が響いた。
「奥様、侯爵様の馬車が到着いたしました」
見張りに出ていたメリーの知らせに、シャーロットは思わず声を弾ませた。
「ありがとう!」
そう返すや否や扉を開け放ち、一目散に正面玄関へ駆けていく。
ちょうどそのとき、大扉をくぐったエドワードの姿があった。
――愛しい夫に駆け寄ったシャーロットの目に映ったのは、ひどく疲れ切った顔だった。
「ああ、シャーロット……いま帰ったよ」
それでも彼は、愛しい妻に向けて微笑みを浮かべる。
エドワードは、疲れ切っているときでさえ、こんなにも優しいというのに。
“兄上のことは、あまり信用しないほうがいい”……だなんて。
やはり、この兄弟のあいだには、埋めがたい溝があるのだろう。
「お帰りなさいませ。お食事は、召し上がってこられたのですか?」
「ああ……いや、食べずに戻ったんだ。とにかく眠りたくてね」
力なく笑う彼の姿は、痛々しいほどだった。
おそらく学術大会の準備に追われ、このところ、まともに眠れていなかったのだろう。
「まあ……本当に大変でしたのね。では今夜は、どうかゆっくりお休みください」
「ありがとう。君の顔を見られたから……きっと、ぐっすり眠れるよ」
――こんなときでさえ、わたしを気遣ってくれる。
胸が温かく満たされるその横で、メリーは幸せそうに微笑んでいた。
***
翌朝、シャーロットはメリーの慌ただしいノックの音で目を覚ました。
「奥様! メリーでございます!」
どうしたのかしら……? ずいぶん早いわね。
「入って」
声をかけると、メリーは勢いよく部屋に飛び込み、扉を閉めるや否や駆け寄ってきた。
「奥様! 大変です!」
「いったい、どうしたの?」
「また、あの女が……!」
メリーは、歯ぎしりでもしそうなほど苛立ちをあらわにしている。
「あの女って……キャロラインのこと?」
「もちろんでございます! 今しがた他のメイドから聞いたのですが……なんと、あの女が昨夜、侯爵様の寝室に入っていったらしいのです!」
「な……なんですって!」
怒りが、火柱のように立ち上がる。
「ですが、すぐに侯爵様に追い出されたようで、長居はできなかったようです」
「はぁ……」
安堵なのか、怒りなのか、自分でも判別できない吐息が漏れた。
昨日のエドワードは、見るからに疲れ切っていた。
それなのに、そんな彼を煩わせるなんて。
――許せない!
「それが、まだ続きがありまして……」
「続きですって?」
思わず、食ってかかるような声になる。
「昨夜あの女が着ていたのは……奥様のものとそっくりな、白いネグリジェだったそうでございます!」
「なんてこと……!」
夜中にネグリジェ姿で訪れるなど――それはつまりそういう行為を望んでいるということに他ならない。
「もう我慢できないわ! メリー、支度を整えてちょうだい。今すぐあの女のところへ行くわよ!」
「承知いたしました!」
シャーロットは、自宅用のドレスの中でも、もっとも華やかなものを身にまとった。
化粧も、普段は控えめにしているが、この日はメリーに頼み、あえて濃く、毅然とした印象に仕上げてもらった。
胸の鼓動はなかなか整わない。怒りが収まらず、息苦しいほどだった。
キャロラインの部屋へ向かう道すがら、シャーロットもメリーも、まるで戦場に赴く兵のように険しい表情をしている。
やがて、目的の扉の前に立った。
シャーロットは威厳を崩すまいと、ひとつ深呼吸をする。
それから、ゆっくりとノックをして名乗った。
「シャーロットよ」
扉を開けたのは、キャロライン付きのメイド――エミリだった。
花屋時代から仕えているというが、地味で控えめな女性である。
「シャーロット様、どうなさいましたか?」
部屋の奥から、キャロラインの声が返ってきた。
ちょうど化粧を終え、これから着替えようとしていたところらしい。
姿を現した彼女は、よりにもよって、あの白いネグリジェ姿だった。
しかも、シャーロットのものよりはるかに丈が短く、胸元は窮屈そうに張り裂けんばかりで、見る者の神経を逆なでする。
「朝早くからごめんなさいね。少し、話があるの」
「……なんでしょう?」
「昨夜、あなたはエドワードの寝室に行ったそうね」
「ええ、行きましたわ」
悪びれる様子もなく、さらりと答える。
「エドワードはこのところ、学術大会の準備でほとんど眠れていなかったの。ようやく休めると、昨夜は早く寝室に下がったのよ」
「……はぁ」
まるで“だから何?”と言わんばかりの態度だった。
「つまりね、エドワードは忙しい人だから、あまり困らせないでほしいの」
「……昨夜のエドワード様、別に困った顔はされていませんでしたわ」
「なんですって?」
「わたくしの姿を見て、お顔を赤らめていらっしゃいましたけど……困っているようには見えませんでした。それに……」
怒りに固まるシャーロットとメリーを横目に、キャロラインは淡々と続ける。
「エドワード様が困っているかどうかを判断できるのは、エドワード様ご自身だけですわ」
「で……でも、追い返されたんでしょう? すぐに部屋を出てきたと聞いたわよ」
「ええ。お隣に座ってワインを注いで差し上げましたけれど、『僕は酔うと記憶をなくすことがあるから、出ていってほしい』と仰ったのです」
「出ていけ、って言われたんじゃない!」
「ええ、たしかにそう仰いました。けれど、嫌そうなご様子ではありませんでした。それに、『記憶をなくすことがあるから』だなんて、とても意味深に思えましたわ」
――だめだ、この女。話が通じない!
「とにかく! 呼ばれてもいないのに、勝手にエドワードの寝室に行くなんて非常識よ!」
「なぜです?」
キャロラインは、静かに首を傾げる。
「わたしもエドワード様の妻ですのに」
「……な……」
言葉が、完全に喉で止まった。
これこそが、まさに絶句というものだろう。
キャロラインは、固まったシャーロットにさらに冷ややかに言い放つ。
「事前の連絡もなく部屋に押しかけてきたのは、シャーロット様も同じではございませんか。ご覧のとおり、わたくしはまだ着替えも終えておりませんのよ」
「……そ、そうね……わたしが悪かったわ……」
かろうじてそうつぶやいた瞬間、キャロラインは口元を歪め、まるで追い払うかのように扉を閉めた。
――完全なる敗北。
肩を落とし、よろよろと自室へ戻るシャーロットは、まるで全身の力を吸い取られたかのようだった。
言い分はことごとくかわされ、最後には自分が謝罪する羽目に……。
怒りを通り越し、悔しさから涙がにじんでくる。
部屋にたどり着くなり、シャーロットはソファに崩れ落ちた。
「いったい、あの女は何様なんでしょう!」
「しかも、あんな格好で寝室に行くだなんて!」
背後で一部始終を見ていたメリーは、怒りが収まらず、部屋の中をぐるぐると歩き回っていた。
けれど、シャーロットの胸にあるのは、怒りだけではなかった。
――やはり、彼女は魅力的だ。
これはもう、認めざるを得ない事実だった。
昨夜、エドワードはあの姿を見て、どう思ったのだろう。
キャロラインの言葉など信じたくはない。
けれど……もしかしたら、本当に迷惑だと感じていなかったのでは?
そんな疑念が、胸を締めつける。
こんなことが続けば、いつか本当に、あの女にエドワードを奪われてしまうかもしれない。
「まったく……! どうして執事様は、あんな女を連れてこられたのでしょう。人選ミスも甚だしいですわ!」
メリーはまだ落ち着きを取り戻せず、腕を組んで部屋を行き来している。
――たしかに。
あの女は、執事のチャーリーからどんな名目で屋敷に招かれたのだろう。
どのような説明を受けて、この屋敷に足を踏み入れたのだろうか。
前侯爵夫妻の目をかいくぐるためだけの存在――本来は、その程度の役割のはず。
けれどキャロラインは、まるで本気でエドワードの妻になろうとしているようだった。
いや……さきほど、自らの口で言っていたではないか。
――「わたしもエドワード様の妻です」と。
もしや……?
長らく心の奥に押し込めていた疑念が、再び浮かび上がる。
チャーリーは、わたしとエドワードがうまくいくことを、望んでいないのかもしれない。
「メリー、ただの思い過ごしかもしれないけれど……。もしかすると、チャーリーはやっぱり……」
胸の奥に抱いていた疑念を、口にする。
「確かに、それなら辻褄が合います。愛する奥様に毒を盛るような真似はしなくても、こんなふうに妨害することはできますもの!」
「それに」
メリーは、声を潜めた。
「ほかの使用人たちの噂では、このところ侯爵様と執事様のあいだには、隙間風が吹いているようだ――と」
チャーリーへの疑念を、今すぐに晴らすすべはない。
だが、あの女をこの屋敷から追い出す策を、本気で考えねばならなかった。
……しかし、それをチャーリーに相談するわけにはいかない。
「メリー、いまエドワードはどこにいるかしら?」
その一言に、メリーの表情がぱっと明るくなる。
「そうでした! 奥様には侯爵様がついておられますもの。
他の者に尋ねてまいりますね!」
そう言って、足取り軽く退室しようとする。
「あ! メリー、待って……」
確かにエドワードに頼めば、キャロラインを屋敷から追い出すことはできるだろう。けれど、それが本当に最善なのだろうか。
シャーロットの胸には、迷いが生まれていた。
「メリー、エドワードに頼むのは最終手段にしましょう。たとえあの女がいなくなっても、結局は別の誰かを屋敷に呼ばねばならないでしょうし。そうなれば……」
「はぁ」
メリーは、深いため息をついた。
「そうなれば、この由緒ある侯爵邸に、妙な噂が立ってしまいますね」
――“エドワード・ノイヴァンは女ったらし”
――“妻に愛想を尽かしているらしい”
鋭い痛みが、胸を貫いた。
そもそも、わたしが妊娠してさえいれば……。
そうすれば、エドワードだって、あんな平民を屋敷に迎える必要などなかったはず。
「これ以上、エドワードに迷惑をかけるわけにはいかないわ」
「あの娼婦のような女のせいで、奥様がこんなにもご苦労なさるなんて! 本当に胸が痛みます」
メリーがため息をつく。
彼女は、いつだってわたしの味方だ。
「……あっ! いいことを思いつきました!」
突然、メリーの顔が輝いた。
「ほかの使用人にも頼んで、交代で侯爵様の寝室を見張らせましょう!」
エドワードとシャーロットの部屋は、東棟に集中している。
二階に執務室、三階には寝室をはじめとする私的な空間が並んでいた。
「そうしてもらえると、安心だわ!」
なんとしてでも、エドワードをあの女の魔の手から守らなくては。
エドワードは、キャロラインを侯爵家の籍に入れるつもりはないと断言していた。
ならば、この苦しみも、自分が妊娠すればすべて解決するはず。
そうして、キャロラインが屋敷を去るときには――たっぷりと手切れ金を持たせてやればいいのだ。
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