第9話 二人の確執

 それからしばらくの間、エドワードが家に戻ることはなかった。


 毎年アカデミーで開催される春の学術大会――その準備に追われ、彼は多忙を極めているのだ。


 シャーロットは執務室の窓辺に立ち、次第に色づいていく庭の花々を、ぼんやりと眺めていた。


 この前の散歩は、せっかくの貴重な時間だったのに、キャロラインに邪魔されてしまった。それ以来、ほとんど話すこともできないまま、もう一週間も経ってしまったわ。


「奥様、お茶をどうぞ」


 ローテーブルからは、甘くやさしいカモミールティーの香りと、ほろ苦いチョコレートの香りが、ふんわりと立ちのぼってくる。

 メリーは今日、シャーロットの好物であるチョコレートケーキを、特別に用意させていたのだ。


「まあ、嬉しいわ。ありがとう」


 少し和らいだ声で答えると、メリーはほっとしたような表情を浮かべた。


「奥様は、このところ、さらに根を詰めておられるご様子ですし……たまには街へお買い物に出かけてみてはいかがでしょう」


「そうね……」


 シャーロットは、再び窓の外へと目を向ける。


 今日は学術大会の本番。エドワードが戻ってくるとしても、きっと夜になるだろう。


「それも、いいかもしれないわね」


「まあ! それでは決まりですね♪」


 メリーの顔が、ぱっと明るくなる。


「ではまず、この美味しいケーキを召し上がってくださいませ。メリーめは、奥様に元気になっていただきたいのです」


 シャーロットは、チョコレートケーキをひと口ほおばった。ほろ苦さと甘さが舌の上でゆるやかに溶け合い、なめらかな余韻となって広がっていく。


 こわばっていた心まで、じんわりと解けていくようで、胸の奥にあった重さが、ほんの少し和らいだ。



***




 着替えを終え、馬車へ乗り込もうと外に出ると、柔らかな風が頬をなでた。


 帽子を押さえながら風上に目を向けると――そこに、懐かしい人物が立っていた。


 ダニエルだった。


 ――ダニエル・ノイヴァン。


 エドワードの腹違いの弟であり、シャーロットとは、アカデミー時代の同級生でもある。


 実を言えば、当時のシャーロットは、彼に淡い想いを抱いていたことがあった。


 母親似のエドワードとは対照的に、ダニエルは前当主に瓜二つだった。

 艶やかな黒髪に黒い瞳、そして二メートルに迫る長身。


 社交的なエドワードとは違い、ダニエルは社交の場にほとんど姿を見せず、必要以上の人付き合いを避ける性質だった。


 しかし、その寡黙で飾り気のない誠実さに、シャーロットは、いつしか自然と好感を抱くようになっていた。


 さらに彼女を惹きつけたのは、その剣術の腕前である。


 アカデミーで毎年夏に開かれる剣術大会――任意参加ではあるものの、彼は毎年のように優勝していた。


 大柄な体に似合わぬ俊敏さ。無駄のない動き。そして、どこか優雅さすら感じさせる剣さばき。


 その姿に、シャーロットは何度も目を奪われた。


 かつて彼女自身も、騎士になりたいと真剣に夢見た時期があった。


 だが両親に、危険であること、そして婚期が遠のくことを理由に猛反対され、その夢は断念せざるを得なかった。


 いまとなって思えば、あの頃に覚えた胸の高鳴りは、彼への恋心だったのか、それとも彼の剣術への憧れだったのか、自分でも分からない。


 けれど、もしかすると――それは「初恋」と呼べるものだったのかもしれない。


 アカデミーを卒業して以来、彼と顔を合わせることもないまま、年月は過ぎていた。

 ダニエルは皇室騎士団に所属し、普段は専用の宿舎で生活しているからだ。


 そのダニエルがいま、すぐそこに立っている。

 彼は以前よりも、いっそう精悍さを増していた。


 彼は、なんとも言えない表情でこちらを見つめている。かつての同級生が、いまや義理の姉となったのだ。気まずさがあるのだろう。


「ダニエル!」


 シャーロットは声を上げ、ゆっくりと彼に駆け寄った。


「久しぶりね、元気だった?」


 女性にしては背の高いシャーロットも、彼の前に立つと、自分が小さな少女に戻ったように感じられた。


「あ、ああ……」


 彼は短く答えるだけだった。


「”帝国の剣”の称号、本当におめでとう!」


「……ああ」


 その年、最も活躍した騎士に贈られる名誉ある称号。ダニエルはそれを手にし、皇帝から直々に男爵位まで授かっていた。


 せっかく祝福したというのに、言葉少なに返す彼の様子は、いつになくぎこちない。寡黙な人柄ではあったが、ここまでではなかった。


 困惑するシャーロットを前に、彼は慌てたように口を開いた。


「そ、その……君に、伝えておきたいことがあって……」


「伝えておきたいこと……? なにかしら」


 なおも落ち着かぬ様子のまま、彼は意を決したように言った。


「あいつ……兄上のことは、あまり信用しないほうがいい」


「……え?」


「それだけ言っておきたかったんだ」


 それ以上は語らず、ダニエルはシャーロットの返答を待つことなく、足早に立ち去っていった。


 少し離れたところから二人を見守っていたメリーが、そっと近づき、低くつぶやく。


「……いったい、どうされたのでしょうね」


 普段、ダニエルは侯爵邸には寄りつきもしない。


 折しも今日は学術大会の日。エドワードが不在であることを見計らい、わざわざそれだけを告げに来たのだろうか。


 “兄上のことは、あまり信用しないほうがいい”――なぜ、そんなことを。


「兄弟で……同じことを言うのね」


 思わずこぼしたシャーロットの言葉に、メリーは不思議そうな顔を向けた。


「ご兄弟で、とおっしゃいますと?」


「ええ。以前エドワードからも、『あいつの言うことを真に受けないでくれ』と告げられたことがあるのよ。私生児の生まれのせいか、僕に反感を抱いている、とも……」


 そう言いながらも、シャーロットの視線は、なおもダニエルの後ろ姿を追っていた。


「お互いに、複雑な思いを抱えていらっしゃるのでしょうか。それにしても、それだけを言いに、わざわざ足を運ばれるなんて……」


「わたしたちには分からない、深い事情があるのかもしれないわね」


 ――大切な二人が、互いにいがみ合っている。


 その事実が、シャーロットの胸を締めつけた。

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