第8話 策略の第一歩
キャロラインが侯爵邸に来てから、一週間が過ぎた。
シャーロットは相変わらず執務室にこもり、大量の書類と格闘していた。
そのとき、扉を叩くノックの音が響く。
「キャロラインですわ」
あの艶やかな声を耳にするのは、初日以来だと気づいて、シャーロットは少し驚いた。
「どうぞ」
今回は、きちんと事前に訪問の連絡が入っていた。
「失礼いたします」
扉を開けて現れたキャロラインは、以前とは打って変わって淑女らしい装いに身を包み、香水の香りも控えめにしている。
「この度は……なんとお礼を申し上げればよいか……」
「いいのよ、これくらい。どうか気にしないで」
「こんなに良くしていただけるなんて……わたくしからも、いつか必ずご恩返しをさせていただきますわ」
キャロラインはそう言って微笑んだあと、少しためらうように言葉を継いだ。
「それと……もう一つ、お願いがあるんです。わたくし花屋として、これまでさまざまな貴族のお屋敷に花を活けに参りましたが、社交界そのものには疎くて……。侯爵邸と縁の深い家門のことを存じ上げませんと、これからご迷惑をおかけするかもしれません。どうか、教えていただけませんでしょうか?」
――あなたに社交は求めないのだから、知る必要はないわ。
そう突き放したい思いが、一瞬胸をよぎる。
けれど、言葉にはできなかった。彼女なりに、侯爵家を思ってのことなのだろう。
シャーロットは筆を取り、さらさらといくつかの家門の名と爵位、それぞれとの関わりについて書き記していった。
「よかったら、これを参考になさってね。最後に挙げた四つの家門は、わたしが婚前から親しくしている方々よ」
差し出した紙を両手で受け取ると、キャロラインは深く一礼し、静かに部屋を辞していった。
シャーロットにとって、彼女は屋敷にいてくれるだけで十分ありがたい存在だった。だからこそ、大切に扱ってやりたいと心から思う。
しかし同時に、残酷なことを考えてしまう自分もいた。
どうか、このままエドワードの目に留まることなく、静かに身を潜めていてほしい。
そして、いずれこの屋敷を去るときには、最初から存在などしなかったかのように、影ひとつ残さず消えてほしい。
彼がバラの香りを好まないことを、わざわざ伝える必要はないわよね……。
***
それからしばらくは、忙しさに追われながらも、穏やかな日々が流れていった。
そんなある日、エドワードが多忙の合間を縫って、シャーロットを庭園の散歩に誘ってくれた。
まだ寒さの名残がある、三月の昼下がり。
庭には、冬を越えた花々が顔をのぞかせていた。チューリップや菜の花の群れが、冷たい風の中に、春の気配を告げている。
「もうすぐ、この庭が花で満ちる頃だね」
エドワードはそう言って、シャーロットを見つめた。
「ええ、楽しみだわ」
「僕はついつい、花よりも君のことを見てしまう」
彼は静かに微笑む。
「まあ……」
思わず視線を逸らした、その先に――キャロラインの姿があった。
やや険しい表情のまま、ハイヒールの靴音を響かせ、早足にこちらへ近づいてくる。
そして、唐突に――
「エドワード様!」
甘ったるい声を上げ、シャーロットとは反対側からエドワードの腕にしなだれかかった。
豊かな胸を、あからさまに押しつけながら。
――ちょ、ちょっと……何をしているの……!?
シャーロットは、驚きのあまり声も出せず、ただ立ち尽くしていた。
少し離れたところで控えていたメリーが、「ひゃっ!」と悲鳴を上げる。
「や、やめたまえ!」
エドワードは慌ててキャロラインの腕を振りほどいた。
「いまはシャーロットとの大切な時間なんだ。見て分からないのか?」
「えー! では、わたしとの大切な時間は、いつ取ってくださるのですか?」
「……な、なんだって? 僕は君を、シャーロットと同等に扱うつもりはない!」
「同等に扱っていただけるなんて、思っておりませんわ。でしたら、わたくしとは――夜の散歩をご一緒してくださらない?」
あまりの非常識さに、その場は凍りついた。
シャーロットはもちろん、誰ひとりとして、言葉を発することができない。
「……失礼する!」
そう吐き捨てるように言い、エドワードはその場を立ち去ってしまった。
――なんて女なの!
おとなしくしていると思っていたのに、とんでもないあばずれだわ!
そう心の中で叫びながらも、不意を突かれたシャーロットは、言い返すことができず、ただ立ち尽くしていた。
「……わたくしも、失礼いたしますわ!」
ようやく言葉を絞り出し、顔を紅潮させたまま、その場を後にした。
***
「ほんっとうに! なんという破廉恥な女なんでしょう!」
メリーは怒り心頭といった面持ちで声を張り上げた。
「おとなしくしていると思ったら……単に、エドワードと顔を合わせる機会がなかっただけなのね!」
シャーロットも、声を荒らげていた。
「それに、ご覧になりましたか? わざわざ、胸元の大きく開いたドレスを着ていました! 奥様が、あれほど上品なドレスをたくさん贈って差し上げたというのに!」
あの、こぼれ落ちそうなほど豊かな胸の光景が、頭から離れない。
エドワードは、どう思ったのかしら……。
最初は嫌悪していたとしても、あの可愛らしく甘える姿を目にするうちに、いつか心が揺らぐ日が来るのでは……?
そう考えると、シャーロットの心は、重く沈んでいった。
「別邸に追いやってしまっては、いかがでしょう?」
メリーは、もはや本気でキャロラインを排除しようとしている様子だった。
「そうしたいのはやまやまだけど、それはできないわ……!」
メリーは、思わず身を乗り出す。
「奥様の寛大さに甘えて、あの女は、どんどん図々しくなっていくかもしれません!」
「分かっているわ。だからといって、今はまだ、追い出すわけにはいかないのよ……」
そう言いつつも、シャーロットの胸の奥では、嫉妬と不安が渦を巻いていた。
「……奥様」
メリーは、その沈黙を前に、小さく息をついた。
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