第6話 ルビー

 それからも、慌ただしい日々は続いた。


 子どもを授かることはできなかったが、エドワードの深い愛に包まれ、シャーロットは、これまで以上に満ち足りた幸福を感じていた。


 やがて迎えた、ふたりにとって初めての結婚記念日。


 シャーロットは、ドレッサーの前で髪を仕上げてもらいながら、鏡に映る自分の姿を見て微笑んでいた。


「ふう……今日も、完璧でございます」


 自らの手掛けたを眺め、メリーは誇らしげに胸を張る。


「あのウェディングでのお姿を思い出しますわ!」


「ふふ……そうね」


 この夜、シャーロットは白地に金糸で丁寧な刺繍が施されたドレスに身を包み、ジュエリーは小粒のダイヤのものにとどめていた。


 結婚指輪と婚約指輪、その二つの輝きを際立たせるためである。


 ノックの音とともに現れたエドワードは、彼女のドレスがいっそう映える正装を纏っていた。

 まさに“貴公子”という言葉を体現する姿だ。


 ――「記念日のことは、僕に全部任せて」


 ずいぶん前から、彼は頑なにそう言い続けていた。


「さあ、準備はいいかな?」


 エドワードが腕を差し出す。


「ええ、とても楽しみだわ」


 弾む心を抑えきれず、シャーロットはその腕に身を寄せた。


 二人が階段を下りる姿は、まるで舞台の主役のようで、見守る使用人たちの間から感嘆の吐息がこぼれ、拍手が巻き起こる。


 やがてダイニングの扉が開かれると、そこには思いもよらぬ光景が広がっていた。


 普段使われている巨大なテーブルは取り払われ、白いクロスを掛けた丸卓が、二脚の椅子とともに置かれている。


 扉からテーブルまで赤い絨毯が敷かれ、その周囲には無数のキャンドルが床一面に灯されていた。


 あまりに幻想的でロマンチックな光景に、シャーロットは思わず息を呑む――。


「気に入った?」


 エドワードが問いかける。


 胸の高鳴りを抑えきれず、彼女は口元を押さえながら、うなずくことしかできなかった。


「さあ、座って」


 エドワードが椅子を引き、彼女を迎え入れた。


「テーブルが小さい方が、君を近くで見られると思ってね」


 キャンドルの炎が彼の瞳に映り込み、金色の光が、ゆらゆらと揺らめいている。


「……緊張してしまうわ」


 彼は着席すると、そっと彼女の手を包み込んだ。


「今夜は君に、楽しんでほしいんだ。まずは乾杯しよう」


 使用人が運んできたシャンパンが、細いグラスへと静かに注がれる。キャンドルの光を受けて、いっそう輝いて見えた。


 二人はグラスを軽く合わせ、口に含む。


「料理長に頼んで、君の好きなものばかりを揃えてもらったよ」


 次々と運ばれる皿に、テーブルは瞬く間に彩られていく。


 久しぶりに、ゆったりと夫婦だけの時間を過ごせたこと。

 それだけで、シャーロットは満たされていた。


 エドワードは日頃の感謝と、出会えた奇跡を語り、これからも必ず幸せにすると誓った。


 その言葉に、彼女は、この素晴らしい夫と共に歩める喜びに酔いしれる。


「さて……」


 エドワードが立ち上がり、シャーロットの背後へと回り込む。


 肩にそっと手を添え、「プレゼントがある」と耳元で囁いた。


 その合図とともに、メリーがベルベットの布を掛けたトレーを運んでくる。

 だが、その上には何も載っていない。


 エドワードは一つずつ、彼女のジュエリーを外し、丁寧にトレーへと置いていった。


 イヤリング、ブレスレット、そしてネックレス。

 メリーはその様子を見守りながら、口元に小さな笑みを浮かべている。


 ――彼女は、この計画を知っていたのね。


 そこへチャーリーが姿を見せ、木製のジュエリーケースを差し出した。

 表面には、ノイヴァン家の家紋である獅子のレリーフが彫り込まれている。


「さあ、受け取って……」


 エドワードがやさしく言い、ケースを開ける。


 そこには、深紅のルビーを中心に、ダイヤが燦然と取り巻く豪奢なネックレスと、

 同じデザインのイヤリングが収められていた。


 一目で、とてつもない価値を持つ逸品だとわかる。


「こんなの……もらえないわ」


 思わず、彼を見つめる。


「僕のためだと思って、受け取ってくれないか」


 そう言いながら、シャーロットの華奢な首元へネックレスをかけた。


 ひんやりとして重い宝石の感触に、緊張のあまり息がこぼれる。


 彼はその反応を楽しむように微笑み、ルビーのイヤリングをそっと彼女の耳に留めた。


 嬉しさと恥ずかしさで、頬が熱くなっていく。


「……とても、綺麗だわ」


 照れくさそうに呟くと、エドワードは愛おしげに微笑んだ。


「やっぱり、君にはルビーがよく似合う」


 ルビーの赤。

 ノイヴァン侯爵家がこよなく愛する、深紅の色。


 その宝石を授けられたことは、侯爵家の一員として認められた証のように思え、シャーロットの胸を、温かく満たした。


 再び肩を抱き、エドワードは耳元で囁く。


「部屋まで送ろう」


 二人はそっと手を取り合い、静かに歩みを進めていった。



***



「きゃー! 侯爵さまが素晴らしすぎて、メリーは倒れそうでしたわ♡」


 シャーロットの髪をときながら、メリーは興奮を隠しきれない様子で頬を上気させつつも、手元だけは驚くほど丁寧に動かしている。


「ふふ……。あんなに素敵な人が、自分の夫だなんて……。いまだに夢を見ているんじゃないかと思うことがあるの」


「なにをおっしゃいます! どこからどう見ても、完璧にお似合いのお二人です!」


「んもう、メリーったら、はしゃぎすぎよ」


「はしゃいでおりますが、今日も完璧に仕上げております」


 そう言って、メリーはシャーロットを姿見の前へと導いた。


「まあ……奥様はやはり、この清楚な白いネグリジェがお似合いでございます!」


 ――これから、エドワードの部屋へ向かうのだ。


「ありがとう、メリー。今日は疲れたでしょう? もう休んでいいわ」


「承知いたしました。何かございましたら、すぐにお呼びくださいませ」


 にんまりと笑みを浮かべ、一礼すると、メリーは部屋を後にした。


 エドワードからは事前に、「君は決してプレゼントを用意しないでね」と念を押されていた。


「そう言われても……」


 思わず、小さくつぶやく。あまりにも素晴らしい贈り物を、もらってしまった。


 とはいえ、すべてを手にしている彼にふさわしい贈り物など、何ひとつ思い浮かばない。


 そう考えているうちに、気がつけば、エドワードの部屋の前に立っていた。


 ……そうだ。いっそ、本人に直接聞いてしまおう。


 ノックをすると、扉が開いた瞬間、柔らかな百合の香りが漂ってきた。


「待っていたよ」


 エドワードは微笑みながら彼女の手を取り甲に口づけると、ソファへとエスコートした。


 テーブルの上にはワインとグラス、そして見慣れぬ小瓶が置かれている。淡い水色のガラスに、金色のリボンを結んだ、美しい香水瓶だった。


 ――きっと、この香りね。


「香水店に足を運んで、君にふさわしい香りを探してきたんだ。受け取ってくれるかい?」


「嬉しいですわ」


 シャーロットは、ひんやりと冷たい瓶をそっと手に取る。


「つけてみてほしい」


「ええ、もちろん」


 手首と首筋に香りをまとわせると、先ほどよりも、いっそう鮮やかに香りが立ちのぼった。


「素敵な香りだわ……」


 そう告げると、エドワードは微笑み、囁くように打ち明けた。


「実は、同じものを二つ買ったんだ。一つは君に、もう一つは自分のために」


 視線を逸らさぬまま、彼は彼女の手を取り、頬へと導く。

 その温もりと、赤い唇が、否応なく意識を引き寄せた。


「わたし、もらってばかりで……」


「君が喜んでくれれば、それで十分だ」


「でも……」


 しばし彼女を見つめていたエドワードは、意を決したように手を取り、そっとベッドへと導いた。


「……実は、僕にも欲しいものがある」


 隣に座らせ、腰を抱き寄せながら、その表情を確かめるように視線を滑らせる。


「欲しいもの?」


 シャーロットが問うと、彼は一瞬、言葉を探すように沈黙し、やがて口を開いた。


「もの、というより願望、あるいは憧れと呼ぶべきものかもしれない」


 その視線は、すでに彼女の潤んだ唇に吸い寄せられている。


「教えて、エドワード」


 ゆっくりと瞬きをする、その睫毛の一本までが、ひどく美しい。


「僕は、君に……求められたいんだ」


 その言葉に、胸の奥から一気に熱が込み上げる。


「……いいの?」


 初夜を迎える前、女性は夫にすべてを委ねるものだと教えられてきた。貞淑こそが、美徳だと信じてもいた。


 けれど――。


 彼の香りに包まれ、体の隅々まで支配されているときでさえ、その赤い唇も、甘美な香りの漂う首筋も、自分の指で、唇で、確かめてみたいという衝動が、胸の奥で疼いていた。


 ――そのとき、彼は、どんな表情を見せてくれるのだろう。


 エドワードは、熱を帯びた彼女を歓迎するかのように、ゆっくりと顔を近づけてくる。吐息が絡み合い、時間が溶けていくようだった。


 彼女はそっと彼の頭を抱き寄せ、唇で優しく押し返す。そして――。

 彼の上に、静かに身を預けた。

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