第5話 二番目の女
帰りの馬車の中、シャーロットは荒い息を整えようと、何度も深呼吸を繰り返していた。
だが、まるで効果はない。
さきほどリリアナから聞いた言葉が、頭の中で何度もよみがえる。
「エレーヌ様には気をつけてね。彼女、まだ侯爵様のことを諦めていないらしいの。例のスキャンダルも、あなたの策略だって言いふらしているみたいよ」
――エドワードとの破談を、わたしのせいにするなんて……!
シャーロットと結婚する前、エドワードには婚約者がいた。
エレーヌ・ブランシェット。名門とはいえないが、由緒ある家門の令嬢だった。
だが彼女には、密かに想いを寄せる別の男性がいたのだ。
やがてその関係は、帝国新聞に大きく取り上げられるという事態へと発展する。
決定的な証拠写真を突きつけられても、彼女はなお、「誤解です! 決して密通などしておりません!」と泣きながらエドワードにすがりついたという。
無理もなかった。
エドワードは帝国屈指の名門の後継ぎであり、奇跡の美貌の持ち主でもある。
彼を失いたくない一心で、エレーヌは、みっともないほど執着してしまったのだろう。
噂によれば、彼女はまだ婚姻前だというのに、エドワードに関係を迫ったことがあったらしい。
だが、生真面目で潔癖な彼が、それに応じることはなかった。
寂しさからか、あるいは腹いせだったのか――。
彼女は別の男性のもとへ走り、その顛末は、しばらくのあいだ社交界の格好の噂話となった。
この一件を経て、ノイヴァン家の前当主は、息子の婚約者選びにいっそう慎重になる。
そして、かねてより「理想の花嫁」と称され、清廉な評判を誇るシャーロットに、白羽の矢が立ったのだった。
――あの女の家門が男爵家程度なら、迷いなくひねり潰してやるものを……!
シャーロットの怒りは、なかなか収まらない。
エレーヌの家門は、さほど勢いがあるわけでもなく、莫大な財を持つわけでもない。それでも、一応は侯爵位である以上、軽々しく扱える相手ではなかった。
……いいえ、相手がどこの誰であろうと。わたしたちの神聖な婚姻に横槍を入れようとする輩には、天罰を与えるべきだわ!
いまシャーロットは、自分のあらん限りの権力を総動員して、歴史ある侯爵家を没落させる算段を、真剣に巡らせていた。
お父様に頼めば、あの家門への鉄鉱石の供給を止めてくれるかしら……?
いいえ、だめよ。そんなことをすれば、セントレア家の名に泥を塗ることになる。
腕を組み、思案を重ねるうちに、シャーロットは怒りの核心へと辿り着いた。
――それもこれも、わたしが妊娠していないからだわ……!
わたしがエドワードの子を授かりさえすれば、あの女だって、きっと諦めたに違いない。
いまだに夫婦二人の生活をしているから、自分にもまだ望みがあるなどと、思い込んでいるのよ!
シャーロットは今日、少し気が立っていた。
パーティーの直前、本格的に生理が始まってしまったのだ。
予定日より少し早く、わずかな出血を見たときは、
――もしかして、妊娠の兆しかもしれない。
そんな淡い期待を、ほんの一瞬だけ抱いてしまった。
だが、現実はいつだって無情だ。
今回も、いつものごとく奈落の底へと突き落とされた。絶対に期待するまい、そう思っても、それは無理な話だった。
期待と落胆を何度も繰り返し、心はすっかりすり減っていた。
エドワードは優しい。いつも「焦らなくていい」と言ってくれる。けれど、その言葉すら、ときには残酷に響く。
――焦りを抱えているのは、きっとわたしだけなのね。
結婚してまもなく、何の苦労もなく子を授かっていく周囲の女性たち。
その姿を祝福の笑みで見守りながらも、心の奥底では、嫉妬と憎悪が渦を巻いていた。
――なんて浅はかで、なんて穢らわしい女たちなの。
いまやシャーロットにとって、容易に妊娠する女性とは、自分への配慮を欠いた、低俗で不潔な存在でしかない。
彼女たちへの苛立ちと同時に、「わたしは、子を産めない体なのではないか」という恐怖が、胸を強く締めつけた。
あるいは、周囲の幸せを素直に喜べない、この心の醜さこそが原因なのだろうか。
知らぬ間に神に背くような罪を犯し、その罰として、見放されてしまったのだろうか。
冬の夜の街並みを眺める瞳から、涙がこぼれ落ちた。
――幸運を呼ぶ魔女には、会えそうにないわね……。
いつのまにか馬車は、ノイヴァン侯爵邸に到着していた。
玄関先には侍女のメリーが待っており、彼女は余計なことを尋ねることも、慰めの言葉をかけることもなく、ただ淡々と寝支度を整えてくれた。
こんなとき、侍女がメリーで本当によかったと、心から思う。
シャーロットは力なくベッドへと歩み寄り、そのまま身を投げ出すように倒れ込んだ。
タイムリミットは、結婚記念日の三月三日。
実質的に、次の夜伽が最後の機会となる。もしそのときに身ごもることができれば、出産予定日は十月下旬。
主治医のターニャから出産予定日の数え方を教わった当初は、未来の赤ちゃんを思い描きながら、胸をときめかせ、何度も計算を繰り返したものだ。
いまも無意識にその計算をしてしまう。そんな自分を、ひどく惨めに感じる。
シャーロットは涙を拭うこともせず、結婚指輪を、ただ見つめ続けていた。
***
それからしばらくは、年末年始のパーティーへの礼状や、山積みになった書類の処理に追われ、息つく暇もないほどの毎日を送っていた。
その慌ただしい日々のさなか、主治医のターニャの借金問題も片づいた。シャーロットが、肩代わりする決断を下したのである。
ただし、独断での行為だったため、侯爵家の経費ではなく、私費を充てることにした。
ふと書類から顔を上げると、窓の外の空は、いつのまにか赤く染まっていた。
忙しさに流されるように日々を過ごしているうちに、気がつけば、今夜は夜伽の日である。
もし今回も妊娠できなければ、結婚契約書の条項どおり、エドワードは第二夫人を迎えねばならない。
――そんなの、耐えられない。
愛する夫が、ほかの女性に触れるなど、考えるだけで胸が張り裂けそうだった。
それに、もしその女性が子を授かったとしたら……。わたしは、一体どうなってしまうのだろう。
シャーロットは大きく息を吐き、絶望に押し潰されるように、両手で顔を覆った。
「シャーロット、少しいいかい?」
ノックと同時に、エドワードの声が響く。
「ええ……」
思いがけない訪問に、声がわずかに上ずった。
扉を開けると、あの整った顔立ちが現れる。
彼は静かに微笑み、「話がしたくて」と言った。
「もちろんよ」
ソファへ促すと、エドワードは彼女の肩を抱き、そのまま隣へと座らせた。
「シャーロット。君が、不安に思っているんじゃないかと思って……」
――第二夫人のことに、違いない。
気丈に振る舞おうとしたが、もう手遅れだった。
大粒の涙が、ぽろぽろとこぼれ落ちる。
エドワードはすぐに彼女を抱き寄せ、耳元で低く囁いた。
「たとえ第二夫人を迎えることになったとしても、君が心配することはなにもない」
そう告げると、彼は腕をほどき、まっすぐに彼女の瞳を覗き込む。
「迎えるのは……平民の女性にするつもりだ」
「……平民、ですって?」
この由緒ある侯爵家に……?
驚愕に、言葉を失う。
その表情を見て、エドワードは小さく微笑んだ。
「そうすれば、君が子を授かったとき、追い出すのも
そう言って、彼はシャーロットの手の甲に、静かに口づけをした。
――ああ、エドワードは、本当にわたしのことだけを考えてくれているのね。
胸が熱くなり、先ほどとは違う、温かな涙がまた頬を伝う。エドワードはそれを、一粒ずつ丁寧に指先で拭い取った。
やがて彼の視線が、彼女の唇にとまる。
「僕はその女性に、指一本触れるつもりはない。愛しているのは、これまでも、これからも……君だけだ」
その吐息が唇にかかり、体温が急速に上がっていくのを感じる。今日の彼は、いつもよりも、ずっと熱を帯びているようだった。
「……エドワー」
名を最後まで呼ぶ間もなく、甘い香水の香りとともに、息苦しいほどの愛しさに包まれた。
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