第4話 魔女
それからの日々は、年末の舞踏会や新年の祝宴に追われ、慌ただしく過ぎていった。
由緒あるノイヴァン侯爵家ともなれば、主催する催しも決して少なくない。
すべてが初めての経験で、戸惑うことも多かった。
けれど、前侯爵夫人であるレイチェル様が惜しみなく助力してくださったおかげで、どうにか無事に務めを果たすことができた。
――「赤ちゃんは、まだなの?」
そう尋ねられることを覚悟していたが、彼女は一度もその言葉を口にしなかった。
きっと、エドワードが事前に配慮してくれていたのだろう。
そして今宵、ヤンデル伯爵家での夜会が終われば、ようやく一息つける。
ヤンデル家は、エドワードと懇意にしている家門だ。
欠席など、決して許されない。
疲労は確かに重なっていた。
けれどこの時期は、エドワードと行動を共にする機会も多い。
それが、何より心を慰めてくれていた。
――シャーロットは、エドワードと並んで、ヤンデル伯爵家へ向かう馬車に揺られていた。
貴族の馬車では、向かい合わせに座ることも多い。
それでも彼は、いつも迷うことなく、シャーロットの隣を選ぶ。
夫の纏う甘い香水の香りに、胸がときめく。
そしてエドワードもまた、彼女の香りを確かめずにはいられない。
――そう、まさに今のように。
彼は、痕跡を残さぬよう慎重に、首筋へと唇を這わせた。
「隣に君がいるというのに……なんて、忌々しい時間だ」
彼の声には、触れたい衝動を必死に押しとどめる苦しさが滲んでいる。
やがて馬車が静かに停まり、シャーロットはようやく解放された。
エドワードは落胆を隠すように、小さくため息をもらし、カーテンを開けて外を確かめる。
時刻はまだ五時過ぎだというのに、冬の帝都はすでに闇に沈み、伯爵邸の窓からもれる明かりが夜空を照らしていた。
ヤンデル家は、今もっとも勢いのある家門のひとつだ。
今年の新年パーティーのフィナーレを飾るにふさわしい、華やかで壮大な夜会が催されていた。
会場に足を踏み入れると、まず目に飛び込んでくるのは、天井いっぱいにきらめく巨大なシャンデリアである。
壁には精緻なタペストリーが掛けられ、要所には花々のアレンジメントが添えられていた。
淡い香水と生花の香りが溶け合い、場をいっそう華やかにしている。
貴族たちはグラス片手に談笑し、色鮮やかなドレスや礼装が視界を埋め尽くしていた。
テーブルには、山と盛られた果実や豪奢な肉料理、煌びやかなデザートが所狭しと並び、誰もがこの場を存分に楽しめるよう配慮されている。
主催者の挨拶と乾杯が終わり、ダンスタイムが始まると、人々の視線は自然と、美しい二人へと集まっていった。
「まあ、お二人とも……なんて優雅なのかしら」
「今日お召しのイエローのドレスは、どこのメゾンのものかしら……?」
「侯爵様も、前のご婚約の件ではいろいろとご苦労があったようですけれど……今はとてもお幸せそうですわ」
「ええ。奥様のシャーロット様を、本当に大切にされているのが伝わりますわね」
囁き合う声を背に、二人は二曲目も、パートナーを替えることなく踊り続けた。
その間、エドワードの瞳がシャーロットから逸れることは、一度もなかった。
「僕はこのあと、仕事の集まりに出なければならない。だからシャーロットは、先に帰ってほしい。……ほかの男性と君が踊るのを、見たくないんだ」
「ええ、わかったわ」
「僕のこと、心の狭い男だと思ってる?」
「いいえ。いつだって、わたしのことを最優先に考えてくれるもの」
その言葉を聞くと、エドワードは曲の終わりを待たず、彼女を出口の方向へと優しくエスコートした。
そしてシャーロットを見つめながら、その手に口づけをすると、エドワードは反対方向へと去っていった。
しばし夫の後ろ姿を目で追い、扉のほうへと向き直ると、友人のリリアナ・エルデンが立っていた。
シャーロットに向けて、やわらかな微笑みを浮かべている。
今日は自慢の黒髪を結い上げ、瞳の色と同じ深いブルーのドレスを纏っていた。相変わらず、フリルをふんだんにあしらった愛らしい装いだ。
彼女とは、アカデミーで初めて言葉を交わした。
同じ伯爵家の令嬢ということもあり、すぐに意気投合した相手である。
卒業後も手紙のやり取りを続け、互いの屋敷で催されるパーティーに招き合うこともあった。
けれど、シャーロットが侯爵家に嫁いでからは、忙しさに追われ、一度も顔を合わせることができていなかった。
久しぶりの再会に、シャーロットは一瞬、言葉を飲み込む。
――どんな態度で接するべきなのだろう。
シャーロットは、表向きには「完璧な結婚」を果たした人生の勝者だ。
一方でリリアナは、少し前に婚約が破断するという憂き目にあっている。
長年婚約関係にあった伯爵家の嫡男、ルーファス。
彼が不動産売買で詐欺まがいの行為を繰り返していたことが明るみに出たのだ。
個人財産は没収され、爵位の継承権も剥奪。
ついには家門から破門された。
最悪なことに、最大の被害者はリリアナの父だった。
娘の将来を思い、目をつぶって未来の娘婿に多額の金を貸していたのである。
――どう声をかければいいのかしら……。
だが、シャーロットの心配をよそに、リリアナは驚くほど晴れやかな表情をしていた。
「シャーロット……すっかり侯爵家の女主人って感じね。もう、名前で呼んじゃいけないかしら……?」
潤んだ瞳で、そう尋ねてくる。
「そんなこと……。今まで通り、シャーロットって呼んでほしいわ」
にこやかに返すと、リリアナはほっとしたように息をついた。
そして、その表情はみるみるうちに満面の笑みへと変わる。
「ねえ、シャーロット。わたし、あなたに話があるの」
――婚約破棄のことかしら?
そう思ったが、彼女の声の明るさに、ふと違和感を覚える。
「話って……?」
「シャーロット、幸運を呼ぶ魔女って知ってる?」
――幸運を呼ぶ魔女。
そういえば、情報通のメリーから聞いたことがある。
善良な人間の前にだけ現れる、神出鬼没の魔女。厄災を退け、幸せへと続く道を示してくれる存在だという。
「詳しくは知らないけれど……そんな魔女がいるらしい、という話なら聞いたことがあるわ」
「そうなのね。じつはわたし、その魔女に会ったのよ!」
「えっ……!」
思わず声が裏返った。
もし本当にそんな魔女がいるのなら。なんとしてでも会いたい!
そして、聞きたいことはただ一つ。どうすれば、子を授かることができるのか、だ。
「その魔女様は、どこにいらっしゃるの?」
思わずリリアナの肩を掴んで問いかけてしまう。彼女は少し驚いたように目を瞬かせた。
「それが……とても不思議なんだけど、どこで会ったのか全く思い出せないの。帝都のどこか、ということだけは確かなんだけど……本当よ、嘘じゃないの」
リリアナが嘘をつく人間でないことは、よく知っている。だからこそ、胸に落胆が広がった。
「あなたが嘘をついていないことは、分かっているわ。ただ……その魔女に、とても興味があって……」
今の状況を打ち明けたい衝動が胸を突く。けれど、簡単に口にできる話ではないし、同情されるのも嫌だった。
「場所は思い出せないけど……どんな人だったか、何を話したかは覚えているの」
「どんな人だったの?」
魔女といえば、「黒いローブを纏った、ワシ鼻の老婆」と相場が決まっているが――。
「貴族の女性だったわ。誰なのか分からないのが不思議なんだけど……とても上品で、優しい方だった」
淑女教育を受けてきたリリアナが、帝都の貴族女性の顔を知らないはずがない。となると、普段は地方に住んでいる人物なのかもしれない。
「貴族の方だったとは……意外ね」
「そうなの。美味しいお茶も淹れてくださって……。たくさんお話しした気もするんだけど記憶が曖昧で……夢の中で会ったみたいな、不思議な感覚なのよね」
首を傾げながら、リリアナは続けた。
「でも、ひとつだけはっきり覚えていることがあるの。魔女様、こうおっしゃったわ。『近々、婚約は取り消しになるけれど、なにも心配はいらない』って。もちろん破談になる前のことよ」
――魔女は、未来を見通すことができるのだろうか。
シャーロットは興奮を抑えきれず、口元に手を当てた。
「最初は不安になったわ。彼を愛していたわけじゃないけれど、長い付き合いだったから」
一瞬だけ曇った表情を浮かべたリリアナは、すぐに微笑みを取り戻す。
「それから、こうも言われたの。『運命の人が、あなたを迎えにくるわよ』って」
頬を赤らめ、宙を仰ぐリリアナ。
シャーロットの存在を、すっかり忘れているらしい。
……何はともあれ、彼女が幸せそうで、胸を撫で下ろした。
「それで……運命の人は?」
すでに出会えたのだろうか。
今夜は、誰にエスコートされているのだろう。
無意識に視線を巡らせるシャーロットに、リリアナは弾む声で答えた。
「ちゃんと出会えたわ! 魔女様のおっしゃったことは、全部本当だったの。ルーファスの悪事が社交界に広まるやいなや、わたしを迎えに来てくれたの!」
そう言って、シャーロットの背後へ視線を送る。
十メートルほど先で、マルセル・オルドネがそれに気づき、グラスを掲げて合図した。
シャーロットは慌てて体を向け、丁寧に一礼する。
彼は侯爵家の次男だ。一人娘のリリアナには、申し分のない相手だろう。
「とても素敵な人よ。『皇宮舞踏会であなたを見かけて以来、ずっと好きだった』って言ってくれたの。シャーロットも、魔女様に会えるといいわね」
そう言い残し、リリアナは運命の人のもとへ駆けていった。
だが、何かを思い出したように、ドレスを翻して戻ってくる。
その表情は、少しだけ陰っていた。
「それから……」
小さな声で、リリアナは告げる。
「エレーヌ様には気をつけてね。彼女、まだ侯爵様のことを諦めていないらしいの。例のスキャンダルも、あなたの策略だって言いふらしているみたいよ。……そんなはず、ないのにね」
シャーロットを気遣うような表情でそう言い終えると、リリアナは今度こそ、運命の人のもとへと駆けていった。
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