第3話 二人の諜報員
帝都の表通りから一本外れた、裏通りの飲食街。
日が暮れる頃には、通りの明かりがぽつぽつと灯りはじめ、グラスを鳴らす音が響き、料理の香ばしい匂いが漂い出す。
その一角にある〈トラットリア・レオーネ〉では、人気店員のタイガーが、栗色の髪を揺らしながら軽やかな足取りでホールを駆け回っていた。
「はーい、お嬢様がた、お待たせいたしました! アツアツなので気をつけてくださいね!」
「きゃあ♡ タイガーさんが運んでくださる料理なら、きっとどこの高級店よりも美味しいですわ!」
キャイキャイと華やぐ令嬢たちの視線は、料理よりも彼の笑顔に釘づけだ。
「どうぞ、ごゆっくり召し上がってくださいね」
にっこりと微笑み、厨房へ戻ったタイガーは、エプロンを外しながら店主に声をかけた。
「今日はこれで失礼します」
「おう、明日も頼んだぞ。お前がいると、店に活気が出るからな」
「おやっさんの料理が旨いからっすよ!」
「褒めたって給料は変わらんぞ! わっはっは!」
タイガーは笑顔で一礼し、裏口からするりと夜の通りへと抜けていった。
その斜め向かいにある〈八宝楼〉もまた、賑やかな笑い声と香辛料の香りに包まれている。
ここでは、ドラゴンという名の長身の男が、静かな所作でホールを流れるように動いていた。
右の目じりにほくろのある、美しい青年だ。
「お待たせいたしました。小籠包です。皮が薄いので、お気をつけください」
「まあ……美味しそう。あたくし、こちらに通いはじめてから、お箸もすっかり使いこなせるようになりましてよ♡」
「とてもお上手です」
やわらかく微笑んで一礼すると、ドラゴンは奥の厨房へと戻った。
「本日はこれで失礼いたします」
「はいはい。今日も助かったわ。ありがとうね!」
チャイナドレスに身を包んだ黒髪の女店主が、蒸籠の蓋を手に、ちらりと目を上げて微笑む。
ドラゴンは静かに頭を下げると、
――彼らの正体は〈シャム猫ギルド〉の諜報員である。
善良な人間からしか依頼を受けないことから、「正義のギルド」とも呼ばれている。
帝都裏通り、古書を扱う小さな書店〈ナイトオウル〉。
昼間はひっそりとした読書好きの隠れ家だが、日が沈むと、その奥にある鍵のかかった扉が静かに開かれる。
地下への階段を降りた先――そこが、諜報ギルド〈シャム猫〉の連絡所であり、実質的な本拠地だった。
書棚を背に、黒革張りのソファに片脚を組んで座る男がひとり。暇を持て余した様子で顎ひげを撫でている。タイガーだ。
「遅いなぁ。今日は、いつもより店が混んでたのか?」
ぼそりとつぶやいた、その瞬間。扉が音もなく開いた。
「すみません、お待たせしました」
しなやかな身のこなしで現れたのは、長身の爽やかな青年――ドラゴンだった。
「お、来た来た。じゃあ、今回の依頼を確認すっか」
中央の机に置かれたファイルを開くと、達筆な文字が目に飛び込んでくる。二人の視線が、流れるように文面を追った。
「……不穏だな」
タイガーが低くつぶやき、机の上に並べられた二本の瓶へ視線を移す。
「ですね」
ドラゴンも同意し、ひとつを手に取って光にかざした。
「赤い瓶に入っているのは、お茶……」
タイガーが引き継ぐように口を開く。
「青い瓶に入ったこの黒っぽい液体が薬。ただの薬か、それとも毒か……」
「依頼を持ち込んだのは、名門セントレア伯爵家の人間のようですね。さらに、ノイヴァン侯爵家の主治医、ターニャ・ラクモアの素性調査も、同時に依頼されています」
ドラゴンは、少し長めの艶やかな黒髪をかき上げた。
「セントレア家に、ノイヴァン家……。そういや、セントレア家の長女が、この春ノイヴァン侯爵家に嫁いだな。たしか名前は……シャーロットだったか?」
タイガーは癖のように顎を撫で、記憶をたぐる。
「ええ。『世紀のウェディング』ともてはやされ、帝都中が大騒ぎしていましたから。僕も覚えています」
「だが、光あるところには影もまたなんとやら。あの美しいお嬢さんの周囲で、想像もつかない愛憎劇が渦巻いているのかもしれねぇな」
ドラゴンが小さく肩をすくめる。
「名門貴族の家ほど、何が潜んでいるかわかりませんからね」
「まあ、憶測はこのくらいにしておこう。とりあえず、この瓶は博士に持ち込んで、正体を調べてもらうんだ」
***
二日後――。
シャーロットは執務室にいた。窓際に立ち、うっすらと雪化粧をした庭園を見下ろしている。
その表情には、疲労と陰りが色濃く漂っていた。
どうしてもっと早く気づけなかったのだろう。
あの二人の存在に目を向けていれば、今頃は子を授かっていたのかもしれないのに……。
妊娠を阻まれたとはいえ、体調を崩しているわけではない。
ということは、命を奪うつもりはなかったということだろう。
だが、人の心はいつ、どう変わるかわからない。
ふとした瞬間に狂気へと転ぶことだってある。次にどんな一手を仕掛けられるか、油断などできはしなかった。
二人に疑いの目を向けてからというもの、シャーロットはすっかり怯えていた。
口に運ぶものすべてが毒に思え、食卓の一皿も、お茶の一杯も、疑わずにはいられない。
――早く、調査の結果を知らなくては……。
エドワードに相談することもできず、このままでは気が変になってしまいそうだった。
執事のチャーリーは、エドワードの幼馴染。
そして主治医のターニャは、彼がわざわざ、わたしのために屋敷へ招いた人物である。
だからこそ今回の件については、どうしてもエドワードに打ち明けることができなかったのだ。
そのとき、扉を叩く音が響いた。
「奥様、よろしいでしょうか?」
メリーの切迫した声が聞こえる。
「入って」
答えると、ほとんど同時に扉が開き侍女のメリーが入室した。
「奥様、セントレア家からのお手紙でございます」
差し出す手は、わずかに震えている。
今回の調査で、シャーロットは実家であるセントレア家の力を借りた。
自ら出向けば、執事チャーリーに行き先を告げねばならない。そのため、代わりにメリーを遣わしていたのだ。
――ついに真実がわかる……!
犯人は、一体どちらなの?
期待と恐怖が入り混じり、指先が震える。
封を切り、走るように文字を追う。背後でメリーは胸の前で手を組み、祈るような眼差しで主人を見守っていた。
「そ……そんな……」
かすれた声をもらすと、シャーロットは力が抜けたように椅子へと崩れ落ちた。
顔から血の気が引き、言葉を失う。
主人から手紙を受け取り、メリーは慌てて文面に目を走らせる。
そこに記されていたのは、予想外の結果だった。
怪しげな薬物は、どちらにも一切混入していなかった。
お茶は、ただのカモミールティー。
薬は、効き目の良い滋養強壮剤にすぎないという。
さらに、主治医ターニャについても調査は及んでいた。
彼女はすでに既婚者であり、気になる点があるとすれば、夫がギャンブルで負った借金に悩まされていることくらいだった。
それが原因で、いつも表情が硬く、暗く見えていたらしい。
――すべては、疑念に振り回された、わたしの思い込みだったの?
安堵と落胆が、同時に胸を満たす。
……いや、むしろ落胆のほうが、はるかに大きかった。
もし本当に毒を盛られていたのなら、妊娠できなかった理由がはっきりする。
そして何より、結婚契約書のあの条項――
「婚姻から一年を経ても懐妊の兆しがない場合、第二夫人を迎えること」に、猶予が与えられるはずだったからだ。
――では、なぜ。
なぜ、わたしのところには、赤ちゃんが来てくれないの……?
疲労が一気に押し寄せ、思考が重く沈んでいく。
誰でもいいから、教えてほしい。
原因さえわかれば、どんな努力だってしてみせるのに……!
世間では「子は授かりもの」と言われているが、ただ待つだけでは、時間が過ぎ去っていくだけだ。
両親の温かな言葉に包まれても、エドワードの変わらぬ優しさに触れても、胸の奥に巣食う不安と劣等感は、決して消えることはなかった。
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