第2話 二人の容疑者
ドレッサーの前に腰かけ、鏡越しに自分の顔を見つめていると、背後から髪を整えていた手がふと止まった。
「奥様……お・く・さ・ま!……お嬢様!」
聞こえてきたのは、侍女メリーの弾むような声だった。
彼女は、わたしがまだ伯爵家の令嬢だったころから仕えてくれている、信頼できる侍女である。
「緊張していらっしゃるのですか?」
そう言って、可愛らしい琥珀色の瞳で顔を覗き込んでくる。
緊張……。たしかに、その通りかもしれない。
初夜も無事に過ごし、夜伽もすでに毎月のことだ。それでも胸は高鳴り、恥ずかしさは拭えない。
エドワードとのディナーの最中も、どこか上の空だった。
「なんの心配もございません。このメリーめが、完璧に仕上げましたもの!」
誇らしげに言い放つと、メリーは「さあ」とわたしを姿見の前へと導いた。
そこには、白い薄手のネグリジェを纏った自分の姿が映っていた。
柔らかな布越しに透ける肌が一層清らかさを際立たせ、淡い薄化粧と艶やかに仕上げられた唇が、控えめな色香を添えている。
「どうです? お衣装もさることながら、奥様の美肌を引き立てる薄化粧! そして、このリップの艶!」
メリーは自慢げに胸を張った。
自分でも、今日の仕上がりは文句のつけようがないと感じる。
「いつもながら、本当にありがとう」
素直に礼を述べ、わたしはエドワードの部屋へと足を急がせた。
ノックをすると、扉が静かに開き、エドワードが顔を覗かせる。
「待っていたよ」
低く甘い声とともに、彼はわたしの手の甲にそっと唇を触れさせ、そのまま優しく部屋の中へと引き入れた。
エドワードの部屋は、落ち着きと洗練を兼ね備えた空間だ。深紅の厚手のカーテンが窓を覆い、壁には古典画が飾られている。
艶やかに磨かれた大理石の暖炉には火がくべられ、じんわりとした熱が部屋を満たしていた。
エドワードからは、甘い香水の香りがする。
「さあ、座って」
促されるままに、わたしはソファに腰を下ろした。すぐ隣に彼が座ると、自然と心臓の鼓動が早まる。
「フルーツを用意しておいたよ。今夜のディナーでは、いつもより食べる量が少なかったように見えたからね」
気遣うような声だった。
夜伽を前にした緊張が、彼に伝わってしまっていたのだろうか。そう思うと、恥ずかしさで頬が熱くなる。
「嬉しいですわ」
小さな声で応じると、エドワードはほっとしたように微笑み、フォークに刺したリンゴを差し出してくれた。
口に含むと、甘く瑞々しい汁が舌に広がる。
「美味しい……」
ふと視線を感じ、目を上げれば、彼はわたしの唇を見つめている。そして気づけば、自分もまた彼の唇を追っていた――。
「緊張しているのは……僕だけじゃないよね?」
エドワードは視線を逸らしながら、グラスに赤ワインを注いだ。
彼はお酒に強くない。それでも今夜ばかりは心を落ち着けようとしているのか、わずかにワインの香りが吐息に混じっていた。
いつの間にか、二人の太ももが触れ合っている。
頬に熱を感じながら、かすれる声でゆっくりと答える。
「きっと……わたしのほうが緊張していますわ」
その言葉に、彼はためらいなくグラスをあおり、ワインを一気に飲み干した。
次に顔を上げたとき、先ほどまでの照れを帯びた表情は消え失せ、真剣な眼差しに変わっていた。
「本当に?」
低くつぶやきながら、彼はそっとわたしの胸元の布地に指をかける。
指先でかすかに布を引き下ろすと、わたしの高鳴る鼓動を確かめるように、冷たい唇がそっと押し当てられた――。
***
「……ううん……」
朝の光を避けるように顔を背け、わたしは薄目を開けた。
そこが自分の寝室ではないことに気づき、「ああ……そうだった」と小さく呟く。
隣にエドワードの姿はない。すでに仕事へ出かけたのだろう。
夫より遅く起きてしまったことを恥じつつも、夜伽の翌朝は決まって寝坊してしまう。使用人たちも心得ているのか、あえて起こしには来ない。
昨日を思い返しながら、しばし余韻に浸る。
愛されるとは、こういうことなのだろう。重だるい身体さえ、誇らしく思えてしまう。
窓の外に目をやれば、すでに太陽は高く昇り、昼が近いことを告げていた。
寝すぎたと苦笑しながら重い体を起こし、姿見の前に立つ。
そこに映った自分の身体には、彼が残した無数の痕跡があった。
「見える場所は困るだろうから」と気遣うふりをしながら、容赦なく印を刻んでいったのだ。
――もしかしたら、彼は支配欲の強い人なのかもしれない。
そう思いながらも、すでにエドワードを恋しく感じている自分に気づく。
枕元のベルを鳴らすと、ほどなくしてメリーが駆け込んできた。
「奥様、おはようございます♡ ぐっすりお休みになられましたか?」
声まで弾んでいて、明らかにはしゃいでいる。
「ええ、よく眠れたわ」
そう答えると、彼女は満足げな表情を見せた。
「侯爵様は、本当に奥様を大切にしていらっしゃるのですね。 『かなり無理をさせてしまったから、今朝は起こさないでやってほしい』って、わざわざ私に言いに来られたんですよぉ」
そう言って、メリーは照れくさそうに自分の頬を押さえる。
「では、リンゴをむいてまいりますね♪」
くるりと背を向ける彼女に、思わず問いかけた。
「リンゴ?」
「ええ、リンゴが好きなようだから、起きたら必ず用意してやってほしいって……侯爵様がおっしゃってました。あれ、でも奥様は桃のほうがお好きでしたよね?」
「え? ……ええ。リンゴも好きよ」
「そうでしたか! すぐにお持ちしますね」
ご機嫌で部屋を出ていくメリーの後ろ姿を見送りながら、わたしは小さくため息をついた。
リンゴ、か……。
「僕のことを思い出して恋しがってほしい」というメッセージだろうか。
「残酷な人ね」
腫れた唇でつぶやいた。
***
シャーロットの執務室――。
机の上には、未処理の書類が山のように積み重なっている。
窓から差し込む冬の日差しが白い紙面を照らす中、彼女は羽根ペンを軽やかに走らせていた。
だが、ときおり疲れたように額へ手を当て、深い吐息をこぼす。
――侯爵夫人って、こんなにも忙しいものなのかしら……。
自分なりに最善を尽くしているつもりではあるが、エドワードが不在の折には、判断に迷う案件も少なくなかった。
気軽に相談できる相手がいれば、どれほど心強いだろう。
……いや、いないわけではない。だが――。
執事、チャーリー・ラモント。
エドワードの幼馴染でありながら、主従の一線を明確に引いて仕える彼の姿勢は、称賛すべきものだ。
礼儀も完璧で、表向きには何ひとつ問題があるようには見えない。
それでも、彼が時折こちらへ向ける表情が、どうしても気になってしまう。
苦悩とも切なさともつかない視線――それを受けるたび、胸の奥がざわめいた。
これでも「理想の花嫁」と謳われた身だ。
もしや彼は、秘めたる想いを抱えているのでは……。
そう考え、彼とは距離を置き、必要以上の接点を持たぬよう努めているのが実情だった。
そこまで考えたとき、ふと背筋が凍るような思いが頭をよぎる。
――もし、チャーリーがわたしの妊娠を望んでいなかったとしたら……?
執事という立場を利用すれば、妊娠を阻む工作など、いくらでも可能だ。
たとえば、日頃から好んで口にしているお茶に、密かに何かを混ぜていたとしたら……。
そして、疑念は彼だけにとどまらない。
もうひとり、わたしの周囲にいる人物――主治医のターニャ・ラクモア。
輿入れの折、エドワードが新たに迎え入れた、黒髪の陰気な女医である。
先代の主治医は高齢を理由に引退し、代わって白羽の矢が立ったのが、かつてエドワードと同じアカデミーで学んだというターニャだった。
「女性のほうが、君も気兼ねなく話せるだろうしね。彼女は学生時代から抜群に優秀だったんだ」
そう微笑んだ夫の言葉を聞いたとき、医師にさえ嫉妬するのかと、愛らしく思ったものだ。
だが――。
もし、ターニャが学生時代からエドワードに秘めた想いを抱き続けていたとしたら……。
毎日飲まされている「滋養増強剤」と称する煎じ薬が、実はまったく別のものだったとしたら……?
――はっきりさせなければ!
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