『悪事はすべて、お見通し』 ~黒猫の潜入手帖~
吉良奈都(きらなつ)
第1話 完璧な結婚
――天は二物を与えず。
神は、一人の人間に多くの才能や幸運を与えることはしない。
頭脳明晰であっても美貌には恵まれなかったり、裕福な家に生まれても健康を損なっていたりと、すべてを備えた完璧な人間など、この世には存在しないのだ。
しかし、神という存在は実に気まぐれだ。
ときおり、この理をはなから無視したかのような人間を、この世に送り出すことがある。
ここにも、神からあらん限りの祝福を受けて生まれてきたかのような人間が一人いる。
――名門伯爵家の令嬢、シャーロット・セントレアである。
栗色の艶めく髪。陶器のように白く滑らかな肌。そして、潤んだ黒い瞳。清楚でありながら愛らしい顔立ちは、まるで神の最高傑作のようだった。
幼少期からその美しさは際立っており、十五歳で社交界にデビューしてからは、彼女の一挙手一投足が注目を集めるようになる。
パーティーで身に着けたドレスや髪型はもちろん、食べ物の好みや、最近読んだ本に至るまで、彼女の全てが人々の関心の的だった。
年頃の令嬢たちは少しでも彼女に近づこうとし、
令息たちは、わずかでも言葉を交わそうと機会をうかがった。
また、才色兼備という言葉は、まさに彼女のためにある。
帝国の最高学府である皇立アカデミーを優秀な成績で卒業し、在学中も驕ることなく努力を重ねる姿は、他の生徒たちの模範であった。
家柄、美貌、知性、品格。
貴族の子女に求められるすべてを兼ね備えた、奇跡のような存在。
そんな彼女は、いつしか社交界で「理想の花嫁」と呼ばれるようになる。
当然のことながら、社交界では彼女の嫁ぎ先が常に話題に上った。
皇太子の名まで候補に挙がる中、彼女の夫となった幸運な男は、侯爵家の嫡男、エドワード・ノイヴァンだった。
――エドワード・ノイヴァン小侯爵。
彼もまた「奇跡の貴公子」と称される、神の愛し子である。
金色の髪に澄んだ蒼い瞳。
睫毛の一本に至るまで美しいと評される存在だった。
二人の結婚は、貴族のみならず平民にまで知れ渡り、帝国中の話題をさらうこととなる。
三月の、まだ肌寒さの残る季節。
澄み渡る青空のもとで執り行われた式典は、まるで天までもが祝福しているかのようだった。
純白の衣装に身を包み、並び立つ二人の姿はあまりにも神々しく、新聞の一面には『まるで神話のよう!』という見出しが躍った。
――そんな世紀のウェディングから、九か月。
夫のエドワードは、ただ美しいだけではなく、有能で優しい。夫として、これ以上ない理想的な人物だった。
シャーロットとの夫婦仲も良好で、表向きには何ひとつ問題のない、完璧な夫婦に見える。
だが、シャーロットには、人知れず思い悩んでいることがあった。
――なかなか、子が授からない……!
銀のスプーンをくわえて生まれ、蝶よ花よと育てられ、「理想の花嫁」の称号まで得たあと、名門侯爵家に嫁いだシャーロットにとって、これは生まれて初めて直面する難局だった。
夫婦仲は良好で、健康状態にも問題はない。ならば子ができるのも、時間の問題なのでは……? そんな声が聞こえてきそうだ。
だが、シャーロットには妊娠を急がねばならない、明確な理由があった。
それは、結婚契約書の存在である。
貴族にとって結婚とは、家門同士の結びつきを意味する。
そのため婚前に契約書を交わすことは、決して珍しいことではなかった。
二人も例外ではない。
婚儀を控えたある日、シャーロットは契約書に署名するため、エドワードのもとを訪れた。
持参金の取り扱い、財産や相続の規定、夫婦としての義務、不貞や背信への罰則。内容は、いかにもありふれたものばかりだった。
――ただ、一文を除いて。
「婚姻より一年を経ても懐妊の兆しがない場合、第二夫人を迎えること」
エドワードによれば、この条項だけは両親の強い要望で、どうしても削れなかったという。
由緒ある家門ほど、血筋を絶やさないことへの執着は強い。
シャーロットの胸には、抵抗があった。
だが、彼が穏やかな微笑みを浮かべながら、「僕も早く、二人の赤ちゃんに会いたいな」と囁いた言葉に心を揺さぶられ、彼女は契約書にサインをしたのだった。
***
十二月に入り、フォレスト帝国はぐっと冬らしい装いになった。まだ雪は降らぬものの、吐く息は白く、街は凛と澄んだ空気に包まれている。
この日、シャーロットは久しぶりに実家を訪れていた。
春に結婚して以来、侯爵家の女主人として、目の回るような日々を送ってきた彼女を案じて、侍女のメリーが「たまにはご実家で息抜きをなさっては」と提案したのだ。
高い天井には、幾重にもカットされたクリスタルのシャンデリアが輝き、昼下がりの光を受けて万華鏡のようなきらめきを放っている。
暖炉の炎がぱちぱちと心地よい音を立て、白磁の壺に活けられたヒヤシンスからは、甘く瑞々しい香りが漂ってきた。
シャーロットは両親とともに、広々とした濃紺のソファに腰を下ろしてくつろいでいるのだが――ため息が止まらない。
「心配しすぎよ、シャーロット。二人とも健康なんだから、きっとそのうち授かるわ」
母のチェルシーが、優しく背中を撫でながら慰める。
豊かにたなびく栗色の髪に、艶やかな黒い瞳。女神のように整った顔立ちは、何から何まで娘とよく似ていた。
社交界で「帝国の白百合」と呼ばれていた頃から、とうに二十年は過ぎているはずなのに、チェルシーはいまだ衰えを知らぬ輝きを放っている。
お母様ったら、一体いつになれば老けるのかしら……。
きっと、何の悩みもないのだ。だから相談しても、返ってくるのはいつも楽観的な言葉ばかり。
久しぶりに実家のぬくもりに触れ、肩の力が抜けるのを感じつつも、どこか冷めた思いが胸の奥に顔をのぞかせた。
チェルシーは、結婚後まもなくシャーロットを授かり、その後も続けて二人の男児を産んでいる。
血のつながった母とはいえ、何の苦労もなく子を授かった彼女に、刻一刻と時が迫る娘の焦りなど、分かるはずもなかった。
「それにね……」
娘の複雑な思いなど意に介さず、チェルシーは明るい声で続ける。
「授かったら授かったで、大変なのよ。あなたを身ごもったときなんて、つわりで果物しか受けつけなくて、げっそり痩せてしまったもの」
当時を思い出して顔を歪める母に、シャーロットは小さく鼻を鳴らした。
なかなか身ごもらない焦りから解放されるのなら、つわりだろうと何だろうと、どんな苦しみでも耐えてみせる。
むしろシャーロットは、早くつわりを経験してみたいとさえ思っていた。彼女にとってそれは、もはや憧れの対象ですらあった。
「シャーロット。エドワード君の前でも、そんな暗い顔をしているのか?」
母娘のやり取りを黙って見守っていた父が、穏やかな声で口を挟む。
「夫婦仲がこじれるのが一番まずい。あまり根を詰めすぎない方がいいぞ」
そして、少し言いにくそうに続けた。
「それと……彼は燃料の事業を始めたばかりで、苦戦しているらしいじゃないか。わたしの方から、少し援助しておくよ」
「えっ? ついこの前もそう言って――」
「いいんだ、いいんだ」
父は軽く手を振り、穏やかに笑った。
「かわいい娘のためなら、この程度、痛くもかゆくもない。それに、この事業が成功すれば、わたしの義理の息子は、帝国でも指折りの富豪に名を連ねることになる」
その表情は、心からの喜びに満ちていた。
艶やかな黒髪に黄金の瞳、すらりとした長身。若き日と変わらぬ美貌を保つ父は、名門伯爵家の当主だ。
かつて舞踏会では、令嬢たちが言葉を交わそうとこぞって列をなしたという美貌の持ち主でもある。
その父を射止めたのが、当時「帝国の白百合」と称えられた子爵家の令嬢である母だった。
一目惚れをきっかけに、二人は貴族としては珍しい恋愛結婚を果たしている。
互いを尊重し合い、仲睦まじく暮らす両親の姿は、シャーロットの憧れだった。
いつか自分たちも、二人のような夫婦になれるはず。
そう願い、実家を後にした。
***
「奥様、屋敷に到着いたしました」
考え事にふけっているうちに、いつの間にか馬車はノイヴァン邸の門を抜け、玄関前に停まっていた。
外はすでに茜色に染まり、冷えた空気の中で、屋敷を囲む並木が淡い影を落としている。
「シャーロット」
御者がドアを開けたその背後から、聞き慣れた声が響く。その声を耳にした瞬間、胸の鼓動が早くなった。
いまもなお、本当にこの人が自分の夫なのだろうかと疑いたくなることがある。
手を差し伸べてくれるその姿は、冬の澄んだ空気の中で、なお輝きを放っていた。金の髪はやわらかく光り、蒼い瞳は氷より澄んでいて、どこまでも美しい。
「エドワード……。寒いのに、わざわざ出迎えてくれたの?」
白い息を吐きながら問いかける。
「寒いからこそ、だよ。帰りが思ったより遅かったから、少し心配していたんだ」
そのまなざしが真っすぐに自分をとらえた瞬間、頬が熱くなるのを感じる。
気づけば、自然と今夜のことを思い描いてしまっていた。
エドワードは結婚を機に爵位を継ぎ、同じ時期に科学技術局の役員職にも就任した。その結果、結婚後の日々は、目の回るような忙しさに追われるものとなった。
それでも彼は、職場に泊まり込む日が続いても、月に一度の「夜伽の日」だけは、必ず屋敷に戻ってきてくれる。
――そう、まさに今夜がその日であった。
「お腹、減っているだろ?」
エドワードは、玄関を抜けてからも、わたしの手を離そうとしない。
「ええ、あなたとのディナーが楽しみで、実家ではお菓子に手をつけなかったの」
そう答えると、彼は柔らかく微笑み、その笑顔のまま茶色い髪をした執事に軽く合図を送った。
「奥様がお着替えを済まされましたら、すぐにお食事を用意できるよう厨房へ伝えてまいります」
恭しく頭を下げ、執事は静かに後ろへと下がる。
先代の執事は前侯爵夫妻に従って西の領地へ移ったため、現在本邸を取り仕切っているのは、エドワードの幼馴染であるチャーリーであった。
「じゃあ、待ってるよ」
愛しい夫はそう囁くと、名残惜しそうに私の手に口づけをした。
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