第20.5話「小鳥遊結衣は静かに暮らしたい」

 とある平日の朝。

 小鳥遊結衣は、自分の部屋で一人静かに過ごしていた。

 窓から差し込む朝日が、部屋を柔らかく照らしている。

 結衣はベッドに座って、目を閉じた。

「今日も、何事もなく平穏に暮らせますように」

 小さく呟いた。

 結衣が望むのは、静かで穏やかな日常だ。

 何も起こらない、平凡な一日。

 友達と楽しく過ごして、授業を受けて、家に帰る。

 それだけで十分だった。

 でも、最近はそれが叶わないことが多い。

 理由は——。

「大体、日常が騒がしくなるのは九条のせいだ」

 結衣は小さくため息をついた。

 九条涼真。

 クラスメイトで、三崎君の親友。

 軽口ばかり叩いて、人をからかうのが好きな男子。

 そして、結衣にとっては——犬猿の仲の相手だった。

 会えば喧嘩する。

 話せば言い争いになる。

 それが、九条との関係だった。

「今日こそは、九条と関わらないように過ごそう」

 結衣はそう決めて、学校の準備を始めた。


 家を出て、駅に向かう。

 いつもの通学路を、一人で歩く。

 静かで、穏やかな朝だった。

「このまま、何事もなく学校に着けば……」

 そう思った瞬間だった。

 前方のコンビニの前に、見覚えのある人物が立っていた。

 茶髪を無造作に整えた男子生徒。

 九条涼真だった。

「……嘘でしょ」

 結衣は思わず立ち止まった。

 でも、もう遅かった。

 涼真がこちらに気づいて、手を振ってきた。

「よう、小鳥遊」

「……おはよう、九条」

 結衣は仕方なく挨拶を返した。

「何やってんの、こんなところで」

「コンビニで朝飯買ってた」

 涼真は手に持ったおにぎりを見せた。

「お前こそ、何でここ通るんだよ」

「通学路だから」

「そっか」

 涼真は肩をすくめた。

「じゃあ、一緒に学校行くか」

「は?何で」

「同じ方向だし」

「それはそうだけど……」

 結衣は少し迷った。

 九条と一緒に登校なんて、絶対に嫌だ。

 でも、断る理由もない。

「……分かったわよ」

 結衣は渋々承諾した。

 二人並んで、学校に向かって歩き始める。

 しばらく沈黙が続いた。

 でも、涼真が口を開いた。

「そういえば、お前昨日何してた?」

「何もしてないけど」

「暇だったろ?雨だったし」

「まあ、暇だったわね」

 結衣は素っ気なく答えた。

「お前は?」

「俺も暇だった。ずっとゲームしてた」

「ふーん」

 会話が途切れる。

 また沈黙が訪れた。

 結衣は、この沈黙が心地悪かった。

 九条と二人で歩いているのが、何だか変な感じがする。

「なあ、小鳥遊」

「何よ」

「お前、最近東雲さんの恋愛相談、よく聞いてるだろ」

「……まあね」

「大変だな」

「大変よ。澪、奥手すぎるから」

 結衣は少し愚痴をこぼした。

「三崎君のこと好きなくせに、なかなか一歩踏み出せないし」

「まあ、東雲さんはそういうタイプだからな」

「そうなのよ。だから、私が背中押してあげないと」

「お前、優しいな」

 涼真がそう言った瞬間、結衣は顔を赤くした。

「優しくないわよ。ただ、友達だから」

「そっか」

 涼真は笑った。

 その笑顔が、何だか悔しくて、結衣は視線を逸らした。

「で、九条は?遼輔の恋愛、応援してるの?」

「まあな。あいつ、鈍感すぎるから」

「それは澪も同じよ」

「だよな」

 二人は笑い合った。

 その瞬間、結衣は少しだけ——。

 九条と話すのも、悪くないかもしれない。

 そう思った。

 でも、すぐにその考えを否定した。

 いや、何考えてるんだ。

 九条とは犬猿の仲だ。

 それ以上でも、それ以下でもない。


 学校に到着して、教室に入った。

 澪は既に席に座っていて、本を読んでいた。

「おはよう、澪」

「あ、おはよう結衣」

 澪は笑顔で挨拶を返した。

 そして、涼真に気づいた。

「九条君も、おはよう」

「おはよう、東雲さん」

 涼真も挨拶を返した。

 澪は少し不思議そうな顔をした。

「結衣、九条君と一緒に来たの?」

「た、たまたまよ。コンビニの前で会っただけ」

「そうなんだ」

 澪は納得したように頷いた。

 でも、その表情には少しだけ——意味深な笑みが浮かんでいた。

「珍しいね、二人で登校なんて」

「珍しくないわよ。たまたまだって言ってるでしょ」

 結衣は強く否定した。

 涼真は何も言わず、自分の席に向かった。

 結衣も自分の席に座って、鞄を置いた。

 澪が小声で聞いてきた。

「ねえ、結衣」

「何?」

「九条君と、何か話したの?」

「別に。普通の会話しただけ」

「そっか」

 澪は少し考え込んだ。

「でも、結衣と九条君、最近よく一緒にいるよね」

「いないわよ」

「いるよ。この前も、購買で一緒だったし」

「それは偶然」

「本当に?」

「本当よ」

 結衣は強く否定した。

 でも、心のどこかで——。

 本当に偶然なのか、疑問に思っていた。


 三時間目、体育の授業だった。

 今日は、バスケットボールのペア練習。

 先生がペアを発表していく。

 そして——。

「小鳥遊と九条、ペアね」

 その言葉を聞いた瞬間、結衣は固まった。

「え……」

「マジかよ」

 涼真も同じように固まっていた。

 二人は顔を見合わせた。

 そして、同時にため息をついた。

「最悪……」

「こっちの台詞だ」

 二人は渋々、体育館のコートに向かった。

 ペア練習が始まる。

 パスの練習から始まったが、二人の息は全く合わなかった。

「ほら、ちゃんと取れよ」

「あんたが変なところに投げるからでしょ」

「変なところに投げてねえよ」

「投げてるわよ」

 二人は言い争いながら、パスを続けた。

 その様子を見ていたクラスメイトが、笑いながら声をかけてきた。

「小鳥遊と九条、仲いいな」

 その言葉に、二人は同時に反応した。

「仲良くない!」

「全然仲良くないから!」

 二人の声が重なった。

 クラスメイトたちは、さらに笑った。

「いや、仲良いだろ。息ぴったりじゃん」

「ぴったりじゃないわよ」

「そうだぞ。全然合ってねえし」

 二人は必死に否定した。

 でも、クラスメイトたちは信じていない様子だった。

「まあまあ、いいじゃん。お似合いだよ」

「お似合いじゃないから!」

 結衣は顔を真っ赤にして叫んだ。

 涼真は——ニヤニヤしながら、結衣の方を見ていた。

「何笑ってるのよ」

「いや、お前が必死すぎて面白くて」

「笑わないでよ」

「笑うわ」

 涼真はますますニヤニヤしている。

 結衣は、その顔を見て、ますます腹が立った。

「もう、知らない」

 結衣はそう言って、練習に戻った。

 でも、心のどこかで——。

 涼真の笑顔が、少しだけ気になっていた。


 昼休み。

 結衣は、今日は購買で昼食を済ませようと決めていた。

 弁当を忘れたわけじゃない。

 ただ、澪と三崎君を二人きりにしてあげたかった。

 最近、澪は三崎君のことで悩んでいる。

 だから、少しでも二人の時間を作ってあげたい。

 そう思って、結衣は購買に向かった。

 購買は、校舎の一階にある。

 結衣が到着すると、既に何人かの生徒が並んでいた。

 列の最後尾に並んで、順番を待つ。

 その時、後ろから声がした。

「よう、小鳥遊」

 振り返ると、涼真が立っていた。

「……何で九条がいるのよ」

「俺も購買に来ただけだけど」

「そう」

 結衣は短く答えて、前を向いた。

 涼真が隣に並んだ。

「小鳥遊が購買行くってことは、遼輔と東雲さんを二人きりにしたいのかなって思ったから、俺も来ただけ」

「……え?」

 結衣は驚いて、涼真を見た。

「あと、普通に今日、購買の気分だった」

 涼真はそう言って、笑った。

 その笑顔を見て、結衣も思わず笑ってしまった。

「何よ、それ」

「まあ、そういうことだ」

 涼真は肩をすくめた。

「お前も、東雲さんのこと考えてたんだろ」

「まあ、ね」

 結衣は素直に認めた。

「澪、最近悩んでるから」

「そっか。優しいな、お前」

「優しくないわよ」

「いや、優しいって」

 涼真は真剣な顔で言った。

「友達のこと、ちゃんと考えてるじゃん」

「……当たり前でしょ」

 結衣は少し照れくさそうに答えた。

 涼真は、結衣の横顔を見て、少し笑った。

「小鳥遊の笑ってるとこ、珍しい」

「え?」

「いつも、俺に対して怒ってるか、呆れてるかだから」

「それは九条が悪いんでしょ」

 結衣は少しムッとして言った。

 でも、その声は——優しいトーンだった。

「うるさい、バカ」

「バカはお前だろ」

 二人は笑い合った。

 その瞬間、結衣は思った。

 九条と話すのも、悪くない。

 こうやって笑い合えるなら、それも悪くない。

 そう思った。

 でも、すぐにその考えを否定した。

 いや、何考えてるんだ。

 九条とは犬猿の仲だ。

 それ以上でも、それ以下でもない。


 放課後。

 結衣は、一人で帰る準備をしていた。

 いつもなら、澪と一緒に帰るのだが、今日は澪が三崎君と図書館で勉強すると言っていた。

 だから、結衣は一人で帰ることにした。

 鞄を持って、教室を出る。

 廊下を歩きながら、結衣はふと思った。

 いつもなら、この時間に九条が——。

 いや、何を考えてるんだ。

 九条なんて、関係ない。

 結衣は首を振って、校舎を出た。

 校門を出て、駅に向かって歩き始める。

 静かな帰り道だった。

 誰もいない。

 話し相手もいない。

 ただ、一人で歩くだけ。

 それが、結衣が望んでいた平穏な日常のはずだった。

 でも——。

「いなかったら、いなかったで……静かで嫌だな」

 結衣は小さく呟いた。

 九条がいない。

 いつもなら、この時間に九条が現れて、軽口を叩いてくる。

 それが嫌で、いつも言い返していた。

 でも、今日はいない。

 それが——何だか寂しかった。

「九条、いつものように話せたらな……」

 結衣は思わずそう呟いて、慌てて首を振った。

「いやいや、なんで私が九条なんかと!」

 自分に言い聞かせるように、強く否定した。

 九条とは犬猿の仲だ。

 一緒にいると、いつも喧嘩になる。

 それなのに、どうして——。

 いないと寂しいなんて思うんだろう。

 結衣は、その答えを見つけられなかった。

 ただ、静かな帰り道を歩きながら——。

 少しだけ、残念に思っていた。

 九条がいない帰り道が、こんなにも静かで、こんなにも寂しいなんて。

 思ってもみなかった。

 結衣は、小さくため息をついた。

「何考えてるんだろう、私……」

 自分でも、よく分からなかった。

 九条のことを、どう思っているのか。

 嫌いなのか。

 それとも——。

 答えは、まだ出ていなかった。

 でも、一つだけ分かったことがある。

 九条がいない日常は——思っていたより、つまらない。

 それだけは、確かだった。

 結衣は、夕暮れの道を一人で歩き続けた。

 静かで、穏やかで。

 でも、少しだけ寂しい帰り道だった。

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