第19話「年上お姉さんは俺の恋愛において最も嗜好である」
土曜日の朝。
目覚まし時計が鳴る前に、俺は自然と目が覚めた。
時刻は午前七時。
今日はバイトの日だ。
カーテンを開けると、晴れ渡った青空が広がっていた。
気持ちのいい朝だ。
俺は着替えて、身だしなみを整える。
鏡の前で髪を整えながら、ふと気づいた。
今日は、何だか気分がいい。
いつもより心が軽い。
それは、きっと——バイトに行けるからだ。
白石先輩に会える。
その事実が、俺の心を弾ませていた。
部屋を出て、階段を降りる。
リビングには、既に遼音が座っていた。
「おはよう」
「……おはよう、お兄」
遼音は短く挨拶を返した。
そして、俺をじっと見つめた。
「何だよ」
「お兄、やけに上機嫌だね」
「そうか?」
「うん。顔に出てる」
遼音は冷静に言った。
「また白石さんに会えるからでしょ」
「……」
俺は何も答えられなかった。
図星だったからだ。
遼音は小さくため息をついた。
「お兄のバカ」
「何だよ、急に」
「何でもない」
遼音は視線を逸らした。
相変わらず、不愛想だ。
俺は朝食を食べて、バイトの準備をした。
玄関で靴を履こうとすると、遼音が階段から降りてきた。
「行ってきます」
「……」
遼音は何も言わなかった。
ただ、小さく呟いた。
「お兄のバカ」
「だから、何だよそれ」
「いってらっしゃいの代わり」
遼音はそう言って、リビングに戻っていった。
俺は少し苦笑して、家を出た。
バイト先の「喫茶 ひだまり」までは、家から歩いて十分ほどの距離だ。
N市の静かな通りを歩きながら、俺は今日の予定を考えていた。
バイトは午前九時から午後四時まで。
それが終わったら、家に帰って宿題をする。
普通の休日だ。
でも、白石先輩に会える。
それだけで、特別な一日になる。
そう思いながら、俺は喫茶店の前に到着した。
「喫茶 ひだまり」
古い看板に書かれた店名が、朝日に照らされて輝いていた。
この店は、常連客に愛される小さな喫茶店だ。
大きな店ではないし、流行りの店でもない。
でも、温かみのある、落ち着いた雰囲気が魅力だった。
従業員用の入り口から中に入る。
バックヤードで制服に着替えて、エプロンを身につけた。
鏡で身だしなみを確認して、店内に出る。
すると、カウンターの奥で店長と白石玲奈先輩が話していた。
「おはようございます」
俺が挨拶すると、二人がこちらを向いた。
「おはよう、遼輔君」
白石先輩が優しく笑った。
その笑顔を見た瞬間、胸が高鳴った。
ドクン、と。
心臓が大きく跳ねる。
「おはよう、三崎君」
店長も笑顔で挨拶してくれた。
店長は三十代後半くらいの女性で、この店のオーナーだ。
優しくて面倒見がいい人で、俺たちバイトにも親切に接してくれる。
「今日もよろしくね」
「はい、よろしくお願いします」
俺は挨拶を済ませて、開店準備を始めた。
テーブルを拭いて、椅子を整える。
コーヒー豆を確認して、砂糖とミルクを補充する。
いつもの作業を、一つ一つ丁寧にこなしていく。
その間、白石先輩も準備をしていた。
カウンターでコーヒーカップを並べている姿が、視界の端に映る。
俺は時々、その姿をチラリと見た。
白石先輩の横顔。
丁寧に作業をする手つき。
全部が、美しく見えた。
そして、時々目が合う。
白石先輩が微笑んでくれる。
その瞬間、また胸が跳ねる。
何だろう、この感覚。
いつもと違う。
白石先輩のことは、前から好きだった。
憧れていた。
年上のお姉さんとして、理想の存在だった。
でも、最近は——。
その感情が、少し変わってきている気がする。
ただの憧れじゃない。
もっと特別な感情。
それが何なのか、まだはっきりとは分からない。
でも、確かに心の中で何かが動いている。
俺はその感情に戸惑いながらも、いつも通りに振る舞おうとした。
「遼輔君、お客さん来たよ」
白石先輩の声で我に返る。
「あ、はい」
俺は慌てて接客に向かった。
常連のお客さんが入ってきて、いつもの席に座った。
「いらっしゃいませ」
「おう、三崎君。今日も元気だね」
「ありがとうございます」
注文を取って、厨房に通す。
コーヒーを淹れて、トレイに乗せる。
お客さんのテーブルに運んで、丁寧に置いた。
「ごゆっくりどうぞ」
「ありがとう」
お客さんは満足そうに頷いた。
カウンターに戻ると、白石先輩が俺を見て微笑んだ。
「遼輔君、接客上手になったね」
「そうですか?」
「うん。最初の頃より、ずっと自然になってる」
白石先輩は優しく言った。
「これも、白石先輩が教えてくれたおかげです」
「そんな、私は何もしてないよ」
「いえ、本当に」
俺が真剣に言うと、白石先輩は少し照れくさそうに笑った。
その笑顔が、また胸に響く。
ドキドキする。
白石先輩と話していると、いつもこうだ。
心臓が激しく跳ねて、顔が熱くなる。
それが、最近特に強くなっている気がする。
店長は、カウンターの奥から俺たちの様子を見ていた。
遼輔君と玲奈ちゃんが話している姿。
遼輔君の表情が、明らかに緩んでいる。
玲奈ちゃんと話す時だけ、あんな顔をする。
店長は、すぐに気づいた。
遼輔君は、玲奈ちゃんのことが好きなんだ。
それも、ただの憧れじゃない。
恋心に近い感情を抱いている。
でも、本人はまだ気づいていないようだった。
あるいは、気づいていても認めたくないのかもしれない。
店長は小さく笑った。
(あの子、何だか知らないけど、年上好きっぽいよねぇ)
遼輔君が初めてバイトに来た時から、そう感じていた。
玲奈ちゃんに対する態度が、明らかに特別だった。
他のバイト仲間や、店長自身に対する態度とは違う。
玲奈ちゃんに対してだけ、目が輝いている。
(そのくせ、私にはちっとも好意なんて見せないくせに)
店長は少しだけ拗ねた。
まあ、仕方ない。
玲奈ちゃんは若くて可愛いし、優しい。
遼輔君くらいの年齢の男の子が憧れるのも、無理はない。
(ま、玲奈ちゃん可愛いもんね)
店長は玲奈を見た。
玲奈は遼輔君と笑いながら話している。
その姿は、本当に美しかった。
でも、玲奈には——。
店長は、あることを知っていた。
でも、今はまだ、何も言わない。
遼輔君が自分の気持ちに気づいて、それを確かめる時間が必要だ。
その時が来たら——。
店長は、優しく見守ることにした。
午前中の営業は、穏やかに進んだ。
常連客が数人訪れて、コーヒーを飲みながらゆっくりと過ごしていった。
俺は白石先輩と一緒に、接客やコーヒーを淹れる作業をこなした。
時々、白石先輩と話す時間があった。
「遼輔君、学校はどう?」
「まあ、普通です」
「友達とは仲良くやってる?」
「ええ、まあ」
俺は涼真や澪のことを思い出した。
「幼馴染の子とか、親友とか、色々いますから」
「そっか。それは良かった」
白石先輩は優しく笑った。
「遼輔君、最近大人っぽくなったね」
「そうですか?」
「うん。バイト始めた頃より、ずっと落ち着いてる」
「白石先輩のおかげです」
「また、そんなこと言って」
白石先輩は少し照れくさそうに笑った。
その笑顔を見て、俺はまた胸が高鳴るのを感じた。
白石先輩は、本当に理想の人だ。
優しくて、落ち着いていて、大人の余裕がある。
一緒にいると、安心する。
でも、同時にドキドキする。
この矛盾した感情が、何なのか。
まだ、はっきりとは分からなかった。
昼休憩の時間になった。
俺と白石先輩は、店の奥の休憩室で休憩を取った。
二人で並んで座って、店長が用意してくれた昼食を食べる。
「遼輔君、最近何か楽しいことあった?」
白石先輩が聞いてきた。
「楽しいことですか……」
俺は少し考えた。
「この前、友達と遊びに行きました」
「どこに?」
「ショッピングモールです」
「いいね。楽しかった?」
「ええ、まあ」
俺はあの日のことを思い出した。
澪と手錠で繋がって、一日中一緒にいた日。
あれは、楽しかったけど、恥ずかしかった。
「その幼馴染の子と?」
「え?」
「前に話してた、幼馴染の女の子」
白石先輩は微笑んだ。
「その子と行ったの?」
「あ、ええ……まあ」
俺は少し照れくさくなった。
「仲良しなんだね」
「まあ、昔からの付き合いですから」
「それって、素敵なことだよ」
白石先輩は優しく言った。
「大切にしてあげてね」
「はい」
俺は頷いた。
白石先輩は、いつも俺のことを気にかけてくれる。
優しくて、思いやりがあって。
そんな白石先輩が、俺は好きだ。
年上のお姉さんとして。
憧れの存在として。
——いや、それだけじゃない。
もっと特別な存在として。
俺は、白石先輩のことが——。
考えかけて、俺は頭を振った。
今は、そんなことを考えている場合じゃない。
まだ、自分の気持ちがはっきりしていないんだから。
午後の営業も、穏やかに進んだ。
常連客が何人か訪れて、静かに時間を過ごしていった。
俺は白石先輩と一緒に働きながら、時々白石先輩の姿を見た。
コーヒーを淹れている姿。
お客さんと話している姿。
全部が、美しくて、魅力的だった。
俺は、白石先輩のことが好きなんだ。
それは、間違いない。
でも、この感情が恋なのか、憧れなのか。
それは、まだ分からなかった。
ただ、一つだけ確かなことがある。
白石先輩と一緒にいる時間が、俺にとって一番幸せな時間だということ。
それだけは、間違いなかった。
午後四時。
バイトの時間が終わった。
俺は制服を脱いで、私服に着替えた。
店を出る前に、白石先輩に挨拶した。
「お疲れさまでした」
「お疲れさま、遼輔君」
白石先輩は優しく微笑んだ。
「また来週ね」
「はい」
俺は店を出た。
外はまだ明るかったが、少しずつ夕暮れが近づいていた。
家に向かって歩きながら、今日一日を振り返った。
白石先輩と一緒に働けた。
それだけで、満足だった。
心が満たされていた。
白石先輩は、俺にとって特別な存在だ。
年上のお姉さんとして。
憧れの存在として。
そして——もしかしたら、恋する相手として。
その答えを、俺はまだ見つけられていない。
でも、いつか分かる時が来るだろう。
そう思いながら、俺は夕暮れの道を歩き続けた。
家に帰ると、遼音が玄関で待っていた。
「お帰り、お兄」
「ただいま」
遼音は俺の顔を見て、少し不機嫌そうな顔をした。
「また、その顔」
「何の顔だよ」
「白石さんに会えて嬉しそうな顔」
「……」
俺は何も答えられなかった。
遼音は小さくため息をついた。
「お兄のバカ」
「だから、何だよそれ」
「何でもない」
遼音はそう言って、リビングに戻っていった。
俺は少し苦笑して、自分の部屋に向かった。
今日も、白石先輩のことを考えた一日だった。
それが、幸せだった。
そう思いながら、俺は部屋のドアを閉めた。
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