第16話「ヨーコちゃんは今日も不機嫌だ」
その後、朝食を食べて、学校の準備をする。
玄関を出ると、澪が既に待っていた。
「おはよう、遼輔」
「おはよう」
いつもと変わらない挨拶。
いつもと変わらない朝。
でも——。
昨日、遼子に言われたことが頭から離れなかった。
『澪、いい子だから。他の男に取られても知らないよ』
その言葉が、何度も脳内で繰り返される。
澪が、他の男と一緒にいる姿。
笑いながら、楽しそうに話している姿。
そんな光景を想像した瞬間——。
胸が、ギュッと締め付けられるような感覚があった。
「遼輔?」
澪の声で我に返る。
気づくと、澪が不思議そうな顔で俺を見ていた。
「どうしたの?ぼーっとして」
「あ、いや。何でもない」
俺は慌てて視線を逸らした。
「そう?」
澪は少し心配そうに俺を見たが、それ以上は追及しなかった。
二人で並んで歩き始める。
いつもと同じ道。
いつもと同じ距離。
でも、今日は何だか違う。
澪のことを、いつもより意識してしまう。
横を歩く澪の姿。
時々こちらを見る澪の視線。
全部が、妙に気になった。
「ねえ、遼輔」
「ん?」
「今日の数学の宿題、やった?」
「ああ、やったけど」
「よかった。私もやったんだけど、自信なくて」
澪は少し不安そうに言った。
「また後で見せてもらっていい?」
「ああ、いいぞ」
普段なら何でもない会話。
でも、今日は何だか胸がざわざわする。
澪の笑顔を見ると、心臓が跳ねる。
これって、何なんだろう。
「遼輔、本当に大丈夫?」
澪がもう一度聞いてきた。
「何か様子変だよ」
「大丈夫だって。ちょっと寝不足なだけ」
「そう……無理しないでね」
澪は心配そうな顔をした。
その表情を見て、また胸がキュッとなる。
澪は、いつも俺のことを心配してくれる。
優しくて、思いやりがあって。
そんな澪が——。
いや、何を考えてるんだ。
俺は頭を振って、考えるのをやめた。
でも、心のどこかで、遼子の言葉が引っかかっていた。
学校に着いて、二人で校舎に入った。
廊下には、既に多くの生徒たちが集まっていた。
「じゃあ、また後でね」
「ああ」
澪は自分の席に向かい、俺も窓際の席に座った。
鞄を置いて、教科書を取り出す。
その時、涼真が隣の席に座った。
「よう、遼輔」
「おはよう」
「今日も東雲さんと一緒に登校か」
「まあ、な」
「相変わらずだな」
涼真は笑いながら言った。
「でも、お前今日何か変だぞ」
「え?」
「顔、赤くないか?」
「赤くないって」
「いや、絶対赤い」
涼真はニヤニヤと笑った。
「もしかして、東雲さんのこと意識し始めた?」
「してない」
「嘘つけ。顔に書いてあるぞ」
「書いてねえよ」
俺は強く否定したが、涼真は信じていない様子だった。
「まあ、いいけどさ。そのうち気づくだろうし」
「何にだよ」
「自分の気持ちに」
涼真はそう言って、教科書を開いた。
その言葉が、また胸に引っかかる。
自分の気持ち。
俺は、澪のことをどう思っているんだろう。
考えようとして、チャイムが鳴った。
ホームルームが始まる。
城崎先生が教室に入ってきた。
でも、その表情は明らかに機嫌が悪かった。
「おはよう」
城崎先生の声は、いつもより低く、冷たかった。
「おはようございます」
クラス全員で挨拶をした。
でも、城崎先生の表情は変わらない。
むしろ、さらに不機嫌そうになった気がする。
「出席取るわよ」
城崎先生は出席簿を開いて、淡々と名前を呼んでいく。
全員の出席を確認した後、城崎先生は大きくため息をついた。
「はあ……」
その深いため息に、クラス全員が戸惑った。
誰かが勇気を出して、手を挙げた。
「先生、何かあったんですか?」
男子生徒の一人が聞いた。
城崎先生は眼鏡を直して、その生徒を見た。
「聞きたい?」
「え、えっと……」
「聞きたいのね。じゃあ、話してあげる」
城崎先生は教壇に手をついて、クラスを見渡した。
「昨日、合コン行ったのよ」
その言葉に、クラス中がざわついた。
城崎先生が合コン?
「で、そこにすっごくいい男がいたわけ」
城崎先生は遠い目をした。
「背が高くて、優しくて、仕事もできそうで」
「ほうほう」
クラスメイトの一人が相槌を打った。
「それで、すごく意気投合したのよ。連絡先も交換して、いい感じだったの」
「それ、よかったじゃないですか」
「よくないのよ」
城崎先生は強い口調で言った。
「結局、その男、他の女を持ち帰りやがった」
その言葉に、クラス中が静まり返った。
「信じられる?私と楽しそうに話してたのに、最後は他の女選んだのよ」
「それは……災難でしたね」
「災難なんてもんじゃないわよ」
城崎先生は机を叩いた。
「私、何がダメなの?見た目?性格?」
「いや、先生は十分魅力的だと思いますけど」
「じゃあなんで選ばれないのよ!」
城崎先生の叫びに、クラス全員が苦笑いした。
また始まった。
城崎先生の恋愛トーク。
これは、定期的に発生するイベントだった。
「もう、男って信用できない」
城崎先生は大げさにため息をついた。
「みんなも気をつけなさいよ。特に女子」
「はーい」
女子生徒たちが適当に返事をした。
「あと、男子も」
城崎先生は男子生徒たちを見た。
「ちゃんと女の子を大切にしなさいよ。浮気なんてしたら、絶対後悔するから」
「はーい」
男子生徒たちも適当に返事をした。
城崎先生は眼鏡を直して、出席簿を閉じた。
「はい、ホームルーム終わり。一時間目の準備して」
そう言って、城崎先生は教室を出て行った。
残された生徒たちは、顔を見合わせた。
「またヨーコちゃん、やられたのか」
「可哀想に」
「でも、先生美人なのにな」
「美人だけど、何かズレてるんだよな」
クラスメイトたちが小声で話している。
涼真が俺の方を向いて、小声で言った。
「あちゃ~、今日のヨーコちゃん、機嫌悪いなぁ」
「そうだな」
「授業中、俺たちにきつく当たらなきゃいいけど」
「それは勘弁してほしいな」
俺も小声で答えた。
城崎先生は、恋愛で上手くいかなかった時、授業中に八つ当たりすることがある。
特に、カップルっぽい生徒には容赦ない。
俺と澪も、何度か標的にされたことがある。
「今日は目立たないようにしよう」
「賛成」
涼真と俺は、そう決めた。
一時間目の授業が始まった。
数学の授業だ。
城崎先生が教壇に立って、教科書を開いた。
「じゃあ、前回の続きから」
城崎先生は黒板に数式を書き始めた。
その背中からは、まだ不機嫌なオーラが漂っていた。
「この問題、誰か解ける人?」
城崎先生が振り返って、クラスを見渡した。
誰も手を挙げない。
城崎先生の機嫌が悪い時に、自分から手を挙げるのは危険だからだ。
「誰もいないの?」
城崎先生の声が、少し低くなった。
「じゃあ、指名するわね」
クラス全員が緊張した。
城崎先生の視線が、教室を舐めるように動く。
そして——。
俺と目が合った。
(やばい)
俺は心の中で呟いた。
「三崎、分かる?」
「え、えっと……」
俺は立ち上がって、黒板の問題を見た。
二次方程式の問題だ。
これなら、解ける。
「この式を因数分解して……」
俺は黒板の前に出て、解答を書いていった。
数分後、無事に正解を導き出した。
「正解」
城崎先生は短く言った。
「座って」
「はい」
俺は席に戻った。
ホッとしたのも束の間、城崎先生がまた口を開いた。
「でもね、三崎」
「はい?」
「あんた、最近浮かれてない?」
「え?」
「朝、東雲と楽しそうに登校してるでしょ」
その言葉に、クラス中がざわついた。
「い、いや、それは……」
「いいわよ、言い訳しなくて」
城崎先生は手を振った。
「青春を楽しむのは結構。でも、授業中はちゃんと集中しなさい」
「はい……」
俺は力なく答えた。
城崎先生は満足そうに頷いて、授業を続けた。
隣の涼真が、小声で言った。
「お前、やっぱり標的にされたな」
「うるせえ」
「ご愁傷様」
涼真は笑いながら、ノートに何か書いていた。
俺はため息をついて、授業に集中しようとした。
でも、心のどこかで、城崎先生の言葉が引っかかっていた。
『浮かれてる』
確かに、最近は澪のことを考えることが多い。
それが、顔に出ているのかもしれない。
でも、それって——。
考えるのをやめて、俺はノートに問題を書き写した。
授業が終わり、休み時間になった。
俺は席で教科書を整理していた。
その時、澪が俺の席に近づいてきた。
「遼輔、さっき大変だったね」
「ああ……ヨーコ先生、今日は特に機嫌悪かったからな」
「そうだね。合コンで上手くいかなかったみたいだし」
澪はクスクスと笑った。
「でも、先生も大変だよね」
「そうだな」
俺は頷いた。
城崎先生は、生徒想いで、面倒見がいい。
でも、恋愛だけは上手くいかない。
それが、先生の不憫なところだった。
「先生、美人なのにね」
澪がそう言った。
「なんで上手くいかないんだろう」
「さあな。タイミングが悪いんじゃないか?」
「そうかもね」
澪は少し考え込んだ。
「でも、いつか先生にもいい人が現れるといいね」
「ああ」
俺も同意した。
城崎先生には、幸せになってほしい。
そう思った。
昼休み。
俺はいつものように、涼真と小鳥遊、澪と一緒に昼食を食べていた。
「今日のヨーコちゃん、やばかったな」
涼真が笑いながら言った。
小鳥遊が答えた。
「先生、可哀想だよね」
「でも、先生美人なのに、なんでモテないんだろう」
「タイミングが悪いんじゃない?」
澪が言った。
「あと、恋愛に対して、ちょっと必死すぎるとか」
「それはあるかも」
小鳥遊が頷いた。
「先生、ガツガツしすぎてるのかもね」
「まあ、先生のことだから、いつか上手くいくだろ」
涼真は楽観的に言った。
「先生、人気あるし」
「そうだね」
四人で先生の話をしながら、昼食を食べた。
その時、俺はふと思った。
城崎先生は、恋愛で苦労している。
でも、生徒のことは真剣に考えてくれている。
そんな先生が、俺は好きだ。
尊敬できる先生だと思う。
ヨーコ先生も大変なんだな。
そう思いながら、俺は弁当を食べ続けた。
午後の授業も、何事もなく終わった。
城崎先生の機嫌は、午後には少し回復していた。
多分、昼休みに誰かと話して、気分転換できたんだろう。
放課後、俺は澪と一緒に帰ることにした。
「今日も疲れたね」
澪が言った。
「ああ。ヨーコ先生のせいで」
「でも、先生も頑張ってるんだよね」
「そうだな」
二人で並んで、家路につく。
今日も、色々なことがあった一日だった。
城崎先生の恋愛トーク。
涼真のからかい。
澪との何気ない会話。
全部、いつもと変わらない日常。
でも、俺の中で何かが変わり始めている。
それが何なのか、まだはっきりとは分からない。
でも、少しずつ、答えに近づいている気がした。
そう思いながら、俺は夕暮れの道を歩き続けた。
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