第10話「新学期初日は何よりも憂鬱な日だ」

 目覚ましのアラームが鳴り響く。

 いつもより少し早い時間。六時三十分。

 俺は重い体を引きずるようにして、ベッドから起き上がった。

「新学期か……」

 呟きながら、カーテンを開ける。

 九月一日。二学期の始まりだ。

 長かった夏休みが終わり、また日常が戻ってくる。

 窓の外はまだ薄暗かったが、空の色が少しずつ明るくなり始めていた。

 制服に着替えて、鏡の前で身だしなみを整える。

 夏休み中はほとんど着なかった制服が、何だか新鮮に感じる。

 いや、新鮮というより、窮屈だ。

「はあ……」

 大きくため息をついて、部屋を出た。

 階段を降りて、リビングに入る。

 母親が朝食の準備をしていて、遼音は既にテーブルに座っていた。

「おはよう」

「おはよう、お兄」

 遼音はいつも通りの冷静な口調で挨拶を返した。

「今日から学校ね」

「ああ……憂鬱だ」

「毎年同じこと言ってるよね」

「だって、本当に憂鬱なんだもん」

 俺は席に座って、トーストを手に取った。

 母親が淹れてくれたコーヒーを一口飲む。

 その苦味が、まだ目覚めきっていない頭を少しだけはっきりさせてくれた。

「でも、友達に会えるのは楽しみでしょ?」

 母親がそう言った。

「まあ、それはそうだけど」

「澪ちゃんにも会えるしね」

「……毎日会ってるけど」

「そうだけど、学校で会うのはまた違うでしょ」

 母親は意味深に笑った。

 遼音は黙って朝食を食べているが、時々こちらをチラリと見ている。

 何だか、監視されているような気分だ。

 朝食を食べ終えて、鞄を持って玄関に向かった。

「行ってきます」

「行ってらっしゃい。気をつけてね」

 母親の声に送られて、玄関のドアを開ける。

 外は少し涼しい空気が漂っていた。

 夏の終わりを感じさせる、爽やかな朝だ。

 隣の家の玄関が開いて、澪が出てきた。

「おはよう、遼輔」

「おはよう」

 いつもと変わらない挨拶を交わして、二人で歩き始める。

 夏休みを挟んだけど、この光景は何も変わっていない。

 澪と並んで登校する。

 保育園の頃から、ずっと続いている日常だ。

「久しぶりの学校だね」

 澪がそう言った。

「ああ。何か不思議な感じだな」

「分かる。夏休み、あっという間だったね」

「本当にな」

 二人で他愛もない会話を交わしながら、学校へ向かう道を歩く。

「そういえば、昨日の課題、ちゃんと終わった?」

「ああ。お前は?」

「うん。遼輔のおかげで何とかなったよ」

 澪は嬉しそうに笑った。

「ありがとう、遼輔」

「いや、俺も同じ課題忘れてたし、お互い様だろ」

「そうだけど、それでも助かったよ」

 澪の笑顔を見て、俺も自然と笑顔になる。

 こうやって、一緒に笑い合える関係。

 それが、俺と澪の距離だ。

「ねえ、遼輔」

「ん?」

「二学期も、よろしくね」

「ああ。こちらこそ」

 そんな会話を交わしながら、学校の門が見えてきた。

 久しぶりに見る校舎。

 夏休み中は補習で何度か来たけど、こうして二学期初日に見ると、また違った印象を受ける。

「さて、始まるか」

「うん」

 二人で校舎に入った。

 廊下には、既に多くの生徒たちが集まっていた。

 久しぶりに会った友達同士で、夏休みの思い出話に花を咲かせている。

「東雲さん!」

 誰かが澪に声をかけた。

 クラスメイトの女子だ。

「夏休み、どうだった?」

「楽しかったよ。そっちは?」

「私も!今度詳しく話そうね」

 澪は笑顔で応じていた。

 俺も何人かのクラスメイトに声をかけられて、軽く挨拶を交わす。

 そして、一年三組の教室に到着した。

「じゃあ、また後でね」

「ああ」

 澪は自分の席に向かい、俺も窓際の自分の席に向かった。

 席に着いて、鞄を置く。

 周りを見渡すと、クラスメイトたちが楽しそうに話している。

「よう、遼輔」

 隣の席から、涼真が声をかけてきた。

「おはよう」

「おはよう。久しぶりの学校だな」

「ああ。何か、違和感あるわ」

「分かる。夏休み長かったからな」

 涼真は席に座って、俺の方を向いた。

「で、今日も東雲さんと一緒に登校したのか?」

「まあ、な」

「おいおい、新学期早々二人で登校なんて羨ましいぜ」

 涼真はニヤニヤと笑った。

「何回言わせるんだ。だから俺たちは幼馴染で——」

「分かった分かった」

 涼真は手を振って、俺の言葉を遮った。

「お前が年上好きなのは分かったから、はよ付き合え」

「だから違うって」

 俺は呆れたように答えた。

「きっと向こうも同じこと思ってるだろうよ。ただの幼馴染だって」

「本当にそう思ってるのか?」

 涼真が真顔で聞いてきた。

「え?」

「いや、何でもない」

 涼真は肩をすくめて、視線を逸らした。

 その表情には、明らかに呆れた様子が浮かんでいた。

 (こいつ、本当に鈍感だな……)

 涼真の心の声は、俺には聞こえない。

 でも、その表情だけで十分に伝わってきた。

「お前、また何か企んでるだろ」

「企んでないって」

「嘘つけ。顔に書いてあるぞ」

「何も書いてねえよ」

 涼真は笑いながら、教科書を取り出した。

「まあ、いいけどさ。お前が幸せならそれでいいよ」

「何だよ、急に」

「何でもない。ただの独り言」

 涼真はそう言って、また笑った。

 その笑顔が、何だか意味深に見えた。


 教室の反対側では、澪と小鳥遊が話していた。

「澪!」

 小鳥遊が澪の席に駆け寄ってきた。

「おはよう、結衣」

「おはよう!久しぶり!」

 小鳥遊は嬉しそうに澪の隣に座った。

「夏休み、楽しかった?」

「うん。結構色々あったよ」

「そっか。で、で」

 小鳥遊は身を乗り出して、ニヤリと笑った。

「なーんだ。やっぱり新学期早々一緒に登校するのね」

「え?」

「三崎君と。やっと付き合ったのかと思ったわ」

「だからまだだって!」

 澪は慌てて否定した。

「昔からずっと一緒に来てるの!私たちにとって当たり前なの!」

「ふーん」

 小鳥遊は疑わしそうな目で澪を見た。

「でも、本当は三崎君と一緒にいるのが楽しいくせに」

「そ、そんなこと——」

 澪は言葉に詰まった。

 顔が少し赤くなっている。

「図星じゃん」

 小鳥遊はクスクスと笑った。

「澪、分かりやすすぎ」

「う、うるさいな……」

 澪は恥ずかしそうに俯いた。

「でも、確かに……遼輔と一緒にいると、楽しいよ」

「でしょ?」

「昔からずっと一緒だから、気を遣わなくていいっていうか」

「それって、もう完全に——」

「違うの!」

 澪は慌てて小鳥遊の言葉を遮った。

「遼輔は、私のこと幼馴染としか見てないから」

「本当にそう思ってる?」

「……思ってる」

 澪は小さな声でそう答えた。

「遼輔、いつも『幼馴染は恋愛対象じゃない』って言ってるし」

「あー、あれね」

 小鳥遊は呆れたように言った。

「三崎君、本当に鈍感だよね」

「そうなの……」

 澪はしょんぼりとした表情になった。

「私、どうしたらいいのかな」

「もっと積極的にアタックするしかないでしょ」

「でも、私そういうの苦手だし……」

「だから進展しないんだよ」

 小鳥遊は肩をすくめた。

「まあ、焦らなくてもいいけどさ。ゆっくり頑張ろ」

「うん……」

 澪は力なく頷いた。

 でも、その心の中では、確かな想いが渦巻いていた。

 遼輔と一緒にいると、楽しい。

 それは間違いない。

 でも、それを伝える勇気が、まだ持てない。

 幼馴染という関係が、壁になっている。

 遼輔が自分のことを「ただの幼馴染」としか見ていないと思うと、怖くて一歩が踏み出せない。

 だから、今はこの距離のままでいい。

 そう自分に言い聞かせていた。


 チャイムが鳴り、ホームルームが始まった。

 担任の先生が教室に入ってきて、出席を取る。

「はい、みんな揃ってるね。じゃあ、二学期初日だから、少し話をします」

 先生は教壇に立って、にこやかに笑った。

 担任の先生は、若い女性教師だ。

 生徒たちからは「先生」ではなく、愛称で呼ばれることが多い。

 面倒見が良くて、生徒想いで、感情が顔に出やすい性格だ。

 特に男子からの人気が高く、休み時間になるといつも生徒たちに囲まれている。

「夏休みはどうでしたか?楽しかった人、手を挙げて」

 クラスの大半が手を挙げた。

「そっか。良かったね。先生は全然楽しくなかったけどね」

 先生は少し不満そうに言った。

「彼氏もいないし、どこにも行けなかったし」

 その言葉に、クラス中が笑った。

「先生、また彼氏募集中なんですか?」

 誰かが茶化すように聞いた。

「募集中も何も、ずっと募集中だよ!」

 先生は大げさに嘆いてみせた。

「でも、全然応募がないの。誰か紹介してくれない?」

「先生、理想高すぎるんじゃないですか」

「高くないもん!普通の人でいいのに!」

 クラス中がまた笑った。

 先生は少し拗ねたような顔をしたが、すぐに笑顔に戻った。

「まあ、とにかく。二学期も頑張りましょうね」

「はーい」

 クラス全員で返事をした。

 ホームルームが終わり、一時間目の授業が始まる。

 国語の授業。

 久しぶりの授業は、やっぱり眠かった。

 先生の説明を聞きながら、俺はぼんやりと窓の外を見ていた。

 校庭では、体育の授業を受けている生徒たちが走り回っている。

 空は青く晴れ渡っていて、雲が一つ、ゆっくりと流れていた。

 夏休みは終わったけど、まだ夏の名残が感じられる。

 そんな空を見ながら、俺は思った。

 二学期が始まった。

 また日常が戻ってきた。

 澪と一緒に登校して、涼真とくだらない話をして、授業を受ける。

 当たり前の毎日。

 でも、その当たり前が、実は一番大切なのかもしれない。

 ふと、澪の方を見た。

 澪は真剣な顔でノートに何か書いている。

 その横顔を見て、俺は思った。

 澪と一緒にいる時間は、確かに心地いい。

 それは間違いない。

 でも、それが恋愛感情なのかどうかは、まだ分からない。

 俺は年上のお姉さんが好きだ。

 それは変わらない。

 でも、澪と一緒にいると、何だか安心する。

 この矛盾した気持ちを、どう整理すればいいのか。

 まだ答えは出ていない。

 でも、焦る必要はない。

 ゆっくりと、自分の気持ちに向き合っていけばいい。

 そう思いながら、俺は再びノートに視線を戻した。


 昼休み。

 教室は一気に賑やかになった。

 弁当を食べる生徒、購買に向かう生徒、友達と話し込む生徒。

 俺は席で弁当を広げた。

 母親が作ってくれた弁当は、いつも通りのメニューだ。

 卵焼きとウインナー、それに唐揚げ。

「遼輔、一緒に食べよう」

 涼真が自分の弁当を持ってきた。

「おう」

 二人で並んで弁当を食べ始める。

 涼真の弁当は、コンビニで買ったおにぎりとサンドイッチだった。

「お前、また手抜きだな」

「うるせえ。一人暮らしは大変なんだよ」

「涼真、一人暮らしだっけ?」

「ああ。親が転勤でさ。俺だけこっちに残ってる」

「大変そうだな」

「まあな。でも、自由だから悪くないぞ」

 涼真は笑いながら、おにぎりを頬張った。

 そんな会話を交わしながら、昼食を食べ進める。

 ふと、教室の反対側を見ると、澪と小鳥遊が一緒に弁当を食べていた。

 二人は楽しそうに話している。

 その光景を見て、俺は少しだけ安心した。

 澪が楽しそうにしているなら、それでいい。

 そう思った。

「なあ、遼輔」

「ん?」

「お前、本当に東雲さんのこと、何とも思ってないのか?」

 涼真が真剣な顔で聞いてきた。

「何でそんなこと聞くんだよ」

「いや、気になってさ」

「別に、何とも思ってないよ。幼馴染だし」

「そっか」

 涼真は少し残念そうな顔をした。

「まあ、お前がそう言うなら、それでいいけどさ」

「何だよ、その言い方」

「別に」

 涼真は話題を変えるように、別の話を始めた。

 でも、その表情は、どこか納得していないように見えた。

 昼休みが終わり、午後の授業が始まる。

 数学、英語、理科、体育。

 一日の授業を終えて、ようやく放課後になった。

「やっと終わった……」

 俺は机に突っ伏して、疲れた声を上げた。

「お疲れさま」

 涼真も同じように机に突っ伏していた。

「久しぶりの学校、疲れるな」

「本当にな」

 二人でしばらく動かずにいた。

 そのうちに、クラスメイトたちが帰り支度を始める。

「遼輔、一緒に帰る?」

 澪が声をかけてきた。

「ああ。ちょっと待ってて」

 俺は鞄を持って、席を立った。

 涼真も一緒に帰ろうとしたが、途中で別れることになった。

「じゃあな、遼輔。また明日」

「おう」

 涼真と別れて、澪と二人で校舎を出る。

 夕方の空気が、少し涼しく感じられた。

「今日も疲れたね」

「ああ。久しぶりの授業は、やっぱりキツかった」

「でも、明日からも頑張らないとね」

「そうだな」

 二人で並んで、家路につく。

 いつもと変わらない帰り道。

 でも、この道を澪と一緒に歩くのが、何だか心地よかった。

 新学期初日。

 憂鬱だった一日だったけど、悪くなかった。

 それは、きっと——。

 澪がいたからかもしれない。

 そう思いながら、俺は夕暮れの道を歩き続けた。

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