第9話「俺の夏休み最終日は絶望?」

 目が覚めて、いつものように天井を見上げた。

 ぼんやりとした意識のまま、スマホを手に取る。

 時刻は午前八時。

 日付を確認して——俺は絶望した。

「八月三十一日……」

 夏休み最終日。

 ついに、この日が来てしまった。

 俺はベッドから起き上がって、壁のカレンダーを見つめた。

 八月のページ。最後の日に赤丸がついている。

 明日から、二学期が始まる。

 長かった夏休みが、終わる。

 今年の夏は特に暑くて、例年より数日長い夏休みだった。

 それでも、あっという間だった。

 気づけば、もう最終日。

「嘘だろ……」

 俺は力なくベッドに倒れ込んだ。

 夏休みが終わる。

 あの楽しかった日々が、終わる。

 朝はゆっくり起きられて、昼間は好きなことができて、夜も遅くまで起きていられた。

 そんな自由な日々が、明日からは戻ってこない。

「絶望だ……」

 俺は重い足取りで部屋を出た。

 階段を降りて、リビングに入る。

 そこには、既に遼音が座っていた。

 テレビを見ながら、トーストを食べている。

「遼音!」

 俺は妹に駆け寄った。

「俺の夏休みがもう最終日だッ!助けてくれよォ~」

 遼音の肩に手を置いて、必死に訴える。

「うざ」

 遼音は一言で切り捨てた。

「暑いからくっつくなバカお兄」

 そして、俺の手を払いのけた。

「冷たいな!妹として慰めの言葉くらいあるだろ!」

「お兄が勝手に絶望してるだけでしょ」

 遼音は冷静にそう言った。

「というか、夏休みなんて毎年終わるんだから、今更騒いでどうするの」

「いや、でも!今年の夏休みは特別長かったんだぞ!」

「だから?」

「だから、終わるのが余計辛いんだよ!」

 俺の訴えを聞いて、遼音は大きくため息をついた。

「はいはい。じゃあ勝手に絶望してて」

「お前、本当に冷たいな」

「お兄がうるさいから」

 遼音はそう言って、またテレビに視線を戻した。

 俺は諦めて、自分の席に座った。

 母親が用意してくれた朝食が並んでいる。

 トーストと目玉焼き、それにサラダ。いつもと変わらない朝食だ。

 でも、今日は何だか味気なく感じる。

 夏休み最終日の憂鬱が、食欲を奪っていた。

「遼輔、元気ないわね」

 母親が心配そうに声をかけてきた。

「夏休みが終わるのが嫌で……」

「あら、そんなの毎年のことでしょ」

「今年は特別長かったんです!」

「でも、学校も楽しいじゃない」

「それはそうですけど……」

 俺は力なくトーストを齧った。

 その時、スマホが鳴った。

 メッセージの通知だ。

 画面を見ると、涼真からだった。

『遼輔助けてくれ』

 何だ、急に。

『課題一個忘れてたのあったわ。助けてくれ終わりそうにない』

 俺は思わず吹き出した。

 涼真も課題に追われているのか。

『自分で頑張れ』

 そう返信して、スマホを置いた。

「何、笑ってるの?」

 遼音が不思議そうに聞いてきた。

「涼真が課題終わってないって泣きついてきた」

「へえ。で、お兄は全部終わったの?」

「ああ、もちろん」

 俺は自信満々に答えた。

「俺は計画的にやってたからな。余裕だよ」

「ふーん」

 遼音は疑わしそうな目で俺を見たが、何も言わなかった。

 朝食を食べ終えて、食器を流しに運ぶ。

「ごちそうさま」

「はーい」

 母親の返事を背に、俺は自分の部屋に戻った。

 明日から二学期。

 準備をしておかないと、初日から慌てることになる。

 机の上に教科書を並べて、時間割を確認した。

 月曜日は、国語、数学、英語、理科、体育。

 教科書とノートを鞄に詰めていく。

 体操服も準備して——。

 ふと、机の引き出しを開けた瞬間、一枚のプリントが目に入った。

「あれ、これ……」

 俺は恐る恐るプリントを取り出した。

 見覚えのある課題プリント。

 そして、真っ白なまま。

「やべ」

 忘れてた。

 完全に忘れてた。

 この課題、提出期限が明日だ。

 冷や汗が背中を流れる。

 でも、よく見ると問題数はそれほど多くない。

 十問程度の数学の問題だ。

「よし、今やれば間に合う」

 俺は急いでプリントに取り組み始めた。

 幸い、難易度はそれほど高くない。

 十五分ほどで、全ての問題を解き終えた。

「ふう、助かった」

 プリントを鞄に入れて、安堵のため息をついた。

 危なかった。

 あのまま気づかなかったら、明日大変なことになっていた。

 その時、またスマホが鳴った。

 今度は澪からだった。

『遼輔助けて』

 またか。

『課題やり忘れてたのがあった』

 どうやら、澪も同じ状況らしい。

『何の課題?』

『数学のプリント。明日提出なのに、全然手をつけてなくて……』

 数学のプリント?

 もしかして、さっき俺がやったやつと同じか?

『今行くから待ってて』

 俺はそう返信して、部屋を出た。

 隣の家まで、わずか数秒の距離だ。

 澪の家のチャイムを押すと、すぐに澪が出てきた。

「遼輔!ありがとう!」

 澪は安堵した表情で、俺を家の中に招き入れた。

 澪の部屋に通されて、机の上を見る。

 広げられたプリントを見て、俺は思わず笑った。

「これ、俺がやり忘れてた課題と同じじゃん」

「え、本当?」

 澪も驚いた顔をした。

「遼輔も忘れてたの?」

「ああ。さっき気づいて、慌ててやったところだ」

「よかった。私だけじゃなかったんだ」

 澪はホッとしたように笑った。

「じゃあ、一緒にやろうか」

「そうだな」

 俺は澪の隣に座って、プリントを見た。

 問題を一つ一つ確認しながら、解き方を説明していく。

「まず、この式を展開して……」

「うん」

「それから、ここを因数分解すれば答えが出る」

「あ、分かった!」

 澪は嬉しそうに鉛筆を走らせた。

 俺は澪の手元を見守りながら、時々アドバイスを入れる。

「そうそう、いい感じだ」

「本当?」

「ああ。もう大丈夫だろ」

 澪は順調に問題を解き進めていった。

 時々間違えることもあったが、すぐに修正できる程度だった。

「遼輔が教えてくれるから、すごく分かりやすい」

「そうか?」

「うん。遼輔の説明、いつも丁寧だから」

 澪の言葉に、俺は少し照れくさくなった。

「別に、普通に説明してるだけだけど」

「それでも、ありがとう」

 澪は笑顔でそう言った。

 その笑顔を見て、俺は思った。

 こうやって澪と一緒に過ごす時間は、やっぱり心地いい。

 特別なことをしているわけじゃない。

 ただ、一緒に課題をやっているだけ。

 でも、それが楽しい。

 三十分ほどで、澪は全ての問題を解き終えた。

「できた!」

「おお、お疲れさま」

「ありがとう、遼輔。助かったよ」

「いや、俺も同じ課題忘れてたから、お互い様だ」

 二人で笑い合った。

 その時、澪がふと時計を見た。

「もうお昼だね」

「本当だ」

 時計を見ると、既に十二時を回っていた。

「お昼ごはん、一緒に食べない?」

 澪が提案した。

「うちの母さん、今日カレー作ってるから」

「いいのか?」

「うん。遼輔なら大歓迎だって、母さんも言ってたし」

「じゃあ、お言葉に甘えるかな」

 澪の家のリビングに降りると、澪の母親が笑顔で迎えてくれた。

「あら、遼輔君。久しぶりね」

「お邪魔してます」

「全然構わないわよ。今日はカレーだから、たくさん食べてね」

「ありがとうございます」

 三人でテーブルに座って、カレーを食べ始めた。

 澪の母親が作るカレーは、いつも美味しい。

 スパイスが効いていて、でも辛すぎない。

 野菜もたっぷり入っていて、栄養バランスもいい。

「美味しいです」

「ありがとう。遼輔君、よく食べるわね」

「母さん、遼輔の食べっぷりを褒めないでよ。恥ずかしいから」

 澪が恥ずかしそうに言った。

「いいじゃない。食べてくれる人がいると、作り甲斐があるのよ」

 澪の母親は笑いながらそう言った。

 和やかな昼食の時間が過ぎていく。

 食べ終わった後、澪の母親が言った。

「遼輔君、いつもありがとうね。澪の面倒見てくれて」

「いえ、そんな」

「本当よ。澪、遼輔君にはちゃんと感謝しなさいよ」

「分かってるよ、母さん」

 澪は少し頬を膨らませた。

 その姿を見て、俺は自然と笑顔になった。


 澪の家を出て、自分の家に戻る。

 時刻は午後一時過ぎ。

 夏休み最終日も、もう半分が過ぎていた。

 部屋に戻って、ベッドに横になる。

 天井を見上げながら、今日一日を振り返った。

 朝は絶望していたけど、意外と充実した一日になっている。

 涼真は課題に追われていて、俺も課題を忘れていて、澪も同じだった。

 みんな、夏休み最終日は大変なんだな。

 そう思うと、少しだけ気が楽になった。

 スマホを開いて、SNSを眺める。

 タイムラインには、友人たちの投稿が流れていた。

 夏休み最終日を嘆く投稿。

 課題に追われている投稿。

 色々な投稿があったが、その中で一つ目に留まった。

 小鳥遊のアカウントだった。

 投稿には、山積みの課題の写真が載っていた。

『終わらない……誰か助けて……』

 というコメントと共に。

 俺は思わず笑った。

 小鳥遊も、課題に追われているのか。

 そういえば、小鳥遊は結構ギリギリまで課題を残すタイプだったな。

 涼真と似たようなものだ。

 でも、誰も助けに行かないんだろうな。

 そう思いながら、俺はスマホを置いた。


 その頃、小鳥遊結衣の部屋では、壮絶な戦いが繰り広げられていた。

「終わらない……絶対終わらない……」

 結衣は机に突っ伏して、絶望の声を上げていた。

 目の前には、山積みの課題プリント。

 数学、英語、国語、理科、社会。

 全ての教科のプリントが、まだ真っ白なまま積み上げられている。

「なんで私、こんなにサボったんだろう……」

 結衣は後悔の念に駆られながら、鉛筆を握った。

 でも、すぐに手が止まる。

 問題が難しすぎる。

 いや、難しいわけじゃない。

 ただ、量が多すぎる。

「澪、助けて……」

 結衣はスマホを手に取りかけて、やめた。

 澪は今頃、三崎君と一緒にいるだろう。

 邪魔するわけにはいかない。

「九条に頼む?」

 その選択肢も、すぐに却下した。

 九条に頼んだら、絶対にからかわれる。

 それだけは避けたい。

「自力で……やるしかない……」

 結衣は覚悟を決めて、プリントに向き合った。

 鉛筆を走らせる。

 一問、また一問。

 時間が過ぎていく。

 でも、プリントの山は一向に減らない。

「これ、本当に今日中に終わるの……?」

 結衣は不安に駆られながらも、手を動かし続けた。

 夏休み最終日。

 彼女の戦いは、まだ始まったばかりだった。


 夕方、俺は再び部屋でゴロゴロしていた。

 明日の準備も終わったし、やることはない。

 でも、何となく落ち着かない。

 夏休みが終わる。

 その事実が、じわじわと心に重くのしかかってくる。

「はあ……」

 大きくため息をついた。

 その時、スマホが鳴った。

 涼真からだった。

『課題終わった!ギリギリだったけど何とかなったわ』

 よかったな、と返信しようとして、やめた。

 代わりに、こう打った。

『お疲れ。明日から学校だな』

『うん。憂鬱だわ』

『同感』

 短いやり取りの後、涼真からもう一通メッセージが来た。

『でも、まあ、学校も悪くないよな』

『そうか?』

『だって、みんなに会えるし』

 涼真の言葉に、俺は少し考えた。

 確かに、学校に行けば友達に会える。

 涼真とも、澪とも、小鳥遊とも。

 それを考えると、少しだけ気分が軽くなった。

『まあ、それもそうだな』

『だろ?じゃ、また明日な』

『おう』

 メッセージを終えて、俺はベッドに寝転がった。

 夏休み最終日。

 絶望から始まった一日だったけど、意外と悪くなかった。

 澪と一緒に課題をやって、笑い合って。

 涼真ともメッセージを交わして。

 そして、明日からまた学校が始まる。

 それも、悪くない。

 そう思えるようになった自分に、少し驚いた。

 窓の外を見ると、夕焼けが綺麗に広がっていた。

 夏の終わりを告げる、少し寂しい色。

 でも、その向こうには、新しい季節が待っている。

 二学期。

 また新しい日常が始まる。

 それを、少しだけ楽しみに思いながら、俺は目を閉じた。

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