第8話「The First Love」

 目が覚めた。

 いつもなら、目覚ましのアラームに叩き起こされるような朝だ。でも今日は違った。

 アラームが鳴る五分前に、自然と目が開いた。

 天井を見上げる。白い天井。いつもと変わらない。

 でも、何かが違う。

 体が軽い。

 昨日、特別よく眠れたわけでもない。いつも通り、夜中に何度か目が覚めた。それでも、今朝は妙に体が軽かった。

 ベッドから起き上がって、カーテンを開ける。

 八月も終わりに近づき、朝の空気は少しずつ涼しくなってきていた。窓の外には、N市の静かな住宅街が広がっている。

 今日はバイトの日だ。

 午前中から夕方まで、カフェでの勤務が入っている。いつも通りの日曜日。特別なことは何もない。

 そう思いながら、制服を準備する。

 部屋着から着替えて、鏡の前に立った。髪を整えながら、ふと鼻歌が出そうになる。

 え?

 俺は慌てて口を閉じた。

 鼻歌?俺が?

 別に機嫌がいいわけじゃない。少なくとも、自覚はない。

 でも、確かに今朝は何となく気分がいい。

 理由は分からない。

 昨日のショッピングが楽しかったから?

 それとも、今日が休日だから?

 分からないけど、とにかく体が軽かった。

 部屋を出て、階段を降りる。

 リビングに入ると、既に遼音がダイニングテーブルに座っていた。

「おはよう」

「……おはよう、お兄」

 遼音は少し眠そうな顔で、こちらを見た。

 母親はキッチンで朝食の準備をしている。いつもの朝の風景だ。

「今日、バイト?」

「ああ。午前中から入ってる」

「そっか」

 遼音は短く答えて、スマホをいじり始めた。

 俺はテーブルに着いて、母親が用意してくれた朝食を食べ始める。

 トーストと目玉焼き、それにサラダ。いつもと変わらない朝食だ。

 でも、今日は何だか美味しく感じる。

「遼輔、今日は機嫌いいわね」

 母親が不意にそう言った。

「そうか?」

「ええ。何かいいことでもあった?」

「別に。普通だけど」

 俺は首を傾げた。

 機嫌がいい?自分ではそんな自覚はなかったけど。

 遼音が横目でこちらを見ていた。

 その視線に気づいて、俺は遼音の方を向いた。

「何だよ」

「……別に」

 遼音は視線を逸らして、小さく呟いた。

「お兄のバカ」

「は?何だよ、急に」

「何でもない」

 遼音はそれ以上何も言わなかった。

 俺は首を傾げながら、朝食を食べ続けた。

 遼音が何を言いたかったのか、全く分からなかった。

 朝食を終えて、バイトの準備をする。

 財布とスマホを持って、玄関に向かった。

「行ってきます」

「行ってらっしゃい。頑張ってね」

 母親の声に送られて、家を出る。

 玄関を出た瞬間、少し冷たい風が頬を撫でた。

 八月の終わり。夏ももうすぐ終わる。

 そんなことを考えながら、バイト先のカフェに向かって歩き始めた。


 カフェまでは、家から歩いて十分ほどの距離だ。

 N市の住宅街を抜けて、少し栄えた通りに出ると、すぐに店が見えてくる。

 朝の空気は霧っぽくて、少し湿っていた。

 道を歩きながら、俺は周囲の景色をぼんやりと眺めていた。

 閉まっている店のシャッター。

 まだ人通りの少ない道路。

 信号の向こうに見える、カフェの看板。

 その看板が視界に入った瞬間、胸が跳ねた。

 ドクン、と。

 心臓が一度、大きく脈打った。

 何だ、今の。

 俺は立ち止まって、胸に手を当てた。

 別に、走ってきたわけじゃない。

 体調が悪いわけでもない。

 でも、確かに胸が跳ねた。

 理由を探そうとして——すぐにやめた。

 考えても、分からない。

 そう思って、俺は再び歩き始めた。

 信号を渡って、カフェの前に到着する。

 ガラス張りの店内は、まだ開店前で暗かった。

 従業員用の入り口から中に入る。

「おはようございます」

 挨拶をしながら、バックヤードに向かった。

 ロッカーを開けて、制服に着替える。

 白いシャツに黒いエプロン。カフェの制服は、シンプルで着やすい。

 着替え終わって、鏡で身だしなみを確認する。

 髪は乱れていないか。シャツはきちんと着られているか。

 一通り確認して、店内に出た。

 そこには、既に白石玲奈がいた。

 白石先輩。

 俺のバイト先の先輩で、社会人だ。

 落ち着いた雰囲気と、大人の余裕を持った女性。

 俺の理想の「年上お姉さん」そのものだった。

「おはようございます、白石先輩」

 俺が声をかけると、白石先輩はこちらを振り返った。

「おはよう、遼輔君」

 柔らかな笑顔で、挨拶を返してくれる。

 その笑顔を見た瞬間、また胸が跳ねた。

 ドクン、と。

 さっきと同じ。いや、さっきよりも大きく。

「今日もよろしくね」

「はい、よろしくお願いします」

 俺は努めて普通に答えた。

 白石先輩は既に開店準備を始めていて、テーブルを拭いている。

 俺もエプロンのポケットから布巾を取り出して、手伝い始めた。

 二人で黙々と作業を進める。

 いつもの光景。いつもの朝。

 でも、今日は何かが違う。

 白石先輩の声が、いつもより少し低く聞こえる。

 笑顔が、いつもより柔らかく見える。

 コーヒーの匂いが店内に広がって、それが胸に残る。

 何だろう、この感覚。

 うまく言葉にできない。

 ただ、白石先輩が近くにいるだけで、胸がざわざわする。

「遼輔君、砂糖の補充お願いできる?」

「あ、はい」

 白石先輩の言葉で我に返って、俺はバックヤードに向かった。

 砂糖のストックを持ってきて、テーブルに並べていく。

 作業をしながら、俺は考えていた。

 俺は、白石先輩のことが好きなんだろうか。

 その問いに、すぐには答えられなかった。

 好き、という言葉。

 それがどういう意味を持つのか、よく分からない。

 ただ、白石先輩の近くにいると落ち着く。

 それなのに、胸はうるさい。

 矛盾している。

 落ち着くのに、ざわざわする。

 安心するのに、ドキドキする。

 これって、何なんだろう。

 きっとこれは——。

 「好き」って言葉を使うには、まだ早い感情なんだと思う。

 恋、というにはまだ曖昧で。

 憧れ、というには少し違う。

 その中間にある、名前のない感情。

 それが今、俺の胸の中にある。

「遼輔君、ありがとう」

 白石先輩が微笑んだ。

 その笑顔を見て、また胸が跳ねる。

 でも、もう驚かなかった。

 これが、俺の今の状態なんだと、何となく理解していた。


 開店準備が終わり、店のドアを開ける。

 時刻は午前九時。

 カフェの営業時間が始まった。

 最初のお客さんが入ってきて、注文を取る。

 コーヒーとトースト。シンプルなモーニングセットだ。

「かしこまりました。少々お待ちください」

 厨房に注文を通して、コーヒーを淹れ始める。

 豆を挽く音。お湯を注ぐ音。

 カフェ特有の、心地よい音たちが店内に響く。

 白石先輩は隣で、トーストの準備をしていた。

 その横顔を、ちらりと見る。

 真剣な表情で作業をしている白石先輩。

 その姿が、何だか美しく見えた。

 いや、待て。

 美しいって、何だ。

 俺は慌てて視線を逸らした。

 コーヒーを淹れることに集中する。

 お湯の温度、蒸らす時間、注ぐスピード。

 全てを意識しながら、丁寧に淹れていく。

 完成したコーヒーを、トレイに乗せる。

 白石先輩が用意したトーストと一緒に、お客さんのテーブルに運んだ。

「お待たせいたしました」

「ありがとう」

 お客さんの笑顔を見て、俺も自然と笑顔になる。

 カウンターに戻ると、白石先輩が微笑んでいた。

「遼輔君、コーヒー淹れるの上手になったね」

「ありがとうございます」

「最初の頃は、お湯の温度管理も難しそうにしてたのに」

「白石先輩が教えてくれたおかげです」

 俺がそう答えると、白石先輩は少し照れくさそうに笑った。

「そんな、私は何もしてないよ」

「いえ、本当に」

 俺は真剣な顔で言った。

「白石先輩のおかげで、色々できるようになりました」

 白石先輩は少し驚いたような顔をして、それから柔らかく笑った。

「遼輔君、真面目だね」

「そうですか?」

「うん。その真面目さ、すごくいいと思う」

 その言葉が、胸に染み込んできた。

 白石先輩に褒められた。

 それだけで、心が温かくなる。

 これって、何なんだろう。

 でも、悪い気分じゃなかった。

 むしろ、嬉しかった。

 次のお客さんが入ってきて、俺は再び接客に戻った。

 注文を取って、コーヒーを淹れて、料理を運ぶ。

 その繰り返し。

 いつもと変わらない、日常の仕事。

 でも、今日は少しだけ違う。

 白石先輩と一緒に働く時間が、いつもより特別に感じられた。

 何気ない会話。

 すれ違う時の距離。

 たまに交わす視線。

 その全てが、妙に意識される。

 これが、恋なんだろうか。

 まだ分からない。

 でも、少なくとも——。

 俺の中で、何かが動き始めている。

 それだけは、確かだった。


 午前中の忙しい時間帯が終わり、少し落ち着いた頃。

 白石先輩が休憩に入った。

 俺は一人で店番をしながら、ぼんやりと考えていた。

 昨日、涼真が言っていたこと。

 「一緒にいて楽しいってことは、それだけで十分な理由になる」

 その言葉を思い出す。

 白石先輩と一緒にいると、楽しい。

 それは間違いない。

 でも、それが恋愛感情なのかどうかは、まだ分からない。

 俺が好きなのは、年上のお姉さんだ。

 白石先輩は、まさにその理想そのもの。

 でも、それは憧れなのか、恋なのか。

 その境界線が、曖昧だった。

 お客さんが少ない時間帯。

 俺はカウンターで、グラスを磨いていた。

 その作業をしながら、ふと思った。

 もしかしたら、これでいいのかもしれない。

 今すぐに答えを出す必要はない。

 ゆっくりと、自分の気持ちを確かめていけばいい。

 急ぐ必要は、どこにもないんだから。

 そう思った瞬間、少しだけ心が軽くなった。


 夕方、バイトが終わった。

 制服を脱いで、私服に着替える。

 ロッカーを閉めて、店を出ようとした時だった。

「遼輔君」

 白石先輩が声をかけてきた。

「今日もお疲れさま」

「お疲れさまでした」

「また次も、よろしくね」

「はい」

 俺は笑顔で答えた。

 白石先輩も笑顔で、手を振ってくれた。

 その笑顔を胸に焼き付けて、俺は店を出た。

 外はまだ明るかったが、夕方の空気が漂っていた。

 家に向かって歩きながら、今日一日を振り返る。

 特別なことは、何も起きなかった。

 いつも通りの仕事。

 いつも通りの白石先輩。

 でも、俺の中で何かが変わった。

 白石先輩を見る目が、少しだけ変わった気がする。

 これが、恋の始まりなのかもしれない。

 まだ確信はない。

 でも、少なくとも——。

 その日から、バイトに行く朝は、ほんの少しだけ特別になった。

 白石先輩に会える。

 それだけで、胸が高鳴る。

 それだけで、一日が楽しみになる。

 これが恋なのか、憧れなのか。

 それはまだ分からない。

 でも、この気持ちは確かに、俺の中に芽生えていた。

 初めて感じる、この温かくて、少しくすぐったい感情。

 それを大切に、俺はゆっくりと歩き続けた。

 家までの道のりが、いつもより短く感じられた。

 それは、きっと心が軽いからだろう。

 そう思いながら、俺は夕暮れの道を歩いていった。

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