第2話「俺の幼馴染は勉強ができない」
数学の問題をいくつか解き終えて、澪は満足そうにノートを閉じた。
「ふう、これで数学は終わり。遼輔のおかげで何とかなりそう」
「まあ、基礎ができてれば応用も解けるからな」
俺は澪のノートを見ながら頷いた。確かに、最初は戸惑っていた様子だったが、一度理解すればスムーズに解けるようになっている。
「じゃあ次は……」
澪が鞄から別の教科書を取り出す。英語の教科書だった。
その瞬間、澪の表情が曇った。
「……英語、か」
「どうした?」
「英語、すっごく苦手なんだよね」
澪は教科書を見つめながら、深くため息をついた。その様子を見て、俺は少し心配になる。
「苦手って言っても、定期テストでそこまで悪い点は取ってなかっただろ」
「それは直前に必死で暗記してるからだよ。でも、文法とか全然理解できてないの」
澪は宿題のプリントを広げた。長文読解の問題が並んでいる。
「特にこういう長文、何書いてあるのか全然分かんなくて……」
「とりあえず、一緒に読んでみるか」
俺は澪の隣に座り直して、プリントを覗き込んだ。
問題文は、ある家族の夏休みの出来事について書かれた文章だった。難易度としては、高校一年生にしては少し難しめだろうか。
「じゃあ、まず最初の段落から。この文章の主語は何だと思う?」
「えっと……これ?」
澪が指差したのは、全く違う単語だった。
「いや、それは動詞だ。主語はこっち」
「あ、そうなんだ……」
澪は少し恥ずかしそうに笑った。
それから、ゆっくりと文章を読み進めていく。俺が単語の意味を説明し、文法構造を解説する。澪は真剣な表情で聞いているが、時々首を傾げていた。
「で、この部分が関係代名詞で……」
「かんけい、だいめいし……?」
「あー、えっと、つまりだな。この文章がこの名詞を説明してるってことで」
「うーん……」
澪の表情が、さらに曇っていく。
五分後、十分後。説明を続けるが、澪の理解は進んでいないようだった。
「ごめん、遼輔。もう一回説明してくれる?」
「ああ、いいよ。じゃあ、最初から」
もう一度、丁寧に説明する。だが、澪の表情は相変わらず冴えない。
「……分かった?」
「うーん……何となく」
何となく、という言葉が全てを物語っていた。全然理解できていないのだろう。
俺は少し焦りを感じ始めた。数学はすんなり教えられたのに、英語になると上手くいかない。
「じゃあ、この問題を解いてみて」
「え、えっと……」
澪はペンを持って、問題文を見つめる。しかし、手は全く動かない。
三十秒。一分。
「……わかんない」
澪がぽつりと呟いた。
「どこが分からない?」
「全部」
その答えに、俺は言葉を失った。
「全部って……さっき説明したばかりじゃん」
「だって、説明されてる時は何となく分かった気がするんだけど、いざ自分で解こうとすると頭が真っ白になっちゃうんだもん」
澪は頬を膨らませて、プリントから視線を外した。
「もう、英語嫌い。何でこんなに難しいの」
「いや、でもこれくらいは……」
「遼輔には簡単かもしれないけど、私には難しいの!」
澪の声が少し大きくなった。図書館の静かな空間に響いて、周囲の人たちがこちらを見る。
「あ……ごめん」
澪は慌てて声を落とした。顔を伏せて、プリントを睨みつけている。
その横顔を見て、俺は胸がチクリと痛んだ。
澪は拗ねている。明らかに、拗ねている。
頬を膨らませて、唇を尖らせて、プリントを睨みつけるその姿は、まるで子供のようだった。
だけど——その姿が、妙に可愛く見えてしまった。
いや、待て。
(落ち着け……俺たちはただの幼馴染だ)
俺は心の中で自分に言い聞かせる。
(きっと向こうもそう思っている。俺は年上のお姉さんが好きなんだ……!お、落ち着くんだ……そうだ、素数を数えればいいんじゃあないのか?『素数』は1と自分の数でしか割れない数字、勇気を与えてくれるってどこかの神父が言っていたような……2,3,5,7,11,13,17,19……よし、これで大丈夫だ。)
そうだ。俺が好きなのは、大人の余裕を持った年上の女性だ。こんな風に拗ねる子供っぽい女の子じゃない。
澪は幼馴染。ただの幼馴染だ。かわいいのに間違いはないが。
それ以上でもそれ以下でもない。
「りょ、遼輔?どうしたの?顔、赤いよ?」
「え?」
澪の声で我に返る。澪が不思議そうな顔で、俺を見つめていた。
「何でもない。ちょっと暑いだけだ」
「そう?でも図書館、冷房効いてるよ?」
「気のせいだよ」
俺は慌てて視線を逸らした。
澪はしばらく俺の顔を見ていたが、やがてクスッと笑った。
「何だか変な遼輔」
「変じゃねえよ」
「変だよ。顔真っ赤にして」
澪は楽しそうに笑っている。さっきまで拗ねていたのが嘘のようだった。
その笑顔を見て、俺は少しだけホッとした。
「……ごめんね、遼輔。私が出来ないからイライラさせちゃったよね」
「いや、別にイライラなんてしてないよ」
「でも、さっきちょっと困った顔してた」
澪は申し訳なさそうに笑う。
「教えるの、下手でごめん」
「そんなことない。遼輔の教え方は分かりやすいよ。私の頭が悪いだけ」
「そんなことないって。英語は慣れの問題だから」
俺は少し考えて、提案した。
「じゃあさ、今日は基礎からやり直そう。いきなり長文読解は難しいから、まず単語と文法を確認していこう」
「本当?」
「ああ。時間はまだあるし」
澪の顔が、パッと明るくなった。
「ありがとう、遼輔!」
それから、俺たちは基礎から丁寧に復習していった。
中学で習った文法事項を確認し、重要な単語を一緒に音読する。澪は真剣な表情で、俺の説明を聞いていた。
「this is a pen の文型は?」
「えっと、SVC!」
「正解。じゃあ、I play tennis の文型は?」
「SVO!」
「お、できるじゃん」
澪は嬉しそうに笑った。
基礎を確認してから改めて長文に挑戦すると、さっきよりもスムーズに読めるようになっていた。
「あ、分かった。この部分、こういう意味だよね?」
「そうそう。いい感じだ」
「やった!」
澪は小さくガッツポーズをした。その姿を見て、俺も自然と笑顔になる。
それから一時間ほど勉強を続けて、ようやく宿題のプリントを全て解き終えた。
窓の外を見ると、すっかり日が傾いていた。時計を見ると、午後四時を回っている。
「うわ、もうこんな時間」
「結構やったもんな」
澪は大きく伸びをして、疲れた様子で笑った。
「お疲れさま、遼輔。今日も助かったよ」
「まあ、宿題終わってよかったな」
「うん。これで二学期も安心」
二人で図書館を出る。外はまだ明るかったが、八月下旬の日差しは少し和らいでいた。
「お腹空いたね」
「そういえば、昼飯食ってないな」
「コンビニ寄って帰る?」
「そうだな」
近くのコンビニに立ち寄って、おにぎりとお茶を買った。澪はツナマヨネーズ、俺は鮭おにぎりを選ぶ。
コンビニを出て、家路につく。
住宅街の道を、二人並んで歩いた。おにぎりを食べながら、他愛のない会話を交わす。
「そういえばさ、涼真も小鳥遊今日も仲悪かったな」
「うん。あの二人、相変わらず喧嘩ばっかりしてるよね」
澪はクスクスと笑った。
「結衣が何か言うと、九条君が必ず反論するの。見てて面白い」
「涼真も小鳥遊には容赦ないからな」
「でも、仲は悪くないよね。むしろ仲良さそう」
「そうか?」
「うん。喧嘩してる時の二人、何だか楽しそうなんだもん」
澪の言葉に、俺は少し考えた。
確かに、あの二人は口喧嘩ばかりしているが、本気で嫌い合っているようには見えない。むしろ、お互いを意識しているような気がする。
「まあ、将来どうなるか分かんないけどな」
「え?どういう意味?」
「いや、何でもない」
澪は不思議そうな顔をしたが、それ以上は追求しなかった。
夕暮れの道を歩きながら、俺は思った。
こうして澪と並んで帰るのは、何度目だろう。
小学生の頃から、中学、そして高校。数え切れないほど、この道を一緒に歩いてきた。
いつも同じ景色。いつも同じ会話。
でも、それが心地よかった。
「ねえ、遼輔」
「ん?」
「私ね、こういう時間が好きなんだ」
澪が唐突にそう言った。
「こういう時間?」
「うん。こうやって、二人で他愛もない話をしながら帰る時間」
澪は少し照れくさそうに笑った。
「何か、すごく落ち着くんだよね。遼輔と一緒にいると」
「そうか」
「うん」
澪は前を向いたまま、続けた。
「ずっとこんな感じで、二人で笑い合っていたいな」
その言葉が、妙に心に残った。
ずっとこんな感じで。
二人で笑い合っていたい。
澪のその言葉には、どんな意味が込められているんだろう。
ただの幼馴染として?
それとも——。
考えかけて、俺は首を振った。
深く考えすぎだ。澪は幼馴染だ。昔からずっと一緒にいるから、こういう時間が落ち着くと言っただけだろう。
それ以上の意味なんて、ない。
ないはずだ。
家の前に着いた。
隣同士の家。俺と澪の家は、こうして今日も並んでいる。
「じゃあ、また明日ね」
「ああ。お疲れさま」
「うん。今日はありがとう、遼輔。おかげで宿題終わったよ」
澪は満面の笑みを浮かべた。
「じゃ、おやすみ」
「おやすみ」
澪は自分の家の玄関に向かい、ドアを開けて中に入っていった。最後に、もう一度こちらを振り返って手を振る。
俺も手を振り返して、自分の家に入った。
玄関で靴を脱ぎながら、今日一日を振り返る。
朝、澪と一緒に登校して。
学校で涼真にからかわれて。
図書館で勉強を教えて。
帰り道、他愛もない話をして。
いつもと変わらない一日だった。
でも——。
拗ねる澪の顔。
笑う澪の顔。
「ずっとこんな感じで、二人で笑い合っていたいな」と言った澪の横顔。
それらが、妙に心に残っている。
リビングに入ると、母親が夕食の準備をしていた。
「おかえり。今日は遅かったわね」
「図書館で勉強してた」
「澪ちゃんと?」
「……ああ」
母親はニヤリと笑った。
「仲がいいわね、本当に」
「だから、そういうんじゃないって」
「はいはい」
母親は相変わらず信じていない様子だった。
自分の部屋に戻り、制服を脱いで部屋着に着替える。
ベッドに座って、スマホを開いた。特に用事もないが、何となくSNSを眺める。
タイムラインには、友人たちの投稿が流れていた。夏休みの思い出を投稿している人、課題に追われている人、様々だ。
スマホを置いて、天井を見上げる。
今日も、いつも通りの一日が終わった。
明日も、きっと同じような日常が続くんだろう。
朝、澪と一緒に登校して、図書館で勉強を教えて、一緒に帰ってきた。
いつもと変わらない日常。
でも、何だろう。
今日は妙に澪のことが頭に残っている。
拗ねる顔、笑う顔、真剣に勉強する横顔。
そして、「ずっとこんな感じで、二人で笑い合っていたいな」と言った時の表情。
いや、深く考えすぎだ。
俺と澪は幼馴染。それ以上でもそれ以下でもない。
明日になれば、また同じような日常が続くんだろう。
そう思いながら、俺は目を閉じた。
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