第3話「俺の妹は今日も嫉妬する」
目が覚めて、枕元のスマホに手を伸ばす。
時刻は午前八時。夏休みも残りわずかとなった今日は、特に予定のない休日だった。
画面を開くと、涼真からメッセージが届いていた。
『今日暇?』
シンプルな一言。いつもの涼真らしい簡潔なメッセージだ。
俺は布団の中で返信を打つ。
『暇。バイトも予定もない』
送信して数秒後、すぐに返事が来た。
『じゃあゲーセン行こうぜ。昼くらいに駅前集合でどう?』
『了解』
『おっけー。じゃあまた後で』
会話が終わり、俺はスマホを置いた。
今日は涼真と遊ぶことになった。たまには友達と過ごすのもいいだろう。ここ数日、澪と一緒にいることが多かったから、気分転換にもなる。
そう思いながら、布団から這い出した。
部屋を出て、階段を降りる。リビングのドアを開けた瞬間、視線を感じた。
ダイニングテーブルの椅子に座っている妹、三崎遼音が、じっとこちらを見ていた。
いや、見ているというより——睨んでいる、と言った方が正確かもしれない。
「……おはよう」
俺が挨拶すると、遼音はフンと鼻を鳴らして顔を背けた。
仏頂面。完全に機嫌が悪い顔だ。
「何だよ、朝から」
「別に」
遼音は冷たく答えて、スマホをいじり始めた。明らかに俺を無視している。
何か怒らせることをしただろうか。昨日は特に妹と話した記憶もないし、喧嘩もしていない。
「お前、何で機嫌悪いんだ?」
「知らない」
一蹴された。
遼音は相変わらずスマホから目を離さず、俺の方を見ようともしない。その態度に、俺は少しイラッとした。
「知らないって、明らかに不機嫌じゃねえか」
「お兄の勘違いじゃない?」
「勘違いじゃねえだろ。どう見ても怒ってる」
「気のせい」
遼音は淡々とそう答えて、会話を打ち切った。
キッチンから母親の声が聞こえてくる。
「はいはい、朝から喧嘩しない。遼輔、朝ごはんできてるわよ」
「あ、うん」
俺は諦めて、母親の方へ向かった。
キッチンでは、母親がフライパンを洗いながら鼻歌を歌っている。いつも通り、朝から機嫌がいい。
「なあ、母さん。遼音、何で機嫌悪いんだ?」
小声でそう尋ねると、母親はニヤリと笑った。
「さぁ、何でだろうね」
「え、それだけ?」
「女の子の機嫌なんて、些細なことでコロコロ変わるものよ」
母親は意味深な笑みを浮かべたまま、何も教えてくれなかった。
「自分で考えなさい。ヒントはあげないわよ」
「いや、ヒントくらいくれよ」
「ダメ。これは遼輔が自分で気づかないと意味がないの」
母親は楽しそうにそう言って、キッチンから出て行った。
残された俺は、一人で首を傾げる。
遼音が怒る理由。思い当たる節がない。
昨日は図書館で澪と勉強して、夕方に帰ってきて、そのまま自分の部屋にこもっていた。妹と顔を合わせたのは夕食の時くらいで、特に会話もしていない。
何か気に障ることをしただろうか。
分からない。
テーブルに戻ると、遼音は相変わらずスマホをいじっていた。俺が近づいても、一切反応しない。
朝食のトーストと目玉焼きが並んでいる。俺は席に座って、黙々と食べ始めた。
リビングには、微妙な緊張感が漂っていた。
遼音は何も言わない。俺も何を言えばいいか分からない。
母親だけが、リビングの隅で新聞を読みながらニヤニヤしている。
沈黙が続く中、俺はふと思い出した。
そういえば、昨日の夜、遼音が階段を上がってくる音が聞こえた気がする。俺の部屋の前で少し止まって、それからまた階段を降りていった。
あれは何だったんだろう。
でも、それと今朝の不機嫌さに関係があるとは思えない。
「……今日、涼真と遊びに行くから」
俺が何気なくそう言うと、遼音の手が止まった。
一瞬だけ、こちらを見た気がしたが、すぐにまた視線を逸らされた。
「ふーん」
興味なさそうな返事。でも、何となく声のトーンが少し変わった気がする。
「昼くらいに出るから、昼飯は外で食べる」
「勝手にすれば」
冷たい返事が返ってくる。
やっぱり機嫌が悪い。
でも、理由が分からない以上、どうしようもなかった。
朝食を食べ終えて、食器を流しに運ぶ。
「ごちそうさま」
「はーい」
母親は相変わらず楽しそうに返事をした。
リビングを出て、階段を上がる。部屋に戻って、着替えの準備をした。
出かけるまでにはまだ時間がある。ベッドに座って、スマホを開いた。
特にすることもないので、何となくSNSを眺める。友人たちの投稿が流れていく中、ふと澪のアカウントが目に入った。
最新の投稿は昨日の夜。図書館で勉強した後に撮ったと思われる、夕焼けの写真だった。
『今日も一日お疲れさまでした☀️』
というコメントと共に、N市の住宅街の風景が写っている。
ああ、あの帰り道で撮ったんだな、と思い出す。
澪は時々こうやって、何気ない日常の写真を投稿していた。特別なことが書いてあるわけじゃない。ただの日常の記録。
でも、それが何だか温かく感じられた。
「……何考えてんだ、俺」
首を振って、スマホを閉じる。
時計を見ると、十時を回っていた。そろそろ準備を始めないと、集合時間に間に合わない。
部屋を出て、再び階段を降りる。
リビングには、まだ遼音がいた。相変わらずスマホをいじっている。
「じゃあ、行ってくる」
「……」
返事はなかった。
玄関で靴を履こうとした瞬間、背後から声がした。
「お兄」
振り返ると、遼音が立っていた。
いつもの冷たい表情のまま、じっとこちらを見ている。
「何だよ」
「……別に」
遼音は一瞬だけ視線を逸らして、それから小さく呟いた。
「気をつけてね」
「え?」
「何でもない。早く行けば」
そう言って、遼音はリビングに戻っていった。
俺は少し戸惑いながら、玄関を出た。
何だったんだ、今の。
気をつけてね、と言われても、ただゲームセンターに行くだけなのに。
首を傾げながら、家を出た。
駅に向かう道を歩きながら、今朝の遼音の様子を思い返す。
明らかに不機嫌だった。でも、最後に「気をつけてね」と言った時の声は、少しだけ優しかった気がする。
妹の考えていることは、本当に分からない。
駅前に着くと、既に涼真が待っていた。
「よう、遼輔」
「おう」
「じゃあ行くか。今日は新しい格ゲーが入ったらしいぞ」
「マジか。じゃあそれやろう」
二人でゲームセンターに向かった。
店内は休日ということもあって、結構混んでいた。クレーンゲームのコーナーでは、カップルが楽しそうに遊んでいる。
「うわ、リア充の巣窟じゃん」
涼真が顔をしかめる。
「お前、相変わらずだな」
「だってあんなの見せつけられたら、腹立つだろ」
「別に気にならないけど」
「お前は鈍感だからな」
涼真はそう言って、格闘ゲームのコーナーに向かった。
新作の格ゲーは、確かに面白かった。俺と涼真は交互にプレイして、何度も対戦を繰り返す。
一時間ほど遊んだ後、少し休憩することにした。
自販機でジュースを買って、ベンチに座る。
「なあ、遼輔」
「ん?」
「お前、最近澪といること多くね?」
涼真が唐突にそう聞いてきた。
「まあ、幼馴染だし。一緒にいることが多いのは昔からだろ」
「そうだけどさ。何か最近、もっと増えた気がするんだよな」
「そうか?」
俺は首を傾げた。
確かに、ここ数日は澪と過ごす時間が多かった気がする。図書館で勉強を教えたり、一緒に帰ったり。
でも、それは昔からやっていることだ。特別なことじゃない。
「お前、本当に気づいてないのか?」
「何をだよ」
「いや、何でもない」
涼真は呆れたような顔をして、ジュースを飲んだ。
「ただな、周りから見たらお前ら完全にカップルだから」
「だから違うって」
「分かってるよ。お前がそう思ってるのは知ってる」
涼真は意味深に笑った。
「でもな、周りがどう見てるかと、お前がどう思ってるかは、別問題なんだよ」
「意味分かんねえこと言うな」
「いつか分かる時が来るさ」
そう言って、涼真は立ち上がった。
「じゃ、もう一回やるぞ」
その後、また何度か対戦を繰り返して、夕方まで遊んだ。
駅前で涼真と別れて、家路につく。
夕暮れの道を一人で歩きながら、涼真の言葉を思い出していた。
周りから見たら、俺と澪はカップルに見えるらしい。
そんなわけないだろう、と思う。
俺たちは幼馴染だ。ただの幼馴染。
それ以上でも、それ以下でもない。
家に着いて、玄関のドアを開ける。
「ただいま」
「おかえりー」
母親の声が返ってくる。
リビングに入ると、遼音がソファに座ってテレビを見ていた。
「ただいま」
遼音に声をかけると、一瞬だけこちらを見た。
「……おかえり」
小さな声で返事が返ってくる。
朝よりは、少しだけ機嫌が良くなっている気がした。
「今日、楽しかった?」
遼音が唐突に聞いてきた。
「まあ、普通に楽しかったよ」
「そう」
遼音は短く答えて、またテレビに視線を戻した。
でも、その横顔は、朝よりも柔らかく見えた。
母親がキッチンから顔を出す。
「遼輔、夕飯できてるわよ」
「ありがとう」
ダイニングテーブルに座って、夕食を食べ始める。
今日のメニューは、カレーライスだった。遼音も一緒にテーブルに座って、黙々と食べている。
「そういえば、澪ちゃんから電話あったわよ」
母親が唐突にそう言った。
「澪から?」
「うん。遼輔に確認したいことがあるって」
「何だろう」
「さあ?後で電話してあげなさい」
母親はニヤニヤしながらそう言った。
その瞬間、遼音の箸を持つ手が止まった。
チラリとこちらを見て、それからまた視線を逸らす。
そして、ボソリと呟いた。
「……また澪さん」
「ん?何か言ったか?」
「別に」
遼音は早口でそう答えて、カレーを口に運んだ。
でも、その表情は少しだけ不機嫌そうだった。
母親は相変わらずニヤニヤしている。
「遼音ちゃん、ちょっと焼きもち焼いてるのかしら」
「焼いてない」
「でもね、お兄ちゃんが女の子と仲良くしてたら、妹としては複雑よね」
「別に複雑じゃない」
遼音は強く否定したが、顔は少し赤くなっていた。
俺は二人の会話を聞きながら、ようやく気づいた。
ああ、そういうことか。
遼音が今朝不機嫌だったのは、昨日俺が澪と一緒にいたからだ。
多分、昨日の夜に俺の部屋に来ようとしたけど、澪の話をしているのが聞こえて、引き返したんだろう。
そして今朝も、澪の話題が出て、また機嫌が悪くなった。
妹の嫉妬。いや、嫉妬とまでは言わないかもしれないが、少なくとも複雑な気持ちなんだろう。
「お前、まさか澪に嫉妬してんのか?」
俺がそう聞くと、遼音の顔が真っ赤になった。
「し、してない!」
「いや、してるだろ」
「してないって言ってるでしょ!」
遼音は立ち上がって、大声で反論した。
「た、ただ……お兄が最近澪さんとばっかりいるから、ちょっと……」
「ちょっと?」
「……寂しいだけ」
最後の言葉は、本当に小さな声だった。
俺は少し驚いた。
遼音が、寂しいと言った。
いつも冷静で、辛辣で、俺に対してツンツンしている妹が、寂しいと言った。
「悪かったな。最近構ってやれてなくて」
「別に構ってほしいわけじゃない!」
遼音は慌てて否定する。
「ただ、もうちょっと……お兄がちゃんと家にいる時間を作ってくれたらいいなって思っただけ」
「分かった。これからは気をつける」
「……本当?」
「ああ、本当」
俺がそう答えると、遼音の表情が少しだけ緩んだ。
「じゃあ、今度の休みは一緒に買い物行く」
「買い物?」
「うん。遼音、新しい服欲しいの」
「ああ、いいぞ」
「約束だからね」
遼音は少し嬉しそうに笑った。
その笑顔を見て、俺も自然と笑顔になる。
母親は二人のやり取りを見て、満足そうに頷いていた。
夕食を終えて、自分の部屋に戻る。
ベッドに座って、スマホを開いた。
母親が言っていた通り、澪から着信履歴があった。
折り返し電話をかけると、すぐに澪が出た。
「もしもし、遼輔?」
「ああ。母さんから聞いた。何か確認したいことがあるって?」
「うん。二学期の時間割のこと」
それから十分ほど、澪と電話で話した。
時間割の確認だけでなく、他愛もない話もいくつか。今日涼真と遊んだこと、ゲームセンターで新作が出ていたこと。
澪は楽しそうに話を聞いて、時々笑っていた。
「じゃあ、また明日ね」
「ああ、おやすみ」
「おやすみ、遼輔」
電話を切って、ベッドに寝転がる。
今日は色々あった一日だった。
妹の不機嫌の理由が分かって、涼真と遊んで、澪と電話して。
何だか、いつもより疲れた気がする。
でも、悪くない疲れだった。
目を閉じると、遼音の「寂しい」という言葉が頭に浮かんだ。
妹が寂しがっていたこと。それに気づけなかった自分。
最近、澪のことばかり考えていた気がする。
いや、考えていたわけじゃない。ただ、一緒にいる時間が多かっただけだ。
それだけのことだ。
そう自分に言い聞かせながら、俺は眠りについた。
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