第1章 東への花嫁 第六話 影が動く

第六話 影が動く


山は静かだった。


静かすぎる、と言ってしまえばそれだけだが、実際はもっと厄介な静けさだった。音がないんじゃない。音が選ばれている。鳴くべき鳥が鳴かず、鳴いてもいい虫が鳴かない。風は吹いているのに、枝が擦れない。


桂子は簾の内側で、息を浅くした。

息を深くすると、山の空気が胸に入りすぎる気がした。冷たいのに、どこか湿っていて、喉にまとわりつく。


外では志乃が半歩、輿に近い位置を保っている。

薙刀の柄に添えた指が、ずっと同じ場所にある。抜かない。でも抜ける。

深雪は簾の角度を整えて、姫の呼吸を守る位置に手を置いている。動きは静かだが、指先に力がある。


先頭の伊勢兵部少輔は、歩調を変えない。

変えないのに、視線だけが速い。道の曲がり、岩の陰、木の根元、枯葉の溜まり方。あの人の目は景色じゃなく、景色の歪みを見ている。

「列を詰めろ」

声は低い。合図は小さい。

でも武士たちは迷わず間を詰めて、輿の周りに厚みができた。鎧の金具が鳴らないよう、みんなが息を合わせて動く。

この一体感は美しい。美しいのに、理由が不穏だ。


簾の隙間に、道端の小石が見えた。

さっきまでなかった小石だ。誰かが置いたのか、落としたのか。山道でそんなことを数えても意味はない——本来は。

でも兵部少輔が一瞬だけ、顎を上げた。

それだけで桂子は分かった。

(意味がある)

次の曲がり角で、風が止んだ。

止んだというより、吸い取られた。

同時に、遠くの水音が消える。山の中に、耳を塞ぐ手が現れたようだった。

志乃がほんのわずかに息を吸う。

深雪が文箱を抱え直す。

兵部少輔が手を上げる。

「止まるな。速度を落とせ。——声を出すな」

列は止まらない。でも遅くなる。

遅くなることで、見る時間が増える。見る時間が増えると、見られる時間も増える。

それでも遅くする。遅くしなければならない理由がある。

次の瞬間、桂子の耳に乾いた破裂音が入った。

弓だ。

矢が空気を割る音は、都の雅じゃない。

それは獣の牙だ。

矢は輿を外れた。

でも外れたからこそ、狙いは"当てる"ことじゃないと分かる。

狙いは——止めること。乱すこと。恐怖を起こすこと。

「前へ!」

兵部少輔の声が初めて鋭くなる。

同時に、右の斜面から影が落ちてきた。

人だ。

枯葉と土をまとったような男たちが、斜面を滑るように降りて、道に躍り出る。数は五、いや七。

鎧はない。でも刃物はある。短い刀、鉈、槍の穂先。

目が光っている。飢えた目だ。昨日見た村の子どもの目と、どこか同じ種類の光を持っている。

「止まれ! 荷を置け!」

誰かが叫んだ。声は割れている。

命じる声じゃなく、脅す声だ。

兵部少輔は答えない。答える代わりに、手を振る。

「輿は通す。左右、押し開けろ!」

武士たちが一斉に動く。

槍が前に出る。盾になる者が前に出る。荷を引く者が後ろへ下がる。

指示がなくても身体が動く。訓練じゃない。場数だ。

志乃が桂子の輿の横へ寄った。

「姫さま、目を閉じて」

桂子は閉じなかった。

閉じれば、音だけが世界になる。音だけの世界は、想像が暴れる。

「志乃。私は——」

「見ないで」

志乃の声は柔らかくない。でも優しい。

優しいのは、余計な言葉を足さないところだ。

そのとき、男の一人が輿へ突っ込もうとした。

志乃が動く。薙刀が抜かれる音は、驚くほど静かだった。

刃は光らず、ただ線として空気を切る。

男の手から鉈が落ちる。

志乃は倒さない。倒すより先に、近づけない。

殺すより先に、距離を消す。

武人の優しさとは、こういうものかと思った。

「姫から離れろ」

志乃の声が低い。

男は後ずさるが、後ろに別の男が押し出す。押し出された男は、恐怖を怒りに変えて突っ込む。


その瞬間、左側から矢が飛んだ。

今度は明らかに"人"を狙っている。武士の肩口に刺さって、男が膝をついた。

倒れた男の背に、さらに影が重なる。

桂子の視界が揺れた。

簾の隙間から見えるのは、足、泥、刃、そして躓き。

戦は空じゃなく足元で起きる。桂子はその現実を、嫌でも学んでいく。

深雪が、桂子の袖を強く握った。

「姫さま……!」

深雪の声が震えた。

桂子は深雪の手を、逆に握り返した。

「声を抑えて。志乃が言ったでしょう」

深雪は驚いて桂子を見る。

都の姫が、戦場の作法を口にしたからだ。

桂子自身も驚いた。自分の声が、思ったより落ち着いている。


兵部少輔が前へ出た。

彼は刀を抜かない。抜かずに、まず地面の石を蹴った。

石が男の足元へ飛んで、男がバランスを崩す。

そこへ槍が入る。槍は突き刺さない。押し返す。

「山で切り結ぶな。落ちるぞ!」

兵部少輔は叫んだ。

叫ぶのに、声が乱れない。

この人は、恐怖を飲み込む場所を知っている。

男たちは、輿を狙っている者と、荷物を狙っている者に分かれている。

狙いは金品だけじゃない。輿を止めれば、列が止まる。列が止まれば、武士の秩序が乱れる。秩序が乱れれば、勝てると思っている。


でも兵部少輔は乱れない。

「荷は捨てろ。命を捨てるな」

武士たちの目が一瞬だけ揺れる。

荷は今川の物資。捨てれば責められる。

でも命を捨てれば、姫が落ちる。姫が落ちれば婚姻が落ちる。婚姻が落ちれば、国が落ちる。

兵部少輔の判断は、家臣の面子より目的を取った。

その判断が、桂子の胸を刺した。

(国をつなぐ)

昨日聞いた言葉が、ここで形になる。

国をつなぐとは、都の雅を運ぶことじゃない。

こういう泥の中で、捨てるものを決めることだ。


志乃がもう一人の男の動きを止めた。薙刀の柄で鳩尾を押して、男を地面へ沈める。

殺さない。でも立たせない。

「姫さま、揺れます!」

志乃が叫んだ直後、輿が大きく傾いた。

背後で馬が暴れたのだ。矢に驚いたのか、血の匂いを嗅いだのか。

輿を引く者が足を取られて、車輪が石に乗り上げる。

桂子の身体が宙に浮く感覚。

簾の外の光が斜めになる。

深雪が桂子を抱きとめた。

文箱を放って、両腕で姫の身体を守る。深雪の"正しさ"が変わった瞬間だった。作法じゃなく、体が先に守りへ切り替わった。

「姫さま、頭を……!」

桂子は頷いて、首を引いた。

都の姫の動きじゃない。

でも今は、都の姫のままでは死ぬ。

兵部少輔が走った。

走り方が、武士の走り方じゃない。山の走り方だ。足元の石を読んで、最短を行く。

彼は馬の鼻先へ回り込んで、声じゃなく低い息で馬を落ち着かせた。

「静かにしろ。静かに」

その声は、馬にだけ届くようだった。

馬の暴れが一瞬だけ止まる。止まった瞬間、武士が手綱を引いて、列が持ち直す。

その一瞬の隙に、男の一人が再び輿へ突っ込んだ。

今度は志乃が間に合わない位置だ。


桂子は息を止めた。

でも男の足が止まった。

兵部少輔が、男の足首を蹴った。

蹴りは小さいのに、的確だった。

男は前へ倒れて、地面に顔を打つ。刃が手から離れる。

兵部少輔が初めて刀を抜いた。

抜いたのに、斬らない。

刃を男の首筋へ当てて、低く言う。

「ここで終わりにしろ」

男の目が揺れる。

揺れた瞬間、背後から別の男が叫んだ。

「引け!」

誰かが笛を鳴らしたのか、合図があったのか。

男たちは一斉に斜面へ引いた。蜘蛛のように速い。

山の地形を知っている者の逃げ方だ。


追う武士が二、三動きかけたが、兵部少輔が止めた。

「追うな。山の中で殺される」

兵部少輔は刀を収める。

収める動きが速い。迷いがない。

残ったのは、荒い息と、倒れた荷物と、呻き声。

武士が一人、肩を押さえて座り込んでいる。矢傷だ。深くはなさそうだが、血が出ている。

志乃がすぐに布を当てて、縛る。手際がいい。

深雪は桂子の髪の乱れを直そうとして、途中で止めた。

直すより先に、桂子の顔色を見る。

深雪が"作法"より"命"を優先している。

桂子は簾の内側から外を見た。

怖い。

でも怖さの種類が変わっていた。

さっきまでの怖さは、想像の怖さだった。

いまの怖さは、現実の怖さだ。

現実の怖さは、数えられる。

兵部少輔が輿の近くへ来た。

「姫君。怪我は」

「ありません」

桂子は答えた。声が震えなかったのが自分でも不思議だった。

兵部少輔は一瞬だけ、桂子の簾を見る。見えないはずの目線で、確かめるように。

「……よい」

それだけ言って、兵部少輔は列へ戻った。


武士たちは荷物を拾う。拾えるものだけを拾う。拾えないものは捨てる。

捨てる判断が速いほど、命が助かる。

志乃が桂子に低く言った。

「姫さま。今からが怖いです。追ってくるかもしれません」

桂子は頷いた。

「だから、足を止めない」

志乃が一瞬だけ、笑った気配がした。

笑いじゃない。息の抜け方が、ほんの少し柔らかくなっただけだ。

深雪が桂子の袖口を整えて、声を落とす。

「姫さま……血の品格とは……こういう……」

桂子は深雪の言葉を遮らなかった。

遮らず、ただ言った。

「崩れないこと。たぶんそれだけよ」


列は再び動き出す。

山の静けさが、戻ってくる。

戻ってくる静けさは、さっきより冷たい。

桂子は簾の向こうの道を見る。

道は続いている。

さっきまでよりも、はっきりと。

——国をつなぐとは、こういうことだ。

——そして私は、その中心にいるんだ。

その重みが、ようやく腹に落ちた。

________________________________________

第七話へ続く




本作は、石田源志(DaidaraHand)による戦国歴史小説

『寿桂尼物語 ― 今川を支えた都の姫君』の長編連載版です。


この物語は、公家出身の女性・寿桂尼の視点から、

今川氏親・義元の時代と「地方の都・駿府」を描いています。


本文の連載は note版 にて公開しています。

設定資料・人物解説・シリーズ全体の情報は、

「農福学物語 公式サイト(BASE)」にまとめています。


本作はAIとの共創(構成・整理・推敲補助)を取り入れつつ、最終的な表現と判断は著者が行っています。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る