第1章 東への花嫁 第七話 捨てたもの
第七話 捨てたもの
山の静けさが戻ってきた。
戻ってきた静けさは、さっきより冷たかった。音が消えたんじゃない。音が控えめになった。みんなが自分の息を聞かれたくないように歩く。鎧の擦れる音も、草を踏む音も、意識して小さくされていく。
桂子の輿は揺れながら進んだ。
さっきの傾きが、まだ身体に残っている。肋骨の内側に、薄い痛みのようなものが居座っていた。怪我じゃない。驚きが身体の形で残っただけだ。
簾の外で、志乃が半歩近い。
深雪は桂子の袖口を整えかけて、手を止めた。整えても意味がない、と気づいたのだろう。代わりに深雪は、桂子の顔色と呼吸だけを見ている。
"都の作法"が、いまは"命の作法"に変わっていた。
前方では、伊勢兵部少輔が列を詰めたまま進ませている。
追撃を警戒している。でも追撃が来ないのが一番怖い。来ないからこそ、次が読めない。
「……矢が一本、残っております」
誰かが低く言った。矢傷の武士だ。肩口に布が巻かれて、血の匂いが薄く漂っている。矢は抜かれているが、痛みは抜けない。
志乃が結び目を確かめて、短く言った。
「無理に腕を振るな。揺れが大きくなる」
それは武人の言葉だった。
でも同時に、桂子への言葉でもある。揺れは輿に伝わる。
兵部少輔が振り返って、列へ指示を出した。
「足を止めるな。だが急ぐな。——見通しの利く場所まで、間を詰めたまま」
間を詰めたまま、というのが難しい。
詰めれば乱れる。乱れれば狙われる。
それでも詰める。狙われても崩れないために。
桂子は簾の隙間から、道端に落ちた荷物を見た。
さっき捨てた荷物だ。拾えなかった荷物だ。包みが破れて、乾いた豆がこぼれている。豆は小さくて、土に沈んで、もう拾えない。
(捨てた)
その事実が、桂子の胸を重くした。
捨てたのは荷物だけじゃない。物の形をした"責任"を捨てたんだ。
________________________________________
昼に近い頃、一行はようやく見通しの利く場所へ出た。
山の肩が少し開けて、風が回る。空が薄い青を見せる。
兵部少輔が手を上げて、初めて列を止めた。
止めたのは休むためじゃない。
数えるためだ。
「負傷者、前へ」
矢傷の武士が二人、前へ出た。
一人は軽い。もう一人は歩みが遅い。足をひきずっている。
「荷物の損失は」
武士が答える。
「米二俵。塩一つ。干し魚……半分。薬箱の一部、落としました」
"薬箱"。
その言葉に、深雪が小さく息を呑んだ。
桂子も胸がざわついた。薬は都の贅沢品じゃない。旅には命の綱だ。
兵部少輔は顔色を変えない。変えないが、目が一瞬だけ鋭くなる。
彼は短く言った。
「仕方ない。……生きている」
その言葉に、周囲の武士たちの肩からわずかに力が抜けた。
でも同時に、別の力が入る。
"仕方ない"で済ませたくない力だ。
一人の若い武士が一歩進み出た。声が少し高い。若さの高さだ。
「兵部少輔殿! 荷物を捨てるなど……! 後で責めを受けます。姫君の道中に恥を残して——」
言い終える前に、兵部少輔が目を向けた。
視線だけで、若い武士の声が薄くなる。
「恥、か」
兵部少輔はゆっくり言った。
「恥で姫君が死ぬのなら、恥を選べ。だが姫君が落ちれば、今川は恥では済まない。道が止まり、血が増える」
若い武士が唇を噛んだ。
理屈は分かる。でも"捨てた"という事実が、胸に残るのだ。
兵部少輔は続ける。
「今日捨てたものは、覚えておけ。覚えておけば、後で取り戻せる。忘れたら、もう一度捨てることになる」
その言葉が、桂子の胸へ刺さった。
血の品格——崩れないこと。
崩れないとは、無傷でいることじゃない。捨てたことを忘れないことだ。
________________________________________
水を回して、負傷者に布を替えて、列は再び動く準備に入った。
その間、桂子の輿の近くに兵部少輔が来た。
簾越しに、気配が重い。
「姫君」
桂子は背筋を正した。
「はい」
兵部少輔は声を落とす。周囲に聞かせない声だ。
「……先ほど、村の者が言っていた。山の入口で近頃、妙な者が動くと。山賊というより、腹を空かせた者だ。飢えは、話が通じないときがある」
桂子はすぐに言葉が出なかった。
村で見た目が、胸の奥で動く。
兵部少輔が続ける。
「姫君、恐ろしかったか」
桂子は少し迷って、それから言った。
「恐ろしいです。でも……数えられます」
兵部少輔は、ふっと短く息を吐いた。笑いじゃない。肩の力がほんの少し抜けた気配だった。
「数えられるなら、大丈夫だ」
兵部少輔は去ろうとした。
桂子は思わず呼び止めた。
「兵部少輔」
彼が振り返る。
「あなたは、どうして……そこまで、婚姻のことを」
兵部少輔は、すぐには答えなかった。
言葉を選ぶ、というより、言い過ぎないようにする沈黙だった。
「……大した理由はない」
そして少しだけ声をやわらげて言った。
「都の言葉や作法は立派だ。けれど立派なだけでは、道中の腹も傷も収まらない。あれを"飾り"で終わらせずに、今川で役に立つ形にする。……私は、その段取り役だ」
「段取り役……」
「ええ。偉いことじゃない。使い走りみたいなものだ。ただ、婚姻が転べば、みんながもう一度ここを血で歩くことになる。……それが嫌なだけだ」
兵部少輔はそれだけ言うと、簾に一礼して列の前へ戻った。
歩幅は変わらない。でも背中が少しだけ近く感じられた。
桂子は簾の内側で、深雪の指先を見た。
深雪は文箱を抱え直して、唇を結んでいる。泣いていない。泣けない。
志乃は薙刀を背負い直して、呼吸を整えている。震えていない。震えを外に出さない。
桂子は、自分の手を見た。
小さく握っていた。
握りしめた拳が、いつの間にか"都の姫の手"じゃなくなっている気がした。
________________________________________
列が動き出す。
歩みは、さっきより少しだけ重い。
道端にこぼれた豆は、踏まれて土に沈んでいった。
拾う手はない。拾えば止まる。
だから豆はそこに置かれたまま、山に返っていく。
桂子は簾の内側で、その小さな黒点を見送った。
見送りながら、心の中で決める。
(私は忘れない)
捨てたもの。
拾えなかったもの。
村で見た目。
矢の音。
深雪が腕で守った重さ。
志乃の薙刀の静かな線。
兵部少輔の「荷は捨てろ」という声。
すべて覚えていれば、いつか取り戻せる。
都の雅じゃなく、国の形として。
山の向こうに、空がある。
空の下に、人がいる。
その人の腹が満たされないなら、言葉は働かない。
桂子は息を吸った。
冷たい空気が胸に入って、痛い。
痛いから、現実だ。
列は進む。
桂子の旅は、ただの嫁入りじゃなくなった。
________________________________________
第八話へ続く
本作は、石田源志(DaidaraHand)による戦国歴史小説
『寿桂尼物語 ― 今川を支えた都の姫君』の長編連載版です。
この物語は、公家出身の女性・寿桂尼の視点から、
今川氏親・義元の時代と「地方の都・駿府」を描いています。
本文の連載は note版 にて公開しています。
設定資料・人物解説・シリーズ全体の情報は、
「農福学物語 公式サイト(BASE)」にまとめています。
本作はAIとの共創(構成・整理・推敲補助)を取り入れつつ、最終的な表現と判断は著者が行っています。
書籍版(Kindle)では、構成と加筆を行った決定稿をお読みいただけます。
次の更新予定
寿桂尼物語 今川駿府の白き庭<長編連載版> @genjiishida
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。寿桂尼物語 今川駿府の白き庭<長編連載版>の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます