第1章 東への花嫁 第五話 静かすぎる山

第五話 静かすぎる山


村を出て半刻ほど。宿場の匂いが背中から抜けるころ、道はだんだんと細くなった。

人の声は遠のいて、代わりに水の音が耳の裏に残る。谷のどこかで流れているのだろう。見えない水が、見えないまま冷えている。


桂子は輿の中で膝を折り、背筋を伸ばしていた。簾の隙間から見えるのは、土と石の道、斜面に立つ木々の影、時折すれ違う旅人の足元。

都では、物を見るときに顔を上げた。ここでは上げない。上げれば視線が出る。視線が出ると、何かを呼び寄せる気がした。


外では志乃が一行の歩調を見ている。薙刀を背負ったまま、首だけで周囲を確かめる癖があった。

深雪は文箱を抱えて、桂子の輿に寄り添うように歩いている。足取りは慣れない道に慎重で、それでも礼を崩さない。崩さないことが、彼女の仕事なのだ。

先頭では伊勢兵部少輔が、まるで道そのものを測るように歩いていた。


歩く速さは一定だが、目は一定じゃない。岩の陰、木の根、道の曲がり角。あの目は景色を見ていない。景色の中に潜む「異物」を探している目だ。

山の入口に近づくにつれて、空気の温度が変わった。

日が差しているのに、肌が冷える。湿り気が増して、草の匂いが濃くなる。木々が密になって、空が細くなる。


桂子は、都の春とは違うと思った。

同じ春でも、こちらの春は柔らかくない。伸びるというより、押し返してくる。生き物が土と水に近いところで呼吸している感じがした。

輿が揺れた。石に乗ったらしい。

その揺れの直後、ふっと音が薄くなった。

鳥の声が、止んだ。

桂子は簾の内側で、息が浅くなるのを感じた。


旅の途中、音が消える瞬間があるのだろうか。都では、音が消えるときは雪か、夜か、襖の内側だけだった。山は昼なのに、音を消す。

志乃の足が一度、止まった。止まったというより、半歩だけ遅れた。

その半歩で、志乃は桂子の輿に近づいた。近づき方が、守りの動きだった。

深雪が文箱を抱え直す。指先が少し強張っている。

「姫さま」と呼びかける声が喉の奥で止まって、何も言わずに前を向いた。

兵部少輔は歩調を変えない。ただ顎がわずかに上がって、左の斜面を見た。

見たというより、そこに視線を置いた。

桂子には分からない。兵部少輔が何を見たのか。

見えるのは木と土だけだ。でもあの人が視線を置いた場所には、何かがあるのだと思えた。


次の曲がり角で、一行は小さな茶屋の脇を通った。

屋根は低くて、木は黒ずんでいて、湯気の匂いがほのかに漂っている。でも客は見えない。火が入っているのに、人の気配が薄い。

茶屋の奥から老人が一人出てきた。

袖をまくって、手に布を持ったまま、道を歩く一行を見ている。目が真っ直ぐで、余計な愛想がない。

「……あんたら、鈴鹿へか」

兵部少輔は立ち止まらず、声だけで返した。

「通る」

老人は一瞬、桂子の輿を見た。簾が揺れただけで顔は見えないはずなのに、見られた気がした。

老人は口を開けて、言うべきことだけを吐いた。

「この先、静かになる。静かになる時ゃ、足を止めるな。……止めると、夜まで持っていかれる」

志乃が一歩、老人の方へ踏み出した。

「何がいる」

老人は肩をすくめた。

「いるって言やぁ、いる。いないって言やぁ、いねぇ。山ってのは、そういうもんだ」

深雪が思わず唇を噛んだ。都の言葉にない曖昧さ。でもこの曖昧さこそが、土地の真実なのだと桂子は直感した。

兵部少輔は老人に銭を投げた。

受け取った老人は銭を見ずに懐へ入れて、最後にもう一度言った。

「足を止めるなよ」

その言葉が背中に張りついたまま、一行は山道へ入った。


木々が密になって、光が細くなって、湿り気が肌に絡む。

道の端に、折れた小枝があった。

風で折れたんじゃない。折り口が新しい。踏まれた跡のように土が崩れている。

桂子は簾の内側から、その枝を見た。見た、というより、視界に刺さった。

次に視界へ入ったのは、足跡だった。

泥が柔らかい場所に、いくつかの跡が残っている。旅人のものだろう。でもその中に一つ、幅の違う跡が混じっている。草履じゃない。下駄でもない。

深く、沈んでいる。

志乃が何も言わずに、その跡を踏み消した。

踏み消し方が、怒りじゃなく、仕事だった。

その瞬間、兵部少輔が初めて手を上げた。

合図は小さくて、声はない。でもその手の上がり方で、後ろの武士たちが一斉に列を詰めた。

輿が囲まれる。

桂子の周囲が、急に狭くなった。

桂子は思った。守られている。

でもその守り方は、優しさじゃない。物を守るような守りだ。壊れてはならないものを、中央へ寄せる守り方。

桂子の胸に、熱いものが上がった。屈辱にも似ている。

都の屋敷では、桂子は守られていた。守られているのが当然だった。

ここでは違う。守られているのは、当然じゃない。守る理由が、別のところにある。

——私は、嫁なんだ。

——政治の結び目なんだ。

深雪が輿の横へ寄って、低い声で言った。

「姫さま。簾を少し下げます。風が……」

志乃が深雪を見た。

「下げすぎるな。姫の息が苦しくなる」

深雪は一瞬、言い返しかけて、飲み込んだ。

「……はい」

都では、深雪は常に正しかった。ここでは、正しさが一つじゃない。

桂子はそのことが、じわじわと怖かった。

道がさらに細くなって、谷が深くなる。

水の音が近づく。でも見えない。見えない音が近づくのは、背筋に悪い。


兵部少輔が前の武士に小さく囁いた。

「川筋へ寄せるな。上へ。影を切れ」

何を言っているのか、桂子には分からない。でも言葉の切れ味だけは分かった。

この人は、命の扱い方を知っている。

志乃が薙刀の柄に指をかけた。抜かない。ただいつでも抜ける位置へ指を置く。

その指の置き方を見ただけで、桂子の喉が乾いた。

空気がまた薄くなる。


鳥の声は戻らない。虫の声もない。

山が、息を止めているようだった。

ふいに、輿の屋根に何かが落ちた。

軽い音。木の実か、葉か。

桂子は反射的に肩をすくめた。

志乃がすぐに言った。

「前を見ろ」

誰に向けた言葉か分からない。桂子にか、武士たちにか。志乃自身にか。

でもその声には迷いがなかった。


兵部少輔が、初めて声の高さを変えた。

それは怒鳴り声じゃない。低く、短く、土の中へ沈むような声だった。

「止まるな」

その瞬間、桂子の耳の奥で、小さな音がした。

鈴の音。

一度だけ。

澄んだ音だった。

この一行の誰も、鈴なんて持っていない。都の姫の輿に、そんなものはつけない。武士の腰にも、そんな飾りはない。

それでも、確かに鳴った。

桂子は簾の内側で、息を止めた。

志乃の足が、ほんのわずかに速くなる。

深雪の文箱を抱える腕が、きゅっと固くなる。

兵部少輔の背中が、まるで板のように硬くなる。

山は、静かだった。

静かすぎた。

そして一行は、止まらずに進んだ。

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第六話へ続く




本作は、石田源志(DaidaraHand)による戦国歴史小説

『寿桂尼物語 ― 今川を支えた都の姫君』の連載版です。


この物語は、公家出身の女性・寿桂尼の視点から、

今川氏親・義元の時代と「地方の都・駿府」を描いています。


本文の連載は note版 にて公開しています。

設定資料・人物解説・シリーズ全体の情報は、

「農福学物語 公式サイト(BASE)」にまとめています。


本作はAIとの共創(構成・整理・推敲補助)を取り入れつつ、最終的な表現と判断は著者が行っています。


書籍版(Kindle)では、構成と加筆を行った決定稿をお読みいただけます。

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