第1章 東への花嫁 第四話 村の目

第四話 村の目


山に近づくほど、道は細くなる。

空は削られて、風は冷えて、匂いは薄くなる。都の春が纏っていた甘さは、もう背中に残っていない。

輿は揺れながら進んだ。石が増えて、車輪のきしみが硬くなる。

桂子は簾の内側で背筋を保ち、息を浅くした。息を深くすれば、山の空気が胸に入りすぎる気がした。

外の足音が揃っている。

武士たちの列の音。志乃の重心の音。深雪が文箱を抱える音。

そして先頭、伊勢兵部少輔の歩みはいつも通り短くて、無駄がない。

「姫さま」

深雪が水を差し入れてきた。器の縁が冷たい。桂子はひと口だけ含んで、喉を湿らせた。

「ありがとう」

自分の返事が、都の声じゃないのを感じた。

都では言葉がお香を纏う。ここでは言葉が土を纏う。

道が一度、ゆるく開けた。

木々の隙間から、低い屋根が見える。小さな村だった。畑はまだ色が薄くて土がむき出しで、煙だけが立っている。人の暮らしが、山の肩にしがみついているように見えた。

兵部少輔が手を上げる。列がゆっくりと速度を落とした。

「ここで水を補充する。長くは停まらない」

志乃がすぐに輿の位置を調整する。

深雪は文箱を抱え直して、桂子の簾の角度を整えた。都の作法が、ここでは"盾"になる。

村へ入ると、最初に目に入ったのは犬だった。

骨が浮いた犬が一匹、道端でうずくまって、一行を見上げている。吠えない。吠える力も、無駄にする余裕もないようだった。

次に、子どもが現れた。

二人。三人。

どこから出てきたのか、道の脇の陰から、土の匂いのする身体が増えていく。

着物はつぎはぎで、袖は短くて、足袋じゃなく裸足。膝は泥で黒くて、頬は風で赤い。目だけが妙に澄んでいた。

子どもたちは桂子の輿を見た。

志乃の薙刀を見た。

鎧の列を見た。

そして簾の内側の"見えない姫"を、まっすぐに見た。

都の見物の目とは違う。

品定めでもない。好奇心でもない。

飢えた目だった。

桂子は息を止めた。

見られることに慣れているはずなのに、慣れていない種類の視線だった。

一人の子が、半歩だけ前へ出た。男の子だ。年は八つか九つ。

袖口から手が出ている。指が細い。爪の間に黒い土が詰まっている。

「……お姫さま、いるの?」

誰に言ったのか分からない。簾に向けたのか、鎧に向けたのか。

志乃が即座に足を踏み替えて、子どもと輿の間に身体を置いた。声は出さない。ただ立ち位置が"線"を引く。

深雪が簾をさらに下げようとした。

桂子は内側からその動きを止めた。手を伸ばして、そっと深雪の袖をつかんだ。

「……そのままで」

深雪は一瞬驚いたが、従った。

桂子は簾の隙間から、子どもの足を見た。裸足の指先が冷えて紫色に寄っている。

兵部少輔が、馬上からじゃなく、地に足をつけて子どもの前へ出た。

その動きが武士の威圧じゃなく、村の呼吸に合わせる動きだった。

「ここにいる」

兵部少輔は短く答えた。

子どもはさらに言った。

「……米、ある?」

その一言で、村の空気が固くなった。

大人たちがどこかで息を呑む。子どもの無遠慮を止める声が出ない。止めれば、腹が鳴る。

志乃が低く言った。

「兵部少輔殿、時間です」

兵部少輔は頷いて、懐から小さな銭袋を出した。

でも銭は渡さない。銭は腹を満たさないからだ。

代わりに兵部少輔は後ろへ合図した。

武士が一人、荷物から握り飯を二つだけ取り出した。包み紙が小さくて、そこに節約の形が見える。

兵部少輔は子どもに近づきすぎず、地面に置いた。

「取れ」

子どもは一瞬だけ迷って、それから一気に拾った。

もう一人の小さな子が寄ってきて、奪い合うように包みを開いて、湯気のない冷えた飯を頬張った。

桂子は、胸の奥が痛くなった。

都で握り飯は、旅の便利な食べ物だった。

ここでは、生死の境の食べ物だった。

「……お姫さま、何しに行くの」

さきほどの子が、口の端に米粒をつけたまま言った。

桂子は答えられない。答えれば物語になる。

"公家と武家の婚姻"は、ここでは意味を持たない。

ここで意味を持つのは、今日の飯と明日の薪だ。

兵部少輔が代わりに言った。

「国をつなぎに行く」

子どもは分からない顔をした。

分からないのが当然だ。でも桂子は、その言葉が自分の胸に刺さるのを感じた。

国をつなぐ。

それは、いま目の前で飯を奪い合う小さな手とも、どこかで繋がる言葉だ。

村の奥から、年配の男が走ってきた。村の長らしい。

慌てて頭を下げて、兵部少輔に小声で何かを言う。

「……近頃、山から下りてくる者が……夜に……」

言葉の断片だけが聞こえた。

兵部少輔の目が、ほんの少しだけ鋭くなる。志乃がそれを見て、腰の位置を変える。深雪は文箱を抱える腕に力を入れた。

兵部少輔は村の長に短く返した。

「今夜は通らない。だが明朝、山へ入る。道の入口まで案内しろ」

村の長は何度も頷いた。

その頷きの速さが、恐れの速さだった。

桂子は簾の内側で、父の声を思い出した。

——血の品格。

さっきまで、それは"礼の美しさ"の話だと思っていた。

いま、違う気がする。

血の品格とは、見ないふりをしないことかもしれない。

見てしまったものから逃げずに、崩れずに、進むこと。

崩れないで進むことは、優雅じゃない。むしろ痛い。

村を出るとき、子どもたちはまだ道端にいた。

握り飯を食べ終えた子は、桂子の輿を追って、少しだけ走った。

「お姫さま!」

志乃が一瞬、振り返る。

子どもは息を切らして、何かを投げた。小さな白い花。道端に咲いていた名も知らない花だ。

花は輿の側板に当たって、地面に落ちた。

深雪がそれを拾おうとして、志乃が小さく首を振った。拾えば"情け"になる。情けは足を止める。

桂子は簾の内側で、花が土に埋もれていくのを見た。

白い花は、すぐに見えなくなった。

列は進む。

山の入口へ向かう。

鳥が鳴いていた。

鳴いていたはずの声が、森へ近づくにつれて、一つずつ消えていく。

兵部少輔が合図を出した。列が詰まる。

志乃が半歩、輿に近づく。

深雪が簾の角度を変えて、姫の呼吸を守る位置に手を置く。

桂子は、もう分かっていた。

今日見た村の目は、山の目より優しい。

山は、もっと静かに人を削る。

——足を止めるな。

どこかで聞いた言葉が、胸の底から浮かび上がった。


第五話へ続く




本作は、石田源志(DaidaraHand)による戦国歴史小説

『寿桂尼物語 ― 今川を支えた都の姫君』の連載版です。


この物語は、公家出身の女性・寿桂尼の視点から、

今川氏親・義元の時代と「地方の都・駿府」を描いています。


本文の連載は note版 にて公開しています。

設定資料・人物解説・シリーズ全体の情報は、

「農福学物語 公式サイト(BASE)」にまとめています。


本作はAIとの共創(構成・整理・推敲補助)を取り入れつつ、最終的な表現と判断は著者が行っています。


書籍版(Kindle)では、構成と加筆を行った決定稿をお読みいただけます。

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