第1章 東への花嫁 第三話 峠前夜(とうげまえよ)

※本作は史実を題材とした創作小説です。登場人物「桂子」は作者による創作設定です。



「鈴鹿」という名前が、風に乗って届いた。

声の主は見えない。旅人の誰かの、ただの会話の端っこだったはずだ。でも言葉だけが、妙に生き物のように簾の内側へ潜り込んで、桂子の胸の奥に居座った。

鈴鹿。

山の名前が、匂いを連れてくる。

その日の宿は、屋根が低かった。

都の屋敷のように、襖を開ければ庭があって、庭の向こうにもう一つの空がある——そんな余白はない。梁が近くて、柱が太くて、木の匂いが強い。炊事の煙が染みついた板の匂いに、干した草の匂いが混じる。

桂子は通された部屋の隅で膝を折り、背筋だけはまっすぐに整えた。

こういう場所では、背筋が最後の"都"になる。

深雪が手早く敷物を整えて、文箱を部屋の奥に置いた。指先の動きがいつもより速い。速いのに乱れない。乱れないからこそ、深雪の緊張が伝わってくる。

「姫さま、お湯をお持ちいたします」

「深雪」

桂子は深雪を呼び止めた。

声は静かだったけれど、深雪の肩がわずかに跳ねた。

「……はい」

「ここは、都と違うわ」

深雪は目を伏せたまま頷く。

「はい。違います」

「違うから、あなたの"正しさ"も、少しずつ変わっていく」

深雪は息を飲んだ。

桂子が何を言っているのか、頭では分かる。でも受け入れるには早すぎる。深雪にとっての正しさは、都の作法そのものだったのだから。

「姫さま……正しさが変われば、姫さまが傷ついてしまいます」

「傷つくのは、もう決まっているの」

桂子は視線を上げずに言った。

「だから、傷つかないための正しさを、ここで覚えるしかないのよ」

深雪は何も返せなかった。返せば、涙が混じってしまう。

代わりに深雪は一礼して、部屋を出ていった。

襖が閉まると、外の音が近くなる。

廊下の軋み。鍋の蓋の音。誰かが笑う声。馬の鼻息。

都の音は柔らかいけれど、ここでは音が硬い。暮らしが硬い。

桂子は気づく。

都では、暮らしが音を包んでいる。

ここでは、音が暮らしを支配している。

——この国は、耳で生きる国なんだ。

ふと、廊下の向こうから志乃の足音が来て、止まった。

志乃は襖越しに声を落とす。

「姫さま。今夜は、外の者が出入りします。驚いても声を上げないでください」

「どうして?」

「兵部少輔が、夜のうちに水と食料を集めると言っています。明日は峠が長いので」

兵部少輔。

あの人の声は、いつも短い。短いくせに、従わせる重みがある。

「志乃」

「はい」

「……あなたは、怖い?」

しばらく沈黙があった。志乃は嘘をつかない。つけない性格だ。

「怖いです」

桂子はその答えに、少しだけ胸が軽くなった。

怖いと言える人は、怖さを数えられる。数えられる怖さは、まだ手の中に置ける。

「でも」

志乃が続ける。

「怖いから、守れます。怖くない者は、守れません」

桂子は頷いた。

志乃の優しさは、都の優しさとは違う。東国の優しさだ。


夜が深まるにつれて、宿の外が忙しくなった。

武士たちが出たり入ったりしている。声は控えめだけれど、動きが増える。鎧の金具が鳴らないように、みんなが指先で整えているのが分かる。

襖の隙間から、兵部少輔の声が聞こえた。

「明朝は早い。火は小さく。声を落とせ」

誰かが答える。

「峠で待ち伏せがあるんですか?」

兵部少輔は「ある」とも「ない」とも言わない。

ただ一言、乾いた声で返した。

「静かになる時がある。静かになったら、列を詰めろ」

"静かになる"。

その言葉は、鈴鹿という名前と同じ匂いを連れていた。

桂子は目を閉じた。

父の言葉が浮かぶ。

——血の品格。

血。品格。

都の中では、言葉がきれいすぎて意味が曖昧だった。

都の外では、言葉が汚れている分だけ意味が刺さる。

血の品格。

それは、上品であれという意味じゃない。

生き方を崩すな、という意味だ。ここで崩れたら、都で学んだものが全部無駄になる。

深雪が湯を運んで戻ってきた。

湯気が、部屋の冷えた空気を少しだけ柔らかくする。

「姫さま。……少しだけでも、お休みください」

桂子は湯をひと口含んで、喉を潤した。

その温かさが、妙に現実味を帯びていた。

「深雪。あなたは眠れる?」

深雪は一瞬迷ってから、答えた。

「眠れません。でも、目を閉じます。目を閉じているだけでも、明日の顔は違いますから」

桂子は微笑んだ。

深雪の言葉は、都の作法とは違って、ここでは役に立つ。

志乃が再び襖越しに告げる。

「姫さま。今から見張りの交代に入ります。外の音は気にしないでください」

「志乃」

「はい」

「あなたも……目を閉じなさい」

志乃は短く笑った気配を残して、去っていった。


夜半、桂子はうとうとと浅い眠りに落ちた。

夢は見ない。夢を見る余裕がない。

ただ身体が冷えて、目が覚めて、また沈む。それの繰り返しだった。

どこかで犬が鳴いて、すぐに止んだ。

その止み方が不自然で、桂子は目を開けた。

外は静かだった。

静かすぎるわけじゃない。まだ人の暮らしの気配がある。

でも、この静けさが明日には別の静けさに変わるのだと、身体が先に知っていた。

深雪は、枕元に座ったまま目を閉じていた。

眠ってはいない。でも心を整えている。

桂子はその横顔を見て、不思議な安心を覚えた。

都を出たとき、桂子は一人だと思っていた。

でも、そうじゃない。

都の作法を抱えた深雪がいる。

東国の刃を背負った志乃がいる。

そして、理由の見えないまま守り方を選ぶ兵部少輔がいる。

——私は、一人で嫁ぐんじゃない。

——一つの家が、一つの家へ移るんだ。

その現実が、少しずつ腹に落ちていった。


夜明け前、宿が動き出した。

湯の音。桶の音。足音。

武士たちは声を出さずに装備を整えて、荷物を締めて、馬を落ち着かせる。

桂子が輿へ入ると、志乃がすぐ横についた。

深雪は文箱を抱えて、その後ろに続く。

兵部少輔が前で合図を出す。

列が整う。

整い方が、昨日よりも"固い"。

出発。

宿が遠ざかり、道が細くなる。

木々が密になって、空が削られていく。

鳥が鳴いていた。

まだ鳴いている。

桂子はその鳴き声に、なぜか安堵した。

でも、山へ一歩入った瞬間。

風が変わった。

冷たくて、湿っていて、匂いが薄い。

都の匂いも、宿の匂いも、消えていく。

志乃が何も言わずに、半歩だけ輿に近づいた。

兵部少輔が、声じゃなく手で合図を出した。

列が、わずかに詰まる。

桂子は簾の内側で、息を飲んだ。

言葉はまだない。

でも空気が「これから」を告げている。

——鈴鹿は、ここからなんだ。


第四話へ続く





本作は、石田源志(DaidaraHand)による戦国歴史小説

『寿桂尼物語 ― 今川を支えた都の姫君』の連載版です。


この物語は、公家出身の女性・寿桂尼の視点から、

今川氏親・義元の時代と「地方の都・駿府」を描いています。


本文の連載は note版 にて公開しています。

設定資料・人物解説・シリーズ全体の情報は、

「農福学物語 公式サイト(BASE)」にまとめています。


本作はAIとの共創(構成・整理・推敲補助)を取り入れつつ、最終的な表現と判断は著者が行っています。


書籍版(Kindle)では、構成と加筆を行った決定稿をお読みいただけます。

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