第1章 東への花嫁 第二話 京の外側(きょうのそとがわ)
寿桂尼物語 ー今川を支えた都の姫君ー
第1章 東への花嫁
※本作は史実を題材とした創作小説です。登場人物「桂子」は作者による創作設定です。
第二話 京の外側(きょうのそとがわ)
京の町が、背中へ流れていく。
簾の向こうを覗いても、見えるのは人の肩や袖、荷物を背負った背中ばかりだった。輿は人の波の中をゆっくりと進み、やがて都の門を抜けた。
門を出た途端、風の質が変わった。
都の風には、お香と人の暮らしの匂いが混じっている。でも外の風は土の匂いが強かった。湿り気があって、どこか荒々しい。
桂子は目を閉じて、その違いを感じ取った。
外の風は、遠慮をしない。
「姫さま、少しお水を」
深雪が小さな器を差し入れてきた。輿の中で身をかがめる仕草さえ、深雪は崩さない。桂子は器を受け取り、ひと口だけ含んだ。
冷たい。
喉が目を覚ますようだった。
「もう少し召し上がってください」
「いいの。喉が乾いている方が、余計なことを考えなくて済むから」
桂子が言うと、深雪は眉をひそめかけた。でも何も言わず、器を引いた。深雪は気づいている。姫が"都の娘"を脱ぎ始めていることを。気づいているから、止めたいのだ。
輿が揺れる。
道が石畳に変わり、車輪の音が少し硬くなった。
志乃の声が外から届く。
「道が狭くなります。揺れますが、ご辛抱を」
桂子は「はい」と答えた。
自分の声が思ったより落ち着いていて、少し驚いた。
山科へ入るころ、空の色が変わった。
京の空は広いのに、どこか天井が低い。人の暮らしが空を押さえつけているからだ。
でも山科の空は、同じ低さでも意味が違う。山が空を切り取り、谷が音を集める。鳥の声が鋭く響き、遠くの水音が妙に近い。
道の脇で、子どもがこちらを見ていた。
都の子どもとは違う。目がまっすぐで、隠さない。好奇心というより、品定めをしているような目だった。桂子は簾をわずかに下げた。
——見られている。
——見られて、測られている。
都での"見られる"は、華やかさの一部だった。祝いの席で、人々の視線を浴びるのは誇らしいことだった。
でもここでの"見られる"は違う。生き延びるための目だ。
深雪がそれに気づいて、慌てて言った。
「姫さま、簾は……」
「大丈夫」
桂子は低く返す。
「都の娘のまま、ここを通れないだけよ」
深雪は息を飲んだ。
その言葉が"覚悟"なのか"意地"なのか、測りかねている。
輿の外では、武士たちの足音が揃っている。鎧の擦れる音が、同じ間隔で続く。乱れがない。志乃の足音だけが、その中で少し違う。薙刀を背負った重心の音だ。
先頭では、伊勢兵部少輔が時折手を上げて合図をしていた。声は出さない。合図だけで列が変わる。
それは"慣れ"だった。山道に慣れているのではない。人と危険に慣れている。
桂子は簾の内側で思った。
(この人は、都の礼儀作法の人じゃない)
礼儀は整っている。でも礼儀は"鎧"だ。
その下にあるものは、もっと冷たい何かだ。
昼を過ぎたころ、一行は小さな休み場に入った。
茶を出す家があって、湯気の匂いが漂っている。桂子の輿は人目を避けて、屋根の影に寄せられた。
深雪が急いで降り、湯を受け取る。志乃は周囲を見渡して、立ち位置を決めた。武士たちは散らばったように見えて、実は道の端にきちんと残っている。
「……姫さま」
深雪が簾を少し上げて、器を差し出した。桂子は受け取った。湯は薄く、お茶の香りも淡い。それでも腹の底が温まる。
そのとき、外で小さなやり取りがあった。
「この先、山へ入る前に水を補充しろ」
兵部少輔の声。低い。
志乃が返した。短い声で。
「荷は軽くしてください。姫の輿が遅れます」
兵部少輔がほんの一瞬、志乃を見た。
視線が交わり、すぐに外れた。でも空気が変わった。
志乃は守る側。兵部少輔も守る側。でも、守り方が違う。
深雪が唇を噛んだ。
桂子はその仕草を見て、胸の奥がざらついた。
——私は、守られている。
——けれど私は、守りの中心じゃない。
中心にあるのは、婚姻そのもの。
桂子ではない。桂子が"中御門の姫"であることだ。
器の縁が、指先に冷たく当たった。
桂子は指を離して、膝の上へ器を戻した。
「深雪」
「はい」
「父上は、何て言っていた?」
深雪が一瞬、言葉に詰まる。
都の言葉を、都の外で口にするのをためらったのだ。
「……中御門の、血の品格を、と」
桂子は頷いた。
「血の品格」
声に出すと、言葉が硬い石のように口の中に残った。
深雪はそれを聞いて、目を伏せた。
「姫さま。それは、都の……」
「違うわ」
桂子は深雪の言葉を遮った。声は静かだったが、揺れていない。
「都の言葉だからこそ、ここで試されるの」
深雪は息を止めた。
"姫を守るために言葉を整える"のが深雪の役目だった。でも今日は、姫の方が言葉を整えている。
志乃が簾の外から告げた。
「出発します。姫さま、もうすぐ道が山に入ります」
桂子は「はい」と返した。
その返事が、またひとつ"都"から遠ざかる音に聞こえた。
夕方が近づき、空が灰色に変わっていく。
山の影が伸びて、道の両側が暗くなる。
宿場に着く前、誰かが「鈴鹿」という名前を口にした。
旅人の会話の端っこだった。言葉だけが風に乗って、輿の簾の内側まで届く。
鈴鹿。
その名前は、山の匂いを連れてくるようだった。
宿に入ると、屋根が低くて天井が近い。
畳の匂いが薄くて、木の匂いが濃い。都の部屋はお香で満たされているけれど、ここは薪の匂いが支配している。
深雪が手早く布を敷いて、桂子のために小さな場所を作った。
志乃は外で武士たちと交代を決めている。兵部少輔の声が短く響き、夜の段取りが固まっていく。
桂子は一人、膝を抱えるように座った。
昼間に飲んだ薄茶の温かさはもう消えて、指先が冷えている。
簾のない夜。
都の屋敷なら、襖の向こうに家がある。ここでは襖の向こうに山がある。山の闇は、人の暮らしとは別の闇だ。
深雪が小さな灯りを持ってきた。
灯りが揺れて、影が壁を歩く。
「姫さま。明日が峠でございます。……どうか、無理をなさらないように」
桂子は頷いた。
「無理はしないわ」
そう言いながら、心の底では別のことを思っていた。
(無理をしないで、ここを越えられるのかしら)
越えるのは峠だけじゃない。
この国の空気。言葉。人々の目。匂い。
そして、都の娘としての自分。
深雪が部屋を出ると、外の足音がひとつだけ近づいて離れた。志乃だろう。
その足音が桂子に少しだけ安心を与えるのが、なぜか悔しかった。
桂子は目を閉じた。
父の声が甦る。
——血の品格。
それは、飾りじゃない。
飾りなら、都に置いてこられた。
置いてこられなかったから、今も胸に残っている。
その夜、桂子はあまり眠れなかった。
山が静かすぎたからじゃない。
静かすぎるのは、明日からだと、身体が知っていたからだ。
第三話へ続く
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本作は、石田源志(DaidaraHand)による戦国歴史小説
『寿桂尼物語 ― 今川を支えた都の姫君』の連載版です。
この物語は、公家出身の女性・寿桂尼の視点から、
今川氏親・義元の時代と「地方の都・駿府」を描いています。
本文の連載は note版 にて公開しています。
設定資料・人物解説・シリーズ全体の情報は、
「農福学物語 公式サイト(BASE)」にまとめています。
本作はAIとの共創(構成・整理・推敲補助)を取り入れつつ、最終的な表現と判断は著者が行っています。
書籍版(Kindle)では、構成と加筆を行った決定稿をお読みいただけます。
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