寿桂尼物語 今川駿府の白き庭<長編連載版>
@genjiishida
第1章 東への花嫁 第1話 出立(いでたち)
寿桂尼物語 ー今川を支えた都の姫君ー
第1章 東への花嫁
第一話 出立(いでたち)
※本作は史実を題材とした創作小説です。登場人物「桂子」は作者による創作設定です。
京の朝は、春を名乗るわりに冷たかった。
中御門家の屋敷では、その冷気を追い払うように人が動いている。襖が開くたび白い小袖が廊下を流れ、香の煙が立ち昇る。足袋が畳を鳴らし、湯の匂いと絹の擦れる音が混じる。言葉の切れ端があちこちから聞こえてくる。
「輿の紐、もう一度確認を」
「文箱は最後尾です。落とさないように」
「姫さまのお支度、急ぎましょう」
今日、この屋敷は一つの目的だけで動いていた。
桂子は鏡の前で、黙ってその声を聞いていた。
十六歳。生まれてから一度も、この屋敷の門を出たことがない。それが今日、都を出る。しかも行き先は遥か東——駿河の国だ。
髪を結われ、衣を重ねられ、白粉を塗られる。一枚ごとに、自分が"外の人間"になっていく気がする。鏡に映る自分は、もう知っている自分じゃない気がした。
これから向かうのは、今川氏親のもとだ。
駿河と遠江を治める守護大名。武家の棟梁でありながら、都の文化を尊ぶ人物だと聞いている。だが会ったことはない。顔も知らない。これから一生を共にする相手なのに。
この婚姻は、政治だった。
戦乱が続き、朝廷の力は衰えている。だから東国の有力な武家と手を結ぶ必要があった。今川家もまた、都の血と権威を求めていた。二つの思惑が交わり、桂子の人生が決まった。
自分で選んだわけじゃない。でも、それが公家の娘の生き方だった。
「姫さま」
背後で深雪が声をかけてきた。文字や作法を教えてくれた侍女だ。几帳面な性格で、いつも桂子の所作を細かくチェックしている。今日の深雪は、いつもより息が浅い。
「お顔が白すぎます。少しお水を……」
「大丈夫よ」
桂子は笑ってみせた。笑ったけれど、唇が乾いているのがわかる。
「冷たい方が、気が引き締まるもの」
深雪は何も言わなかった。言えば声が震えてしまうのだろう。代わりに桂子の襟元を直し、帯の位置を確かめ、裳裾の線を丁寧に整えた。
廊下の奥から、足音が一つだけ近づいてくる。
志乃だった。
背中に薙刀を背負い、視線が鋭い。女房というより武人のような雰囲気がある。幼い頃から桂子に仕えていて、今は護衛を務めている。志乃は膝もつかず、ただ短く報告した。
「門前、異常ありません」
「ありがとう」
それだけで十分だった。志乃は余計な慰めを言わない。守りは言葉じゃなく、立ち位置と呼吸で示す人だ。
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父・宣胤は几帳の奥に座っていた。
いつもと同じ姿勢。同じ沈黙。でも今日だけは、その"変わらなさ"が桂子の胸を刺した。
母とともに進み出て、膝をついた。畳の目がやけに鮮明に見える。
「桂子」
父の声は低く、落ち着いている。感情を削ぎ落として、礼儀だけが残ったような声だった。
「今川殿は礼を重んじる家だ。武家でありながら、都の作法を大切にしておられる」
桂子は顔を上げなかった。上げたら、何かが崩れてしまう気がした。
父は続けた。
「お前が向こうで示すべきは、美しさや才能ではない。中御門の血が持つ品格だ」
一拍置いて、父は言い切った。
「——血の品格を落とすな」
血の品格。
その言葉の意味が、まだよくわからなかった。容姿や知識のことじゃない。立ち居振る舞い、心の在り方、すべてに滲み出る何か。それが公家の誇りなのだと、なんとなくはわかる。
「都の娘としての甘えは、置いていけ」
父の言葉は冷たかった。でも桂子は知っている。父は、これしか言えないのだ。
"父親"より先に"当主"が立つ。それがこの家のやり方だった。
母が袖の中で扇を握りしめている。母は父のように断ち切れない。断ち切れないのに、声は乱さない。
「身体を大切にね。無理はしないで」
それだけ言って、母は桂子の手を包んだ。
指先が温かい。温かいから、逆に痛い。
そのとき、廊下の外から声が飛び込んできた。
「今川家より使者、門前に参っております」
出立の時間が来た。
桂子は深く頭を下げた。
「……行ってまいります」
父は頷くだけだった。母はもう一度、桂子の手を包み直した。
それ以上は何も言わなかった。言葉を増やせば、きっと崩れてしまうから。
桂子は立ち上がった。
この瞬間から、自分は都の姫じゃなくなる。身体がそれを先に理解していた。
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玄関に出ると、空気ががらりと変わった。
鎧の金具が朝の光を弾き、武士たちが静かに並んでいる。武装しているのに音が少ない。きちんと統制が取れている。怖さより先に、今川という家の大きさが伝わってきた。
先頭の男が一歩進み出た。
三十代半ば。顔には古い傷跡がある。視線が鋭くて、周囲をじっと観察している。礼儀正しいけれど、油断のない礼だ。
「伊勢兵部少輔と申します。今川氏親様よりの書状を、確かにお届けに参りました」
伊勢兵部少輔——半年前、この男は京にいた。
中御門家の家司と何度も交渉を重ね、願文を整え、礼の型を一つ一つ固めていった。紙で国を縛る、都の戦いを戦い抜いた男だ。その半年間の努力が、今この場に結実している。
父が書状を受け取った。
礼が交わされる。言葉は短い。
「遠路ご苦労であった。娘をよろしく頼む」
それだけ言って、父は背を向けた。
感情は見せない。見せるのは家の型だけだ。
桂子はその背中を見つめた。
胸が熱くなる。でも泣いたら、都に引き戻されてしまう。泣くな、と自分に言い聞かせた。
深雪が裳裾を見て、小さく眉をひそめた。
「姫さま、裾が少し短いです。駿河の方々に見られますから、直しましょう」
「このままでいいわ」
桂子は微笑んだ。
「道中で汚れるもの。最初から完璧にしても、意味がないでしょう?」
深雪は困ったように唇を結んだ。完璧が崩れるのを嫌う性格だ。でも今日は、姫の言葉が正しいこともわかっている。
志乃が一歩前に出た。
「出立の時刻です」
桂子は頷き、輿へ向かった。
内部は狭く、お香の香りが充満している。膝を折って座り、背筋を伸ばす。簾の隙間から、白い砂が見えた。
門が開く。
車輪が砂を軋ませながら、列がゆっくりと動き出した。
屋敷の塀が途切れて、京の町が広がった。遠くで鐘の音が聞こえる。寺の鐘なのか、門の鐘なのか。都の音はすべてが柔らかい。柔らかいから、かえって胸に刺さる。
深雪が、ほとんど独り言のように呟いた。
「姫さま……これが、都の見納めでございますね」
桂子は短く答えた。
「ええ。でも、振り返らないわ」
振り返らない——その言葉を口にした瞬間、もう戻れないのだと腹の底で悟った。
志乃の声が前方から聞こえてくる。
「前方が開けてきました」
桂子は目を閉じた。
父の言葉が胸に残っている。
——血の品格。
それが何なのか、まだはっきりとはわからない。でも、わからないままでも進まなければならない。それだけはわかる。
簾の向こうに、道が東へ伸びている。
京から近江へ。鈴鹿の峠を越えて伊勢へ。そこから船で遠江へ渡り、最後に駿河へ。
長い道のりだ。険しい旅になるだろう。
桂子は輿の中で、静かに息を吐いた。
都の春が背中へ遠ざかっていく。そして、まだ見ぬ世界が前から近づいてくる。
桂子はまだ知らない。
この先で血を見ること。泥にまみれること。海を渡り、波に揺られること。そして自分が何者なのかを、ようやく理解すること。
駿河の地で、桂子は「寿桂尼」となる。
その名前が、やがて都よりも深く、人々の心に刻まれることを。
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第二話へ続く
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本作は、石田源志(DaidaraHand)による戦国歴史小説
『寿桂尼物語 ― 今川を支えた都の姫君』の連載版です。
この物語は、公家出身の女性・寿桂尼の視点から、
今川氏親・義元の時代と「地方の都・駿府」を描いています。
本文の連載は note版 にて公開しています。
設定資料・人物解説・シリーズ全体の情報は、
「農福学物語 公式サイト(BASE)」にまとめています。
本作はAIとの共創(構成・整理・推敲補助)を取り入れつつ、最終的な表現と判断は著者が行っています。
書籍版(Kindle)では、構成と加筆を行った決定稿をお読みいただけます。
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