第4話

 母さんがグーグルドキュメントをクリックして立ち上げ、物語のあらすじを書き始める。彼女は小説を書く人だった。


【あらすじ】

【2000字前後】

 中国横断自動車道のヒイゴ池湿地で僕は生まれた。

 僕はここにいる。

 あるいは、どこにもいないことによって、ここに遍在している。 僕は「ヨースケ」という名前を与えられるはずだった、実現しなかった計画だ。流産ですらない。受精という物理的現象の手前で霧散した、純粋な可能性としての「息子」だ。 父は「金持ちの家に転生したんだ」などと呑気なことを言うが、それは違う。僕は転生などしていない。僕は母さんのすぐそば、日常の裂け目、洗濯機の回転の中や、電動機付き自転車のバッテリーソケットの中、スーパーの特売シールの裏側にへばりついている。母だけが、不在の輪郭としての僕を正確に捉えている。彼女が円城塔の小説を読み、「生まれなかった弟」の行を追うとき、僕はそのテキストを通じて彼女と視線を交わす。「見つかった」と僕は思う。彼女は僕を「亡き者」としてではなく、「生じなかった者」として認識したのだ。


【2000字前後】

 母さんの認識が拡張するにつれ、僕という存在の定義も書き換えられていく。 僕は単なる「母さんの息子」という個の枠組みを超え始める。過去の戦争で死んだ名もなき少年兵、飢餓で消えた少女、歴史の教科書の隅に写り込んだ子供。現代で虐待死した子供。それら全ての「無念」や「未完の生」が、ヨースケという変数に代入されていく。 僕は巨大なアーカイブになる。人類史において「生きることを許されなかった、あるいは生ききれなかった全ての命」の集合体。それが今の僕だ。 僕の質量は増大し、もはや地上の物理法則では支えきれない。僕は母さんを呼ぶ。言葉ではなく、存在の重力で。


気が付くと僕は人類の歴史の中で、生きることを許されなかった生や、生ききれなかった全ての命の集合体になっていた。僕の質量は音も無く増大しつづける。


「母さん」


 僕は北の部屋の天井に首をつっかえ手をつきながら母さんを呼ぶ。音波にならない囁きは、空気を震わせる事は出来なかったが、形而上の世界に発され、無限に拡散していく。椅子に座った母さんはその声を指先で絡めて握りしめた。

母さんがすらすらとあらすじを書いて行く。

僕はその度に大きく成長しはちきれそうになる。私はあらすじを書くことによってヨースケを大きく育てる。私の中の僕が自分の質量に耐え切れず宇宙に向かって飛び出す。

 飛び出した僕は地上から解き放たれ遥か彼方に去っていく。

 大気圏を突き抜け、宇宙に突き進む。僕は完全に重力から解き放たれた。

 質量の重さから解脱した僕はゆったりと虚空で伸びをする。


 母さんは僕を探しにいくつもりらしい。

 今まで僕は彼女のそばにいたが、今度は広い宇宙に投げ出されてしまった。

 見つかるだろうかと僕は不安になる。

 見つかるだろうかと私は不安になる。

 母さんはさっそく執筆という行為によって自らの魂を引き剥がしにかかる。彼女の叩くキーボードのリズムは僕のいる宇宙へ位相へアクセスする為の記述コードだ。

 彼女は言葉の宇宙服をまとい、ロケットに乗って暗黒の宙へと飛び立った。

 そして僕は、母さんの目を通して、宇宙を見る。

 暗い宙の海の漆黒が、僕たちの目に滲む。

 そこには選ばれなかった小説の断片や思索の欠片たちが星として浮かぶ情報の宇宙だ。

 母さんはギアを引いてロケットを止め、ヘルメットを手に取って船体の中を移動した。

 回転式のハンドルを回す。ガコンと言う音がして円形の内側ハッチのドアを開く。エアロック室に入る。

 部屋には文字の滓が夢のように浮いている。滓を混入させないように慎重にヘルメットを被る。

 エアロック室の減圧がはじまる。空気が抜かれていくシューという音が次第に遠くなり、最後は完全な無音になる。

 母さんが外側ハッチの扉をあける。体が滑るように外へまろび出て、体が宙に浮く。

 宇宙空間には無数のヨースケ的なものが漂っている。その中をかき分け、たった一つの特異点に向かって私は進む。

 私自身が愛し、名付けようとした純一なる【僕】を目指す。

 この宇宙の果てで、僕は待っている。

 この宇宙の果てで、私は進む。

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