第7話瞬絶

心愛は幼子特有の危なっかしい足取りで父親の跡を追う。


そんな心愛を気にする風でもなく、

振り向かずに歩く堀池陽大。

望海の心に不安が広がり、すぐに後を追った。


「え?待ってあげないの?」


驚く望海。信号の青がチカチカしだしたのに、

堀池陽大が渡り始めたのだ。

心愛はまだ父親に追いつかない。


子どもは道路の反対側に親を見つけると、

左右を確認せず飛び出す。


望海は以前、そういう実験結果を聞いたことがあった。


「子どもを道の反対側から呼ばないでください」


真剣に訴える専門家の表情を、

望海は片時も忘れたことがない。


「早く心愛ちゃんに追いつかなきゃ!」


心愛が事故に遭うのではと考えているのに、

焦りからか望海の足はもつれ、前に進めない。


望海が追いつく前に心愛は横断歩道に着いてしまった。

信号は既に赤。

そして左から軽ワゴンが。


車の気配を感じたのだろう。

堀池陽大がパっと振り返り心愛の方を見た。


バカ!振り返るなら、信号を渡る前でしょ!


そう怒鳴りたいが、

望海の口はカラカラに乾きパクパクと動くだけ。


自分を今まで見なかった父親が

振り向いたことで心愛はうれしそうに叫んだ。


「おとしゃん!」


心愛が飛び出した。

車のクラクション。

急ブレーキ。


望海は目をつぶった。


心愛ちゃん!


恐る恐る目を開けると、

心愛の数ミリ手前で奇跡的に止まる軽ワゴンが見えた。

軽ワゴンの運転手も心愛も目を見開いた状態で固まっている。


スピードが出てないから止まれたんだ。

良かった……


望海がホッと胸をなでおろしていると、

運転手が耐えられないような罵詈雑言を

心愛に浴びせて去っていった。


安堵したせいで、怒りがもたげたのだろう。

しかし幼い女の子にあんな言い方は……


そう思いつつ、


「心愛ちゃん、大丈夫?」


と望海が呼びかけようとした時、

堀池陽大がすうっと心愛に近づく。


「あなた、小さい子をひとりで……」


堀池陽大への文句を言おうとするが、

彼には望海の姿は見えていないようだ。


「おとしゃん!」


動きの止まっていた心愛も、

父親の顔を見て安堵したのだろう。

堀池陽大へ呼びかける。


心愛の小さな手が陽大に向かって伸びた時だった。


「ゴッッ!」


心愛の脳天めがけて、堀池陽大が拳を振り下ろしたのだ。


「ひっ!」


望海は思わず息を飲んだ。


さっき、仰向けに倒れた時は泣かなかった心愛が、

頭を押さえ、火が付いたように泣き出した。


心愛が車に轢かれそうになった時は、

足が震えて動けなかったが、

今は怒りが強すぎて体が動かない。


いや、堀池陽大の信じられない行動への恐怖で、

身体を動かせないのだ。


悪いのは心愛ちゃんじゃないわ!

手を引いていればあんなこと起きなかったのよ!


そう思うのに、望海はそれを口に出せなかった。


心愛を殴りつけた時の無表情さ


それを目の当たりにして恐怖に支配されてしまったのだ。


守らなくてはならない小さな子へ

容赦なく暴力をふるう大人を

望海は初めて見、震えが止まらない。


心愛ちゃんを助けたいのに


陽大よりずっと常識があるはずの自分が動けない現実に、

望海は押しつぶされそうになった。


大声で泣く心愛を暫く見下ろしていたが、

耐え切れなくなったのだろう。


堀池陽大は、心愛を引きずるようにして歩き出した。


しかし、体をグデングデンにさせ、

地面すれすれの状態で泣いている幼児を引きずるには

姿勢に無理があったようだ。


長身ゆえに、腰は妙な形で曲がる。

それでも、なんとか引きずって

帰ろうとしていたのだが。


チッと舌打ちした堀池陽大は、

ひょいと心愛を小脇に抱え歩き出した。


すると心愛の泣き声がピタリと止んだ。

父親が歩くたびにゆれるリズムが心地良いのだろうか。

目をつぶり、じっとしている。


犬の子じゃあるまいし!

なに?あの抱え方!

いや、犬はもっと大切に扱われているわ!

我が子なんだから優しく抱きかかえなさいよ!

心愛ちゃんが可哀想よ!


堀池親子の後ろ姿を見つめながら、

望海は再度「親になってはいけない人間」と陽大を認定する。


スッキリするための散歩のはずが、

望海の中に潜むどす黒い感情を

ドロリと増幅させる結果になってしまった。


私なら心愛ちゃんを……私なら。


たぷん……。


また耳元で曾祖母の声が聞こえる。


しかし、どす黒い感情に捉われた望海には、

空耳など大したものではないように思えた。


たぷん……

たぷん……。


何度も聞こえる空耳を気にする風もなく、

望海はアパートへ戻った。


部屋に入る前に堀池親子が住む部屋ドアをじっと見つめる。

シーンとしている。気配は感じるのに、声ひとつ聞こえてこない。


小さな子がいる家はもっと温かで

もっと幸せに満ちていなければならない。


私なら心愛ちゃんをそういう環境で。

きれいな環境で

きれいなものだけを与えて……


そこまで考えた時、階段を降りてきた市川と目が合う。


ほほ笑みかけてくれる市川に、

望海はぎこちない笑みを返しながら、

ドアを開け、部屋へと入った。


今日はとても話をする気分じゃないわ。


部屋へ入った望海はドアにもたれかかり、深いため息をついた。


・・・・・・


「心愛ちゃん?」


次に望海が心愛を見たのは、

アパートの庭に置いてあるバケツの前だった。

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