第6話哀情
「……んなさい」
途切れつつも謝罪の言葉を述べた望海の視界に、
ちょこまかと動くものが映った。
陽大の娘、心愛だ。
せわしなく動く姿が可愛い。
望海の顔に思わず笑みが広がる。
すると、陽大は乱暴に心愛の腕を掴み、
望海から見えないようにした。
「ぎゃっ!」
痛かったのだろう。
心愛が悲鳴をあげる。
「ちょっと……乱ぼ……」
と、言いかけた時、陽大にジロリと睨まれた。
無言で睨む陽大に気圧され、
望海はそれ以上話すことができない。
もう話しかけてこないと感じたらしく、
陽大は心愛から手を放し、スタスタと歩き出す。
「おとしゃん!」
心愛が慌てて後を追う。
大柄な父親の歩幅に追いつこうと必死な心愛は、
サイズの合わない服を着ている。
何年前の服だろう?
ヒョロヒョロとした手足が大きくはみ出ている。
この前は異様に大きなサイズの服を着ていた。
心愛とは何度かあったが、
一度も体型に合った服を着た姿は見ていない。
どことなく垢じみて見えるのは、
くしゃくしゃの頭のせいだろうか。
ブラシをかけていないのだろう。
長い髪の毛がところどころで、
ヤドリギのようになっている。
望海から見ると心愛への陽大の態度は立派な虐待だ。
それなのに心愛は必死に陽大を追いかけている。
心愛の小さな背中を見ているうちに、
望海の心はいじらしさでいっぱいになった。
自分だったらもっと可愛くしてあげられるのに。
幼児独特の柔らかな髪をきれいに結ってあげるのに。
柔らかなあの髪の毛に触りたい……。
「こんにちは~」
間延びした声に望海は現実に引き戻される。
声をかけてきたのは望海の真上に住む市川だ。
カンカンと階段を降りてきた市川に微笑みかけられ、
望海はほっと息をつく。
望海より10歳くらい年上の幸薄そうな女性。
会うとこうやって声をかけ、世間話もしてくれる。
まともな人がいて良かったと望海はホッとした。
「堀池さんに無視されちゃって」
「ああ、あの人はいつもそうよ」
気にするなと市川は言いながら、
望海と同じく堀池親子をじっと見つめる。
市川さんも私と同じ気持ちなのね!
「心配ですよね、心愛ちゃん」
「え?お父さんの方じゃなくて?」
会話に微妙なズレを感じ眉をひそめた望海だったが、
急な風で煽られた前髪を市川が抑えようとした時、
彼女の額の傷が目に飛び込み息を飲む。
腕にもいくつか擦り傷やアザがある。
望海の視線に気づいたのだろう。
市川が恥ずかしそうに笑う。
「主人を慌てて追いかけていてね、ダーンって」
そういって階段の下で倒れるふりをする市川。
「あーこの階段、滑り易そうですからね」
そう言いながらも望海は、市川の傷は転んだだけではなく、
殴られたものもあるのではないかと推察する。
額の切り傷は新しそうだが、
アザは少し前のもののように見えるのだ。
この人もご主人からDVを受けている。
見た目ではわからない心へのDVを受けてきた望海には、
それがわかる気がした。
市川さんに同じものを感じるのは気のせいじゃなかったかも。
望海が口を開けようとした瞬間、大家の元気な声が聞こえてきた。
「おでかけかい?」
堀池親子に声をかける大家はいつも威勢がいい。
パンチパーマのようにチリチリとした髪型の大柄な老婆だ。
発せられる声は老人とは思えないほど良く通る。
望海が気圧された堀池陽大にも、
臆することなく声をかけるくらい押しが強い。
堀池陽大の頭がかすかに動いた。
あれ……挨拶?
私には無反応なのに!
釈然としない気持ちでその様子を見ていると、
大家がこちらを向いた。
ずかずかと近づいてきたので、望海はげんなりとする。
悪い人ではないんだけど。
押しの強い人、ちょっと苦手なんだよね。
苦笑をしつつ市川の同意を得ようと振り向くといない。
「市川さん?」
市川は大家が近づくとすぐにいなくなる。
相性が悪いのだろう。
いつも素早く姿を消してしまうのだ。
一度、逃げ遅れたことがあったが、
大家に挨拶もせず、階段を上がってしまった。
そんな市川に大家も声をかけようとしない。
大家も市川も苦手な相手と認識しているのだろうか。
市川と大家の奇妙な間柄に望海は目を白黒させた。
「おでかけかい?」
「はい……」
一声かけると大家は庭掃除に意識を戻す。
もう望海のことなど眼中にないようだ。
大きな背中を暫く眺めていたが反応がないので、
そのまま出かけることにした。
行き先を決めず、ブラブラと歩くうちに望海は近所の土手の下に出た。
「上にいってみようかな」
石段を見つけたのでそこから上にいくことにした。
晴れているせいで体温の上昇が早い。
うっすらとデコルテから肩甲骨もかけて汗がにじむ。
「あつ……あっ!」
びゅっと強めの風が吹き、体がよろけた。
「危ないよ」
グラっとした瞬間、声が聞こえた気がした。
バランスを取ってから周囲を見回したが誰もいない。
「市川さん……?まさか……ね」
風のせいで前髪を抑えようとした市川を
思い浮かべてしまったのか。
たぷん、といい、最近は聞き間違いが多いなあ。
クスリと笑い望海は再び、上り始める。
土手の上に着いた時には、
強かった風はそよぐ程度になっていた。
火照った頬にそよ風が当たる心地良さを感じながら、
望海はうーんと両腕を伸ばし、深く息を吸う。
やっぱり外はいいな。
先ほどのモヤモヤが消えていくのを感じていた望海が、
なんとなく視界を前に向けた時、異質なものが映った。
一瞬、脳内の情報が絡まり、それを認識できない。
すうっと深呼吸をし、再度それを見つめ直した。
「心愛……ちゃん?」
川のすぐ近くのそれは心愛だった。
ボサボサの髪の毛をそよ風が撫でている。
しかし、心愛はぴくりともしない。
洋服から飛び出した手足を縮こませて座り込み、
川面をじっと見つめている。
キョロキョロと周囲を見回したが、
父親の陽大の姿は見当たらない。
そのうちに望海の脳裏にあるワードが浮かび上がる。
子どもの水難事故
気温が高くなると水にかかわる子どもの事故が発生しやすい。
子どもは危機意識が低い生き物なのに。
大人が常に気を配らなければいけない存在なのに。
簡単に子どもを作る人間に限って、
その大切さに気付かない……
20代前半であろう堀池陽大の顔を思い浮かべ、
望海は腹を立てた。
本当に男の人って最低!
私なら子どもを1人になんて!
私なら常に気を配るわ!
私なら私なら!
堀池陽大を子どもを持つ資格のない大人認定しつつ、
望海は心愛に近づき、その横に勢いよく隣に座った。
少し勢いが強すぎたのだろうか。
心愛がびくっとする。
「あ、ごめんね。驚かせちゃった?」
笑いながら声をかけるが心愛は反応しない。
立ち去るべきか?
そう考えはしたが、川辺に幼児を1人では置いていけない。
望海はそう判断し、黙って心愛の横に座り続けた。
しかし、いつまで経っても心愛は
望海の存在に気づいたように見えない。
幼子が心を開いてくれない様子に、
望海は寂しく、いたたまれなくなる。
もう帰ろうかな。
そう思い、望海が立ち上がろうとした時のことだった。
少し離れたところから歌声が聞こえてきたのだ。
子どもがたどたどしい口調で歌っている。
振り向くと、楽し気にアニメの曲を歌いながら、
親子が手をつないで歩いていた。
その様子に自然と笑みがこぼれる望海。
たぷん……。
「え?」
突然、望海は曾祖母の「ドシャえもん」を思い出した。
聞えてきたのがそれを想起させる歌だからか?
「心愛ちゃん……。今の歌知ってる?」
「……」
反応はない。
知らないのだろう。
いや、耳が聞こえない可能性もある。
アパートの敷地で、望海は心愛に何度か声をかけたことがあった。
しかし、心愛はいつも無反応。
あんな親だもの……
体の異常を見過ごしているかもしれない。
私ならすぐに病院に……
そう思った瞬間、
心愛への切ない気持ちが
望海の体中にぶわっと広がる。
抱きしめてあげたい……。
そう思う望海だったのだが。
なぜか体は動かない。
かわりに口が思いとは違う方向へと動き出した。
思いもよらない言葉が望海の口からこぼれる。
「今の歌、ドシャえもんって聞こえない?似てるよねー」
「ドシャえもん?」
心愛が初めて反応した。
耳、聞こえたんだ!
良かったー。
ホッとした望海は、そこで話をやめようとした。
土左衛門の説明をするのが嫌だったからだ。
しかし、望海の意思とは裏腹に口が勝手に動き出す。
たぷん。
「私の大おばあちゃんが言っていたんだけど……」
私、なに話してるんだろう!やめなきゃ!
そう思うのに口は止まらない。
「水死体って土左衛門って呼ぶんだって。でもね」
そうだ。私が水死体の話を聞いたのは、
心愛ちゃんと同じくらいの年だった。
うつくしくもない気味の悪い話を……私はなぜ?
「名前が言えなくて、ドシャえもんって言っちゃって」
「ドシャえもん?」
そこまで言った時、心愛の目がキラリと光った気がした。
曾祖母の瞼の下の小さな目に似ている……
指先でちょっとつまんで見る、
異様に輝く目に似ている気がした。
もう嫌、やめたい!
そう思うのに、望海の口は動き続ける。
「川に水死体が流れてくるとね」
近くにある小枝を拾う望海。
その動作はあまりにも滑らかだ。
「悪い人だからって棒でつつくんだって」
何度も水面を小枝で叩く。
「ドシャえも~んって叩くの」
「ドシャえも~ん?」
曾祖母はろくな死に方をしてないから、
土左衛門は棒でつつかれても仕方ないと言っていた。
でも、亡くなった人を子供が棒でつついて遊ぶなんて。
嫌な遊びだと望海がぶるっと身を震わせた時、
横腹をちょんちょんとつつかれた。
視線を落とすと心愛の小さな手が目に映る。
なんて小さな手!
少し薄汚れているが、華奢でかわいらしい手。
なんて可愛らしいんだろう!
甘酸っぱい感情で望海の中が満たされる。
私も、この年頃の子がいてもおかしくないんだな、
と心愛を見た時だった。
「うっっ!」
ギラギラと異様に光る目が望海を見つめていることに気づく。
「ドシャえも~ん?」
「うっ」
さっきまでうつくしいとさえ感じていた
心愛の手を思わず振りほどく。
その時、男の短く叫ぶ声が聞こえた。
「こ……あ!」
すると、心愛がバネ仕掛けの人形のようにビンと立ち上がる。
すごい勢いで声のする方へかけていく。
声の主は父親の陽大だった。
父親のそばまで行くと心愛はなにか夢中で話し始める。
しばらく父親は動かなかったが、
急に心愛と反対方向へくるりと身体を回転させた。
その拍子に心愛が仰向けにひっくり返る。
やだ!
突き飛ばした!
そう望海は感じた。
「危ない!」
思わず小さく叫ぶ。
娘が仰向けに倒れても父親は振り向きもせず歩き出す。
ひっくり返った心愛はすぐに飛び起き、
幼児独特の頼りない走り方で父親の後を追う。
「どうして……親になってはいけない人が子どもを……」
陽大と心愛を見つめながら望海は呟いた。
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