第5話葛藤
男と旅行に行くために1歳の子を1ヶ月部屋に?
ネグレクトじゃん……信じられない。
ネットニュースなんて見るんじゃなかった……
そう呟きながら望海はスマホを置いた。
外の天気とは正反対に望海の心に広がるどす黒い雲。
朝食の後片付けをするために望海が皿とカップを手にし、
1人分の食器を片付け始める。
1人って自由なのね。
望海は今、ひとりで暮らしている。
少し前まで、幸にイライラしながら食器を洗っていたのに。
あの時の気持ちが嘘のように、食器を洗う心が軽い。
思い切って家を出て良かった。
幸との息の詰まりそうな生活に別れを告げた望海は、
ひとり暮らしを楽しんでいる。
誰にも気兼ねしないひとり暮らしに思わず笑みがこぼれたのだが、
すぐにさっき読んだネットニュースが頭に浮かぶ。
望んでいる家に生まれれば。
事件なんて起きないのに。
例えば……私のところとか。
そこまで考えた時、幸の発言を思い出し、望海は顔をしかめた。
あの時もネグレクトのニュースが流れていたっけ。
犠牲になった小さな命のことを思い胸を痛めた望海は、
「どうして欲しくないところに生れちゃったんだろう」
と呟いてしまったのだ。
それを聞いた幸は信じられないことに、
「まあねぇ。でも僕らがどうかできるものでもないし」
と言ったのだ。
動画を見たまま言い放つ幸に、望海はショックを受ける。
確かに、私達とはかかわりのない事件だけど。
子どもが……幼い命がなくなったんだよ?
それって冷たすぎるんじゃない?
「うちとかさ、ううん!私みたいな!」
突然、饒舌になる望海。
「赤ちゃんを可愛がるところに生まれて来れば幸せなのに!」
いつも大人しい望海が熱く語る姿を見て、
幸はちょっと驚いたような顔をした。
しかし、その後すぐに鼻で笑いながら、こう言ったのだ。
「来たら、意外と嫌だったりするかもよ?」
頭から冷水を浴びせられたような気分になった。
その会話をしたのは、望海がちょうど会社を辞めた時。
幸は望海が妊活で会社を辞めたのが気に食わなかったのだ。
共働きで収入に余裕があり、大人だけの無駄のない時間が好きな幸は、
痒いところまで世話してくれる望海がいる生活
がたまらなく快適だったのだ。
それなのに望海は子どもが欲しいと言い張り、会社を辞めてしまった。
周囲は望海の選択に大賛成。
特に、両方の親は望海が退職をすることにもろ手をあげて喜んだ。
だから、幸は大声でなじることができない。
それゆえ、時々、望海だけに嫌味を言う。
俺は2人でもいいのに。
赤ん坊がいなくても俺がいるじゃん?
子どもがいなくても俺、快適ですけど?
元々、子どもを持つことに積極的でない幸ならではの発言だ
と望海は感じた。
いけないいけない。
ひとり暮らしを満喫中なのに。
そう思うのだが、負の感情が膨れ上がり、望海の記憶は過去へと遡る。
・・・・・・
幸と望海は、入社式で出会った。
隣の席に座った幸を見て望海は驚く。
座席表に「川田幸」とあったので、
「サチ」という女性が座ると思っていたのだ。
しかし、隣に座ったのは男性。
望海は悟られないようにしたつもりだったが、
相手に伝わってしまったらしい。
「コウって読むんです」
川田は恥ずかしそう言いながら、頭を下げた。
何度も性別を間違えられているらしく説明がスムーズだ。
ふふふと笑いながら望海は会釈を返す。
おっとりした人
それが望海の幸への第一印象だった。
おだやかな雰囲気の川田幸と、
大人しい望海の距離が縮まるのに、
そう時間はかからなかった。
女性にしては無口な望海には、のんびり屋の幸の隣は居心地が良い。
順調な交際に望海は、結婚後に生まれる我が子を思い浮かべ、笑みをこぼす。
望海は子どもが大好きなのだ。
こんなに穏やかな人の子どもだったら。
理想の結婚生活が望海の頭の中で渦巻く中、
5年、6年と時が流れる。
望海より後から恋人を持った友人がどんどんと結婚をしていく。
30代の結婚が今では普通なのは知っている。
でも、私は早く子どもが欲しいのだ。
30前に1人目が欲しい。
しかし、その焦りを望海は幸に告げられないまま、時は過ぎる。
穏やかで優しい幸が離れていくのがいやだったのだ。
そうこうするうちに望海は30歳の誕生日を迎えてしまった。
もう20代ではない……
でも、30前半までなら!
内心焦りが膨れ上がったが、
望海は幸に悟られないよう、
必死で冷静さを保った。
幸は名前を間違えた時と違い、
望海の本心に全くといっていいほど気づかない。
「誕生日、行きたい店ある?」
そう言ってきた幸に望海は首を振る。
「広い公園でお弁当を持ってゆっくりとしたいな」
いつもは少し高めの店で誕生日を祝うのだが、
望海はあえて公園で過ごしたいと主張した。
望海の誕生日がちょうど休日だったのだ。
休みの公園は子ども連れが多い。
手作りのお弁当を食べながら、
楽しそうに遊ぶ親と子を見せれば、
幸も私の気持ちがわかるのでは?
「赤ちゃんかわいいねぇ」
「あの子!歩き始めかな」
子どもを見つけては、望海はわざとはしゃいだ。
しかし、幸は子どもには全く反応を示さない。
望海の作った弁当を平らげ、ゴロンと横になり軽くいびきをかき出す。
呑気に寝ている幸を見てイラっとしながら、
食べ散らかした紙皿やコップを片付ける望海。
今日は私の誕生日なのに……
なんでゴミの片付けなんか……
夕方になり気温が下がる頃、
クシュッとくしゃみをして幸が起きた。
周囲にいた家族連れはほとんどいない。
幸のくしゃみを聞いた瞬間、
望海の目から涙がポロポロ零れ落ちた。
「ど、どうしたの?」
「な……んでもない」
ポロポロと涙を流す望海を幸はそっと抱き寄せる。
「ごめんね。疲れているとはいえ寝ちゃって」
1人で寂しかったんだねなどと言いながら、
幸はポンポン、と望海の背中を叩く。
寂しいからじゃない!
と心の中で毒づく望海。
ポンポンが優しければ優しいほど涙があふれる。
その優しいポンポンは!
私ではなく赤ちゃんに!
声をあげて泣く望海を幸はずっと抱きしめてくれた。
望海が泣き止むと、幸はすっと離れる。
「結婚しようか?」
驚き固まる望海に幸は、
恥ずかしそうに小箱を取り出す。
「本当はもっといいところで渡すものなんだろうけど」
望海の涙が悲しみから喜びに染まった。
・・・・・・
8年近い交際期間を経ての結婚は、
望海と幸らしいと周囲から受け止められた。
両方の母親達から式場で、
「そんなに若くないんだから早く孫を」
と言われ、望海は恥ずかしがるそぶりを見せつつ、
その通りだと内心力強く頷いた。
しかし。
「新婚生活を少しぐらい楽しませろよ」
と幸が口をとがらせて言った。
微妙な空気が流れる。
そうねぇ、
新婚さんに失礼だったわね
と苦笑いする親戚達。
望海も内心、
交際期間があれだけ長かったのに?
新婚生活?
と驚きつつも、
幸の発言にあいまいな笑みを浮かべ頷くしかなかった。
結婚したら幸も変わるかもしれない。
式場での幸の発言を軽く受け止めた望海は、
しばらくは共働きで夫婦の時間を楽しんだのだが。
まさかそれが8年も続くとは。
その8年の間、望海は妊娠できなかった。
基礎体温をしっかり測り
体にいいものを摂り
2人だけで旅行も沢山……
いい雰囲気を作る努力を沢山した。
しかし、幸が協力しないのだ。
「まだいいじゃない?2人だけでも楽しいし」
確かに大人2人の時間は楽しい。
計画を立てても全てが思い通りのままだし。
でも、小さな子がいる充実感を望海は味わいたかった。
子どもも得られない生活に流れる、
老夫婦のような時間が望海は嫌だった。
望海が友人の出産祝いの集まりに参加した時のことだった。
生まれたての赤ちゃんを抱かせてもらったが、
抱いているだけで周りの空気が清らかになる気がした。
3歳くらいの子とも遊んだ。
望海にかなり懐いてくれたので、
「連れて帰っちゃおうかな?」
と冗談を言うと。
「やだ!ママァ!」
と叫び、小さい子とは思えない強さで体をくねらせ、
望海の手の中から逃げていく。
母親に飛びつくその姿は、
望海が手に入れたくても得られないものだった。
たぷん。
水音が聞こえた気がして望海は自分の腹を触る。
もしかして!期待をしながら帰ったのだが。
次の日、残業中に軽い痛みを感じ血の気が引く。
腹の中の命は育たなかった。
「どうして……育たなかったの?」
妊娠しないのは、自分が忙しいせいかも。
自分にゆとりがあれば、幸も子どもを望むのではないか。
そう考えた望海は不妊治療に専念しようと、退職を決めた。
幸は「そこまでしなくても」と顔をしかめたが、
望海はどうしてもそうしたかったのだ。
自分だけを見てくれる小さな命を抱きしめたい。
大人しい望海が、いくら反対しても首を縦に振らないので、
最後は幸が根負けした。
「退職したらつまらない生活だよ!きっと!」
と不服さを隠そうとしない幸だったが、
望海が退職をするとあっという間に反応が変わる。
家の中での快適さがグンと上がったのだ。
望海が家にいることで室内はさらにスッキリと保たれた。
会社から帰り、椅子に座ると出来立ての料理が目の前にすぐ運ばれる。
残業があると望海は「ごめんね」と言いながら、
惣菜を出していたのに。
今では手作りの料理しか出てこない。
すっと出てくる風呂上がりの一杯。
望海の全神経が自分に注がれる心地良さに、
幸はすっかり満足した。
それが全て「赤ちゃんが欲しい」という、
切実な思いから来ているものだと幸は気づかなかった。
俺は大切にされている……
幸は望海の切ない思いを都合よく捉えた。
望海が「なんでもしてくれる」環境に慣れ切り、
幸は子どもの必要性を感じなくなった。
「俺がいるじゃん?」
あの一言を思い出すと、
今でも怒りが噴き出でる。
私、なにを間違ったのだろう?
赤ちゃんが欲しいってそんなにいけないこと?
せっかくのひとり暮らしなのに。
嫌なことを思い出しちゃったな。
どす黒い気持ちから逃れたいと
考えた望海は外に出ようとドアを開けた。
鍵を閉め、くるりと後ろを向くと人にぶつかりそうになる。
「あ……ごめ」
その人物は隣の部屋の堀池陽大だった。
たまたま出かけるタイミングが重なったらしい。
190cmはある堀池陽大は横にも大きい。
ほっそりとした望海は、自然と見降ろされる形となった。
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