第7話 選定地の陽だまり
水曜日は図書館の定休日。柚希はいつもより早起きせずにすむはずだったが、やはり朝の陽に目が覚めてしまった。柏木蒼からもらった設計案を机に広げ、手元のメモ帳に書き込んだ意見を一つ一つ確認する。蔵書エリアの配置について、少し追加したい点があったので、今日の現地調査で直接話し合おうと思っていた。
スマホが鳴動し、画面には「柏木蒼」と表示されている。柚希は少し深呼吸をしてから、通話ボタンを押した「もしもし」
「藤川、おはよう。今日、選定地に行ってもいい?日当たりと動線について、君の意見が本当に聞きたい。時間は大丈夫?」柏木蒼の声は朝の空気のように爽やかで、圧を感じさせない
「大丈夫よ。どこで待ち合わせる?」
「古町並みの入口のバス停で、三十分後はどう?」
「承知した」
待ち合わせ場所に着くと、柏木蒼がすでにそこに立っていた。手には二つの紙袋を提げ、朝の日差しを浴びて笑顔を浮かべている。柚希が近づくと、紙袋を一つ差し出す「朝食屋を通りかかったので、小豆まんじゅうと温かい豆乳を買ってきた。まだ熱いよ」
「ありがとう」柚希は紙袋を受け取り、柔らかな小豆の香りが鼻を抜ける。学生時代によく食べた味だった。
改造予定の古民家は町並みの奥にある。二階建ての建物で、庭には一本の老樟の木が生い茂っている。冬なのに枝が逞しく伸び、生命力の強さを感じさせる。古びた木製の扉を開けると、中には薄い埃がただよっているが、間取りは意外と開けていて、南向きの壁には大きな窓枠が残っており、朝の陽がそのまま差し込んで、床に長い光の筋を描いていた。
「ここは元々一軒家だった。オーナーは地域の人に憩いの場を作ってほしいと言って、図書館に改造することになった」柏木蒼はタブレットを取り出し、設計図を開く「一階を一般の蔵書エリアと休憩コーナーに、二階を子供の絵本コーナーにしようと思っている。この窓枠を拡げれば、日当たりがもっとよくなるんだ」
柚希は窓のそばに立ち、手を伸ばして高さを確かめる「拡げるのはいいけど、一階の蔵書エリアは窓際に低い本棚を置くのがいいわ。高さは一メートル二十センチ以下にしたら、光が遮られずに済むし、歩く人も本棚の本がすぐに見える」
「確かにそうだ」柏木蒼はノートにすぐにメモを取り、柚希の方を見る「通路の幅は、当初一メートル二十センチにしようと思っていたけど、君はどう思う?」
「少し狭いわ。老人や子供が多く来る場所だから、主通路は一メートル五十センチ、脇通路も一メートル三十センチは確保した方がいい」柚希はタブレットの設計図に指を軽く触れ、動線を示す「それに、角の部分は丸みをつけた方が安全よ。子供が走り回っても、けがをしにくい」
指は一瞬だけ画面に触れただけだったが、二人は自然に距離を縮め、同じ図面を見つめて意見を交わしていた。
二人で建物の中を一時間ほど調査した。柚希は図書館の運用面から細かい提案をし、柏木蒼は建築の専門知識で実現可能性を検討し、時には意見が合わない場面もあったが、決して争うことはなく、互いの意見を尊重して調整していった。柚希はだんだんと緊張を解き、自然に笑顔を見せながら話すようになり、当初のような遠慮は全然なくなっていた。
二階に上がると、小さな屋根裏部屋まで付いていることが分かった。柚希は窓から外を眺め、庭の老樟の木を見つめて笑う「この樟の木、残してくれるのね?夏は日陰になって涼しいし、冬は陽が差し込んで暖かい。周りに石のベンチを置けば、地域の人がくつろげるわ」
「そう思っていたんだ」柏木蒼は柚希の側に立ち、同じ方向を見つめる「門も古いままに修繕して、木製の看板を掲げる予定だ。古い町並みの雰囲気を壊さないようにしたい」
調査が終わって外に出ると、正午近くになっていた。冬の日差しが柔らかく、古町の青石畳みの道に光が反射して、暖かな雰囲気が漂っている。街角に小さな雑貨店があり、柏木蒼が足を止める「少し休憩して飲み物にしよう?話し合いで喉が渇いただろう」
「うん、いいわ」
店内で柚希は常温のみかんジュースを選び、柏木蒼も同じものを取った。会計を済ませて外に出ると、道端には太陽を浴びて休んでいる老人たちがいて、優しく手を振ってくれた。柏木蒼も礼儀正しく応え、柚希も自然に微笑んで頷いた。
「君の意見を取り入れれば、設計案はもっと完成度が高まる」歩きながら柏木蒼が話し、真摯な賛辞を漏らす
「設計の骨格がしっかりしているから、意見を出しやすいのよ」柚希は謙虚に答え、側を歩く柏木蒼を一瞬見る。二人の視線が偶然に合い、すぐにそらしたが、気まずさはなく、柔らかな沈黙が流れた。
バス停に着くと、バスがすぐに来た。柏木蒼は柚希を先に乗せさせて、手を振る「帰りは気をつけて。修正した設計案を作ったら、すぐに連絡する」
「うん。今日はありがとう、お疲れ様」柚希は車内から手を振り返す
「お疲れ様」
バスが走り出し、柚希は窓の外の柏木蒼の姿を見つめる。掌のみかんジュースの甘さが残っていて、心も温かく満たされていた。こんな距離感が、ほんとうにいいのかもしれない。急がず、慌てず、一歩ずつ近づいていく——そんな関係が、自分には合っているのだと感じた。
家に帰り、柚希は調査中に思いついた点をメモ帳に整理し、柏木蒼にメッセージを送った「今日はありがとう。通路の幅と丸み、樟の木周りのベンチのこと、忘れずに記載してね」
すぐに返信が来た「了解。君の意見は全部取り入れる。ゆっくり休んでね」
柚希はスマホを置いて、ベッドに横になり、庭の樟の木の姿を思い出して笑んだ。春が来れば、その木に新芽が生えるのだろう。自分の心も、そんなように、新しい芽を出し始めているのかもしれない。
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