第6話 心のさざ波

月曜日の朝、柚希はススケに顔を踏まれて目が覚めた。黒猫の柔らかな肉球が頬を優しく撫でるように動き、ふにゃりと可愛らしい鳴き声が響く。柚希は目を開けると、窓から差し込む朝陽が布団の上に暖かな光を投げており、体の芯まで温かさが広がる。

だが心の中は、小石を投げ込んだ湖面のように、止まらないさざ波が立ち続けていた。


柏木蒼の告白、掌に残る温もり、真摯な瞳。それらが頭の中でループし、一晩中眠れなかった。


柚希は起き上がり、無意識に掌を撫でる。そこにはもはや柏木蒼の温度は残っていないのに、あの瞬間の暖かさが鮮明に思い出され、胸が締め付けられるようなときめきが湧いてくる。


好きだろうか。

柚希は自分に問いかける。

答えははっきりとYESだ。高校時代、彼が傘を届けてくれたとき、机の中に蜂蜜柚子茶を隠してくれたとき、放課後に黙って後ろからついてきてくれたとき——心の隅に小さな動きがあったのを、今でも鮮明に覚えている。

だけど怖かった。

おばあさんを失った痛み、両親の不在による寂しさ。それらが骨の髄まで刻まれた傷跡で、どんなに暖かい関係も、最終的には別離で終わるのだと信じ込んでいた。一歩踏み出して全心を捧げたら、もう一度壊れてしまうのではないか——その恐れが、ずっと彼女を縛り付けていた。


身支度を終えて図書館へ向かう途中、柚希は柏木蒼と偶然に会ったかもしれない角を意図的に遠回りした。足早に歩き、まるで何かから逃げるような様子だった。図書館の扉を開け、紗織が明るく手を振ってくれる姿を見たとき、やっと少しだけ緊張が緩んだ。


「柚希ちゃん!今日の顔色、すごくいいじゃん!」紗織はすぐに柚希の側に寄ってきて、嬉しそうに覗き込む「週末のデート、楽しかった?あの柏木さん、絶対君のことが好きだよ!」


柚希の頬が一瞬紅潮し、慌てて顔をそらし、台の上の本を整理し始める「何をふざけてるの。ただ美術館に行っただけよ」

「嘘つき!」紗織は柚希の腕を軽くつつき、笑顔から真剣な表情に変える「柚希ちゃんのこと、わかってるんだ。真心を捧げることで裏切られるのが怖くて、誰にも心を開かないでいるんだよね?でも今回は違うんだ、柏木さんの目には、君のことをどれだけ大事に思ってるかが、あふれて見えるんだ」


柚希は頭を上げ、紗織の目を見つめ、瞳には茫然とした色がにじんでいた。

「彼は君の好みを全部覚えていて、君の気持ちを配慮して、無理強いをしたことが一回もない」紗織の声は柔らかく、柚希の心にそっと届く「こんな人に、一度信じてみてもいいんじゃない?」


紗織の言葉は一束の微光のように、混乱していた柚希の心を照らし出した。柏木蒼の優しさは分かっていた。だけど過去の傷跡が邪魔をして、踏み出す勇気が出せなかった。

「私……失うのが怖いの」柚希の声は少し震え、切なさが込み上げる

「失うのは確かに怖いけど、逃げてしまったら、一生後悔するかもしれないよ」紗織は柚希の肩をそっと叩き、力強く語る「過去の痛みに、未来を縛らせないで」


その日一日、柚希は仕事中に何度も心を乱した。本を整理するときも貸し出し手続きをするときも、頭の中には紗織の言葉と柏木蒼の告白が巡り続け、集中できないまま時間が過ぎていった。


閉館間際に、フロントの電話が突然鳴り響いた。柚希は受話器を取ると、そこから柏木蒼の穏やかで、少し小心な声が聞こえてきた「藤川、仕事は終わった?地域図書館の設計案の初稿を印刷してきたんだ、図書館の外にいるよ。渡しに来てもいい?時間はかからないから」


柚希は受話器を握り締め、少しの沈黙の後、小さく「うん」と答えた。


外に出ると、街灯の下に柏木蒼が立っていた。手にファイルを抱え、建築事務所から直接来たらしく、まだ少し風塵をまとった様子だった。だが柚希を見ると、疲れは一瞬消え去り、柔らかな笑顔を浮かべた。

「お疲れ様。わざわざ出てきてすみません」

「いいわ、お疲れ様」柚希は頭を下げ、ファイルを受け取る


「それから、高校時代君が好きだった和菓子屋を通りかかったので」柏木蒼はポケットから小さな箱を取り出して差し出す「桜大福を買ってきた。まだ温かいよ」


柚希は箱を受け取り、掌に伝わる温かさに心がほっと緩んだ。こんなに細かいことまで、彼は全部覚えていてくれたのだ。

「設計案はゆっくり見てくれればいい。何か意見があったら、いつでも言って」柏木蒼は柚希の様子を見て、優しく語る「明日は現場の調査があるから、先に失礼する。帰りは気をつけて」


それ以上の言葉もなく、柏木蒼は足を踏み出した。プレッシャーをかけることも、近づきすぎることもせず、完璧な距離感を保ってくれた。その姿に、柚希の心はますます暖かくなった。


家に帰り、柚希は机の上に設計案を広げた。細かく丁寧な線画に、どこに本棚を置くか、どこに休憩スペースを設けるか、すべて詳細に記載されている。大きなフロントガラス、木製の本棚、桜の中庭——そして猫用のベッドまで用意されている箇所に気づき、柚希は思わず目を潤ませた。彼は自分がススケを飼っていることまで、しっかりと覚えていたのだ。


涙が設計案の紙面に落ち、インクを少し滲ませる。柚希はやっと気づいた。柏木蒼は、いつか溶けて消えてしまう雪ではなく、冬の日差しのように、ずっとそばにいて、自分の凍りついた心を温めてくれる存在だった。


まだ少し恐れは残っているけれど、もう少し勇気を出してみよう——そう思った柚希は、初めて柏木蒼に主动的にメッセージを送った。

「設計案、とても素敵です」

ほんの五文字だった。だがすぐに返信が届いた。文字からは抑えきれない喜びが伝わってくる。

「君が気に入ってくれて、本当に嬉しい」


柚希はスマホの画面を見て、自分でも気づかないうちに薄い笑みを浮かべていた。心のさざ波は、やがて柔らかな暖かさに変わり始めていた。

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