第4話 ラーメン屋の誘い

金曜日の夕方、雪は止み、空が晴れ渡って、夕日が街を暖かいオレンジ色に染めていた。柚希は最後の返却本を整理し終え、図書館のライトを消して外に出ると、すぐに街灯の下に立っている柏木蒼の姿が見えた。


彼は薄い灰色のニットに黒のコートを着て、手に温かい飲み物を持っていて、明らかにわざと待っていた様子だった。柚希を見ると、笑って手を振った。「お仕事終わり?」


柚希の足が一瞬止まり、無意識に彼を避けようとしたが、柏木蒼が早く歩いてきて追いついた。「逃げないでくれ、ただラーメンの話を聞いてくれればいい。」彼は温かい飲み物を差し出した。「ハニー柚子茶だよ、合うと思う。」


柚希はそのカップを見た。カップの壁に細かい水滴が付いて、温かい匂いが漂ってきた。高校時代のことを思い出した。毎回模擬試験が終わった後、柏木蒼はいつも彼女の机の中に密かにハニー柚子茶を置いていて、疲れを癒やせるって言ってた。こんなにわざと忘れようとしていた細部が、今、鮮明に頭の中に浮かんできた。


「時間がないわ。」柚希はやはり視線を逸らし、拒否の言葉を口にした。


「週末なら時間があるでしょ?」柏木蒼は諦めず、依然として穏やかな口調だった。「あのラーメン屋は浅草にあって、そんなに遠くない。それに陽太も君に会いたがってるんだ。君が薦めてくれた建築の本が超役立ったって、直接感謝したいって言ってたよ。」


柏木陽太のことを思うと、柚希の心が少し柔らかくなった。あの少年の笑顔は澄んでいて、春の日差しのように、拒否する気になれなかった。


「ただラーメンを食べるだけだから、そんなに時間は取らない。」柏木蒼は彼女にすがるような言葉を加えた。「もし気分が悪かったら、陽太と一緒にいるだけでいい、私はただついてるだけだから。」


彼の言葉は柚希に逃げ道を与えてくれ、張り詰めていた神経も少し緩んだ。彼女は少し沈黙した後、結局頷いた。「土曜日の午後ならいいわ。」


柏木蒼の目が一瞬輝き、燃える星のようになった。「分かった、土曜日の午後二時に迎えに行く。」


柚希はうんと答え、ハニー柚子茶を受け取って振り返って歩き始めた。柏木蒼は彼女の背中を見つめ、口元の笑みが長い間消えなかった。


土曜日の午後、柚希はアパートの下で柏木蒼を待っていた。乳白色のウールコートを着て、キャラメル色のマフラーを巻き、髪を後ろに簡単に結んで、細い首筋が見えていた。これは彼女が何年もかけて、「ただラーメンを食べるだけ」の誘いのために、わざわざ身なりを整えた初めての日だった。


午後二時ちょうど、柏木蒼の車がちょうどよく停まった。彼はウィンドウを下げて、笑って言った。「乗って、陽太がもう店で待ってるよ。」


柚希はドアを開けて乗り込んだ。車内の暖房が気持ちよくて、淡い木製のアロマの香りがした。彼女は窓の外を見つめ、一言も話さなかった。


「緊張してる?」柏木蒼は車を発進させながら、目の余りで彼女の握り締めた指を見て言った。「心配しなくていい、陽太が活発だから、気まずくなることはないよ。」


柚希はうんと答え、やはり彼を見なかった。


車は街を走り、窓の外の景色が少しずつ後ろに流れていった。浅草の街はにぎやかで、赤提灯が路地の入り口にいっぱい掛けられ、行き交う人々が笑い声を上げていて、満ち溢れた人の煙の匂いがした。柚希は窓の外を見つめ、心の中の緊張が少しずつ好奇心に変わっていった。久しぶりに自分の小さな世界から出て、外の活気を感じるのは、悪くない感じだった。


ラーメン屋は小路の奥に隠れていて、入口には「柏木ラーメン」の木札が掛けられていて、古くからある店らしい雰囲気だった。扉を開けると、柏木陽太がすぐに手を振って呼んだ。「兄さん!柚希お姉さん!こっちだよ!」


柚希は彼の向かいに座った。テーブルの上にはすでに二杯の抹茶ソーダが置かれていて、陽太が一杯を彼女に推し出した。「お姉さん、この抹茶ソーダ超美味しいよ、飲んでみて!」


柚希はカップを受け取って一口啜った。甘く爽やかな抹茶の味が口の中に広がり、気持ちよかった。


すぐにラーメンが運ばれてきた。豚骨スープは濃厚で旨みが凝縮されていて、チャーシューは柔らかく煮込まれ、味玉は黄金色の黄身が流れるようだった。陽太は美味しそうに食べながら、学校の面白い話を喋り続け、時々柚希に図書館のことを聞いてきた。


柚希は彼の明るい雰囲気に染まり、時々一言二言答えるようになり、口元にも自然と浅い笑みが浮かぶようになった。


柏木蒼は隣に座り、柚希がリラックスしている様子を見つめ、目には優しさが溢れていた。彼はあまり口を挟まず、ただ黙って柚希の器にスープを足したり、自分の器のチャーシューを彼女に取ったりして言った。「痩せてるから、多く食べなさい。」


柚希の手の動きが一瞬止まり、器の中のチャーシューを見て、心の中が温水に浸かったように、暖かくなった。


ラーメンを食べ終わると、陽太は近くのアニメショップに行きたいって言って、先に走り出してしまった。席には柚希と柏木蒼だけが残された。


二人は浅草の街を歩きながら、夕日が二人の影を長く伸ばしていた。雪解け後の空気は澄んでいて、淡い桜の木の香りが漂ってきた。


「今日来てくれて、ありがとう。」柏木蒼が突然声をかけた。「久しぶりに君が笑ってる姿を見れて、嬉しいよ。」


柚希の足が一瞬止まり、振り返らずに答えた。「陽太が面白いだけよ。」


「それでも、嬉しい。」柏木蒼は彼女のそばに並んで歩き始めた。「藤川さん、君は外の世界が想像してるほど怖くないんだよ。たまに出てきてみると、悪くないよ。」


柚希は道端の赤提灯を見つめ、長い沈黙の後、そっとうんと答えた。


角に来ると、柏木蒼は足を止めて柚希を真剣に見つめて言った。「次は、二人だけで出かけてもいい?例えば美術館に行ったり、公園を散歩したりするのはどう?」


柚希の心臓が突然ドキッとして、顔を上げて彼の目を見た。その瞳の中には期待だけでなく、小心翼翼な緊張も含まれていた。


彼女はおばあさんが亡くなった後、自分の世界に閉じこもり、すべての温かさと近づきを拒否してきた。だが柏木蒼の出現は、一束の光のように、少しずつ彼女の暗い生活を照らし始めていた。


もしかしたら、本当に少しだけ、勇気を出してもいいのかもしれない。


柚希は深呼吸をして、そっと頷いた。「いいわ。」


柏木蒼の顔には瞬時に笑顔が広がり、飴玉をもらった子供のように、目の輝きは夕日よりも明るかった。

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