第4話 暇という名の牢獄と、兄という名の光

 翌朝。

 爽やかな鳥のさえずりをBGMに、俺は父ゲオルグの書斎で雷を落とされていた。


「――それで? 『シーツを変えてくれ』と廊下で絶叫しただと? 夜分に? 屋敷中に響き渡る大声で?」


 父上の声は決して大きくはない。だが、重低音の響きが直接胃にダメージを与えてくる。

 机に肘をつき、組んだ手の上に顎を乗せたその姿は、某司令官のような威圧感を放っていた。


「申し訳ありません……」


 俺は直立不動で頭を垂れた。


「昨日は気が動転しておりまして……。自室に戻ったら、ベッドが殺人現場のように真っ赤に染まっていたものですから、つい」

「つい、で叫ぶな。使用人たちが『ヴァン様がまた乱心された』と怯えていたぞ」

「ぐっ……」


 反論できない。

 確かに、深夜の廊下で男が絶叫すれば、それはただの不審者だ。

 だが、言い訳をさせてほしい。あんな血の海を見せられて、冷静でいられる方がおかしい。俺の頭から流れた血だとしても、量が尋常ではなかったのだ。


「……はぁ。まあいい」


 父上は深く溜息をつき、手元の書類に視線を戻した。


「幸い、ベロニカが迅速に対処したと聞いている。彼女には感謝することだな」

「はい」


 俺はチラリと、部屋の隅に控えているベロニカに視線を送った。

 彼女は涼しい顔で佇んでいる。

 昨夜、俺の悲鳴を聞きつけた彼女は、呆れた顔をしながらも、魔法のような手際でシーツを交換し、マットレスの染み抜きまで完遂してくれた。

 おかげで俺は、清潔でふかふかなベッドで泥のように眠ることができたのだ。

 朝日を浴びた今日の彼女もまた、息を呑むほど美しい。

 プラチナブロンドの髪には一点の乱れもなく、白磁のような肌は冷ややかで、アイスブルーの瞳は感情を映さない。

 だが、俺と目が合うと、ほんの一瞬だけ口角が上がった気がした。

 『昨夜は滑稽でしたね』とでも言いたげな、サディスティックな微小だった。

 ……怖い。でも、その完璧な美貌に見下されるのは、正直嫌いじゃないかもしれない。いや、俺は何を考えているんだ。


「ヴァン。お前に与えられた猶予は一週間だ」


 父上の声が俺の妄想を断ち切る。


「その間、屋敷内で療養することは認めるが、決してアークライト家の品位を損なうような真似はするな。記憶がないなら、ないなりに泰然と構えていろ。よいな?」

「承知いたしました」


 釘を刺された俺は、書斎を後にした。

 廊下に出ると、ベロニカが背後についてくる。


「ヴァン様。本日のご予定は?」

「……特にない。部屋で大人しくしているよ」

「左様ですか。では、私は他の業務もございますので、何かあれば呼び鈴を鳴らしてください」


 彼女は優雅に一礼すると、颯爽と去っていった。

 俺への監視任務があるとはいえ、メイド長としての仕事も山積みらしい。

 残されたのは、広すぎる屋敷と、有り余る時間。


 そして俺は、人生最大の敵と対峙することになった。

 暇である。


 自室に戻り、俺は愕然とした。

 ない。

 スマホがない。パソコンがない。テレビがない。

 ネット回線もなければ、漫画も雑誌もない。

 あるのは難解な魔道書と、高尚すぎる歴史書、そして窓の外に広がる田園風景だけだ。


「……詰んだ」


 現代人にとって、情報の遮断は酸素の欠乏に等しい。

 最初の1時間は、ベッドでゴロゴロして過ごした。

 次の1時間は、部屋の中をうろうろと歩き回った。

 さらに次の1時間で、窓から雲の動きを眺めた。

 限界だった。


「外の空気でも吸うか……」


 俺はふらりと部屋を出て、中庭へと向かった。

 屋敷の中庭は、ベルサイユ宮殿のミニチュア版といった風情で、幾何学模様に刈り込まれた植え込みや、色とりどりのバラが咲き誇る花壇があった。

 天気は快晴。日差しはポカポカとして暖かい。

 絶好の日向ぼっこ日和だ。

 俺は芝生の上に寝転がりたい衝動に駆られたが、父上の「品位を損なうな」という言葉を思い出し、ベンチに腰を下ろした。


 暇だ。

 身体を動かしたいが、激しい運動は医者に止められている。

 なら、あれしかない。

 俺は立ち上がり、軽く手足をぶらぶらさせた。

 そして、前世の国民的体操――ラジオ体操第一を始めた。


 腕を前から上にあげて、大きく背伸びの運動。

 イチ、ニ、サン、シ。

 手足の運動。

 ゴ、ロク、シチ、ハチ。


 遠くで洗濯物を干していたメイドたちが、ギョッとしてこちらを見ている気配がする。


「ヴァン様が奇妙な踊りを……」

「もしや呪いの儀式では……」


 そんなひそひそ話が聞こえてきそうだが、気にしない。今の俺にとって、健康維持と暇つぶしは最優先事項だ。

 身体を捻る運動に入った時だった。


「……何をしているんだ、ヴァン」


 背後から、困惑を含んだ爽やかな声が聞こえた。

 振り返ると、そこには一人の青年が立っていた。

 俺と同じくらいの背丈。

 父上譲りの精悍な顔立ちだが、父上ほど厳しくはなく、どこか理知的で優しげな雰囲気を漂わせている。

 髪は父上と同じ栗色で、短く整えられている。

 簡素だが質の良い稽古着を着ており、額にはうっすらと汗が滲んでいた。

 絵に描いたような「貴公子」。

 あるいは、物語の主人公になれそうな「正統派の好青年」。

 俺の記憶にある、あの人物だ。


「……カイン兄さん、か?」


 俺は体操を中断し、探るように名を呼んだ。

 青年――カイン・アークライトは、少し驚いたように目を見開いた。


「よかった。僕の顔は覚えているんだな」


 彼は苦笑した。その笑顔には、安堵と、そして微かな寂しさが混じっているように見えた。


「父上から聞いたよ。記憶が混濁していると。……大丈夫なのか?」

「ああ、なんとか。昔のことはあやふやだが、日常生活には支障ない」


 俺は努めてフラットに答えた。

 セバスの話では、俺と兄の仲は最悪だったはずだ。

 『魔力なしの出来損ない』と罵っていた相手。

 どんな嫌味を言われるかと身構えていたが、カインの態度に敵意は感じられない。むしろ、気まずそうに視線を逸らしている。


「そうか。……お前が中庭に出てくるなんて珍しいな。いつもは部屋に籠もって魔術の研究をしているのに」

「暇すぎてな。少し身体を動かしたかったんだ」

「身体を? ……その、奇妙な踊りでか?」

「これは体操だ。東洋の神秘的な健康法らしい」


 適当な嘘をつくと、カインは「へえ、そうなのか」と素直に感心した。いい人そうだ。

 彼は手に持っていたタオルで汗を拭うと、俺の顔をじっと見た。


「暇なら、少し付き合うか? 僕も今、朝の鍛錬を終えたところなんだが……お前が良ければ、剣の稽古でもどうだ」


 剣の稽古。

 俺は自分の手のひらを見た。剣ダコはある。身体は覚えているかもしれない。

 それに、男なら一度は剣を振ってみたいという憧れがある。


「……悪くないな。頼む」


 俺が頷くと、カインは嬉しそうに微笑んだ。


「待っていろ。すぐに準備する」


 彼は足早に去っていき、数分後、二本の木剣を持って戻ってきた。

 訓練用の、刃が潰された重い木剣だ。


「まずは手本を見せよう」


 カインは距離を取り、木剣を構えた。

 その瞬間、彼の纏う空気が変わった。

 優しげな青年の顔が消え、戦士の顔になる。

 

 シュッ、と鋭い風切り音。

 踏み込み。突き。払い。

 流れるような演武。

 速い。素人の俺が見ても分かるほど、動きに無駄がない。

 魔力を持たない彼は、その分、剣技を極めることに心血を注いできたのだろう。汗が飛び散る様すら美しい。

 ひと通りの型を終えると、彼は息一つ乱さずに振り返った。


「こんな感じだ。……やってみるか?」


 彼はもう一本の木剣を俺に差し出した。


「ああ」


 俺は受け取った。

 ――ズシリ、と重い。

 ただの木の棒だと思っていたが、鉛でも入っているのかと思うほど重い。

 片手で持とうとしたが、手首が悲鳴を上げ、慌てて両手で握り直した。


「おっと……」


 切っ先がふらつく。

 構えようとするが、重心が定まらない。

 頭では「シュッ」と振るイメージができているのに、身体がついていかない。

 俺はなんとか剣を振り上げたが、重力に負けてドスンと地面を叩いてしまった。


「……重すぎるだろ、これ」


 俺は悪態をついた。

 カインは苦笑いしながら近づいてきた。


「まだ身体強化の魔法を使っていないからだよ、ヴァン」

「身体強化?」

「ああ。お前たち魔術師は、無意識に魔力を循環させて筋力を底上げしているだろう? 今は記憶喪失の影響で、その制御がうまくいっていないんじゃないか?」


 なるほど。

 この世界の貴族は、魔法というドーピングありきで戦っているのか。

 対して、目の前の兄は。


「兄さんは、魔法を使っていないのか?」

「……ああ。僕には魔力がないからな」


 カインは自嘲気味に言った。


「だから、純粋な筋力と技術で補うしかないんだ。この木剣も、僕にとっては普通の重さだよ」


 彼は軽々と木剣を回してみせた。

 すごい。

 魔法という才能を持たずとも、努力でここまで至ったのか。

 俺は素直に尊敬の念を抱いた。

 だが、前のヴァンはこれを「泥臭い」「才能がない」と馬鹿にしていたのだろう。なんともったいない。


「……俺には無理そうだ。魔力の使い方も忘れてるしな」


 俺が木剣を返そうとすると、カインは首を横に振った。


「その剣は譲るよ。リハビリに使ってくれ」

「いいのか?」

「ああ。予備はあるし、お前が剣に興味を持ってくれたのが……正直、嬉しいんだ」


 カインは本当に嬉しそうだった。

 弟との関係改善を望んでいる、心優しい兄。

 しかし、彼は最後に少しだけ表情を引き締めた。


「ただし、周りに人がいない時だけにするんだぞ。魔力制御ができない状態で振り回すと、すっぽ抜けて誰かに当たるかもしれないからな」

「分かった。気をつける」

「それじゃ、僕は朝食に行ってくる。……またな、ヴァン」


 カインは俺の肩をポンと叩き、屋敷へと戻っていった。

 その背中は、やはり寂しげで、しかしどこか頼もしかった。


 残された俺は、木剣を握りしめた。

 とりあえず、言われた通りに素振りをしてみる。

 ブン。

 ……遅い。

 ブン。

 ……重い。

 10回も振ると、腕がパンパンになった。

 汗が滴り落ちる。

 だが、何もしていない時よりはマシだ。身体を動かしている間だけは、余計なことを考えずに済む。


 しかし、素振りなんてものは30分もやれば飽きる。

 俺はベンチに座り込み、肩で息をした。

 木剣を膝に置き、空を見上げる。

 ……寂しい。

 猛烈に寂しい。

 前世では「一人になりたい」と願っていたくせに、いざネットも娯楽もない世界で放置されると、人肌が恋しくなる。

 誰かと話したい。

 雑談がしたい。

 カイン兄さんは行ってしまったし、父上は仕事中だ。

 セバスは忙しいだろう。


 俺の脳裏に浮かんだのは、ベロニカの姿だった。

 あのクールな美人と、どうでもいい話をしたい。

 「今日の天気はいいですね」とか「その眼鏡似合ってますね」とか、そんな他愛のない会話でいい。

 あわよくば、彼女に冷たい目で見下されながら紅茶を淹れてもらいたい。


 だが、俺はすぐにその思考を打ち消した。


「……無理だな」


 俺はため息をついた。

 昨日までのヴァン・アークライトは、使用人たちにとって「恐怖の対象」だった。

 特に女性陣に対しては、セクハラまがいの言動や、理不尽な暴力を振るっていた可能性が高い。

 現に、ミナは俺を見て怯えきっていた。

 ベロニカだって、職務だから傍にいるだけで、内心では俺を軽蔑しているはずだ。

 そんな状態で馴れ馴れしく話しかければ、「また何か企んでいるのか」「今度はどんな嫌がらせだ」と警戒されるだけだろう。


 信用がない。

 マイナスからのスタートどころか、地下深くからのスタートだ。


「……まずは、無害であることを証明するしかないか」


 俺は木剣を杖代わりにして立ち上がった。

 記憶喪失という設定を利用し、生まれ変わったことを、行動で示していく。

 暴力を振るわない。

 理不尽な命令をしない。

 そして、できれば「ありがとう」と「ごめんなさい」を言う。

 幼稚園児レベルの目標だが、今の俺にはそれが必要だ。

 ベロニカや使用人たちが、俺に対して警戒心を解いてくれれば、この屋敷での生活はもっと快適になるはずだ。

 そうすれば、死亡フラグ回避への協力も得やすくなるかもしれない。


 俺は決意を新たにした。

 地味だが、確実な一歩を。

 

 そうして、俺は木剣を引きずりながら、自分の部屋へと戻った。

 廊下ですれ違うメイドたちに、極力威圧感を与えないよう、半開きの目を少しだけ見開き、会釈をしてみる。

 メイドたちは幽霊を見たような顔で固まっていたが、悲鳴を上げられなかっただけ進歩だろう。


 そんな地道な「ホワイト化作戦」を続けて、3日後。

 俺の平穏な日々に、転機が訪れる。


 昼下がりの昼寝中、部屋のドアがノックされた。

 入ってきたのはベロニカだ。

 彼女の手には、豪奢な装飾が施された一通の封筒が握られていた。

 銀の盆に乗せられたそれは、まるで爆弾のように重々しい存在感を放っていた。


「ヴァン様。王立魔導学園より、『魔力測定の儀』に関する召喚状が届きました」

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『死に枠』の貴公子は、生存ルートを模索する @DTUUU

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