【第四話】公的決着
王家主宰の国際夜会が終わった翌朝、王城の窓は雨上がりの空を映していた。濡れた庭の石畳が淡く光り、昨夜の音楽の残響だけが、まだ廊下の隅に薄く漂っているようであった。
秘密選抜という名を持たぬ観察は、拍手が止んだところで終わらない。むしろ静けさの中でこそ、判断は骨になる。評議会の老臣たちは早朝から集められ、王妃の側近と外務の高官を交え、上階の小会議室で記録を突き合わせていた。
ヴェレッド・グラーブは王太子として出席しながら、ひとりの男として黙っていた。口を挟めば偏りになる。黙れば、偏りが見える。彼はその矛盾を噛みしめ、指先で封蝋の割れ目をなぞっていた。
机上には、候補たちの振る舞いを記した札が並ぶ。北方連盟の輪で誰が誰の言葉を拾ったか。海洋国家の輪で誰の失言を誰が救ったか。幾つもの観察が刺繍の裏糸のように絡み合い、やがて一枚の布へ収束していく。
老臣が最後の札を指で押し、揃える。ヴェレッドは封蝋の裂け目をなぞりながら、彼女の名が読み上げられる音を静かに待った。
「結論は早い」
声は乾いているのに、重い。
「オクホワン嬢は、各国の習俗に通じているだけではない。相手が何を守り、何を誇りにしているかを読み、場の骨を折らぬ。王太子妃に必要なのは、舞台の中央で光ることではない。舞台を崩さぬことだ」
外務の高官が頷いた。
「海洋国家の試問では、クムディニ嬢が一拍遅れた。だが遅れた理由が浅学ではないと分かる。問いの罠を見抜き、慎重になった。ただ、慎重さを言葉へ変える刃がまだ細い」
王妃の側近が札に印を付け、静かに言う。
「クムディニ嬢は華を持つ。華は時に盾にもなる。けれど盾を振り回す者は、周囲を傷つける。昨夜、彼女は傷つけそうになって踏みとどまった。そこに芽がある」
芽。言葉が出た瞬間、ヴェレッドの胸の奥が微かに緩んだ。芽がある。ならば彼女は潰されずに済む。
老臣が結びの札を置き、室内の空気を確定させる。
「候補の観察は終わった。王家の意向を、形にせよ」
ヴェレッドは息を吸い、王太子の声を作った。
「承知した。本日、候補者をそれぞれ呼び、正式な告知へ進める」
決定が決定として降りるとき、言葉は少なくなる。
昼前、ハルツィット・オクホワンは王城の小礼拝室の隣室へ招かれた。扉の前で侍女が離れ、彼女ひとりが静かな廊下に立つ。耳を澄ませば、遠い中庭の噴水が細く鳴っている。
ハルツィットは眼鏡に表情を隠したまま、扉を叩いた。
「入れ」
ヴェレッドの声である。入室すると、窓際に王妃の側近、卓の向こうに評議会の老臣が数名、そして立ったままのヴェレッドがいた。彼は昨夜の夜会とは違い、肩章のない簡素な上衣を着ている。公と私の境目が薄い装いだ。
「オクホワン嬢」老臣が言った。
「昨夜の夜会、各国との応対は見事であった」
「身に余るお言葉です。わたくしは、学んだ通りに振る舞ったまででございます」
ハルツィットの声は整っている。整いすぎている。その整いを崩すまいとする意志が、逆に室内の空気を張らせた。
王妃の側近が一歩進み、柔らかい声で問う。
「あなたにひとつ、確かめておきたいことがあります。あなたは王太子妃の座を、職務と呼びましたね」
「はい」
「職務であるならば、職務に必要なのは、知識と礼節だけですか」
問いは優しい形をしているが、刃がある。ハルツィットは一拍置き、言葉を選んだ。
「知識と礼節は土台でございます。土台の上に、判断と忍耐が要ります」
「では、心は」
室内の温度がわずかに変わった。心。ハルツィットの指先が袖の内で微かに震えた。震えを隠すために、彼女は呼吸を数えた。
「……心は、職務の妨げになり得ます」
老臣が「ほう」と短く言い、ヴェレッドが眉を動かした。
王妃の側近はすぐに否定しない。窓の外の庭へ一度視線をやり、次の問いを置く。
「妨げになり得る。けれど妨げにならぬ心もあります。あなたが昨夜、海洋国家の輪を救ったとき、あなたの心はどこにありましたか」
ハルツィットは黙った。答えれば職務の仮面が薄くなる。黙れば仮面だけが残る。彼女は自分の中の重さを推し量り、ようやく言った。
「王家の損を防ぐために」
昨夜と同じ言葉だった。けれど今は、言葉の端に温度がある。
ヴェレッドが、静かに一歩前へ出た。
「それだけか」
ハルツィットは視線を上げ、眼鏡越しに彼を見た。碧い瞳がまっすぐで、逃げ場がない。彼女は逃げない代わりに、盾を少しだけ下ろした。
「……わたくしは、恥をかく者を見捨てられません」
そのひと言が、室内に小さな波を立てた。老臣たちは顔に出さない。王妃の側近が目を細め、頷く。
「あなたは、勝ちを奪う者ではなく、場を守る者だ」
そして老臣が宣言する。
「オクホワン嬢。評議会は、王家の意向に従い、あなたを王太子妃として推挙する。婚約の白紙は撤回される。正式な婚礼の宣言は、
ハルツィットの喉が動いた。息が詰まる。喜びではない。怖れだ。選ばれる怖れ。選ばれることで、職務だと言い切って自分を守る言い訳を失う怖れ。期待される怖れ。完璧であり続けねばならぬ怖れ。
ヴェレッドが、彼女にだけ聞こえるほど低い声で言う。
「大丈夫だ。君はひとりではない」
その言葉が胸の奥に触れた。触れた瞬間、熱が上がり、彼女はそれを押し戻すように目礼した。
「……承知いたしました。わたくしは、王家のために務めます」
室内の者たちは頷き、手続きの話へ移った。ハルツィットはそれを聞きながら、心のどこかで別の声が小さく鳴っているのを感じた。王家のために。けれど、彼の隣に立ちたい。わたくしは、その欲をまだ名前にできない。
同じ頃、ショシャナ・クムディニは別の控え室へ呼ばれていた。部屋は白い花のように清潔で、窓から差す光が床に四角い影を落とす。そこにいるのは外務の高官と、側近アドアド・カホルであった。
ショシャナは背筋を伸ばし、微笑みを作った。負けた者の微笑みにしてはならない。
「クムディニ嬢」外務の高官が言った。
「昨夜の応対、総じて高評価である。だが、最終の推挙はオクホワン嬢となった」
ショシャナの胸が一度だけ沈んだ。沈んだが、割れない。袖の下で拳を握ると、掌にまだ三日月の痕が残っていた。痛みが遅れて熱になり、熱が思考を冷やす。
「承知いたしました。わたくしの力が及ばなかったのでしょう」
「及ばなかった、ではない」
アドアド・カホルが言った。声は感情を抑えている。抑えているからこそ誠実だ。
「あなたは問いの罠を見抜いた。見抜いたがゆえに言葉を選びすぎた。王太子妃の座は、今のあなたにとって最も危険な椅子だ」
危険。ショシャナは眼を細めた。侮辱ではない。忠告だ。彼女はその忠告を胸の奥で咀嚼する。
外務の高官が続ける。
「あなたには別の役目を用意したい。海洋国家との交易折衝に関する補佐役だ。学園の才を宮廷へ繋ぎ、外交の現場で鍛える」
ショシャナの橙の瞳が揺れた。王太子妃ではない。だが王国の中心には触れられる。むしろ、触れ方としては自分に向いているかもしれない。
「……それは、わたくしへの慈悲ですか」
「慈悲ではない」アドアドが即座に言った。
「必要だ。昨夜のあなたの遅れは浅さではない。慎重さだ。慎重さは武器になる。場を壊さぬ武器だ」
ショシャナは深く息を入れ、吐いた。拳をほどく。掌の三日月は薄く残ったままだ。
外務の高官が最後に付け加える。
「そしてもうひとつ。今夕、王太子殿下が公的宣言を行う。その後、あなたの立場は噂の標的になり得る。あなたが望むなら、王妃の名であなたを守る」
守る。守られる。昨夜、ハルツィットが言った言葉が蘇る。王家の損を防いだだけ。あれは守りの言葉だった。
ショシャナは視線を窓の外へ逃がし、庭の雫の光を一度だけ見た。
「守りは不要ですわ。わたくしは自分の歩幅で立ちます。ですが……」
彼女は一度だけ言葉を止め、言い足す。
「ですが、オクホワン嬢に、ひと言申し上げたいことがあります」
夕刻、王城の大広間は昼とは別の顔を見せた。国際夜会の翌日に行われる閉幕の儀礼は、各国使節の前で王家の意向を整然と示す場である。ここで言葉を誤れば、友好はすぐに牽制へ変わる。
高い天井には旗が吊られ、壁には刺繍の垂れ幕が下がる。床の光沢に集う者たちの色が映り込み、色とりどりの花束が一枚の鏡の上で揺れているようであった。
ヴェレッドは中央壇へ上がり、王家の儀礼通りに挨拶を終えた。通訳が控え、各国語が順に重なる。彼の声はよく通り、しかし硬すぎない。王太子としての完成度が、場を安定させる。
そして、儀礼文の最後に差し掛かったところで、彼は一瞬だけ息を置いた。その一拍が、広間全体を黙らせた。
「本日、王家の内々の手続きを終えたことを、ここに告げる」
彼は視線を動かし、候補たちが並ぶ位置を見た。ハルツィットは眼鏡に表情を隠したまま、しかし背筋は揺れない。ショシャナは微笑みを作り、しかし瞳の奥で炎を静めている。
「オクホワン家の令嬢、ハルツィット・オクホワンを、わが婚約者として改めて迎える。将来の王太子妃として、王家は彼女を推挙し、評議会もこれを承認した」
言葉が広間へ滑り出た瞬間、空気が変わった。拍手が遅れて起こり、波のように広がる。各国使節の表情は読み取れぬまま整い、しかし目の端が互いを測り始める。宣言は外交である。祝福は儀礼である。その裏で計算が動く。
ハルツィットはゆっくりと一歩前へ出て、所定の礼を取った。動作は完璧だ。だが完璧の中に、昨夜にはなかった温度がある。わずかに深い目礼。ほんの少し遅い呼吸。彼女は鎧の上から、息をしている。
「身に余るご推挙を賜り、恐れ入ります」
ハルツィットは一礼し、息を整えて続けた。
「わたくしは王家に仕える家の娘として、学びを怠らず、諸国との友好に尽くします。至らぬところは多々ございますが、殿下のお側で務めを果たす所存です」
ヴェレッドは頷き、礼を返した。その碧い瞳が、瞬間だけ柔らかくなる。彼はそれを公の顔で隠し切れず、しかし隠し切れぬ程度が、かえって王家の安定を示すようでもあった。
儀礼の進行が次へ移り、各国の献辞が続く。だが広間の視線は、ふたりへ何度も戻る。噂はすでに走り、勝者と敗者の型を作ろうとする。型は残酷だ。
献辞が一段落した頃、ショシャナが所定の位置から一歩前へ出た。許可なく出れば無礼である。だが彼女は儀礼に則った合図を待ち、王妃の側近から頷きを受けている。用意された一歩であった。
「殿下」
ショシャナの声はよく通る。響くが、尖らない。
「クムディニ家の令嬢ショシャナ・クムディニ、申し上げます」
広間が静まった。負けた者が何を言うかで、家の品格が決まる。
「昨夜の夜会にて、オクホワン嬢は、王家の場を守るために、わたくしを救いました。わたくしはそれを、今ここで認めます」
空気が一瞬だけ止まり、次にざわめきが起こる。認める。公の場で競争相手を認めることは、自分の価値を下げる危険もある。だがショシャナの声に揺れはない。
「わたくしは王太子妃の座を望み、学び、競いました。それは今も恥ではありません。けれど、王家のために最もふさわしい方が選ばれたのなら、わたくしはその決定に従い、王国のために働きます」
彼女は深く礼をした。礼は美しい。美しさは、負けの装飾ではなく、矜持の形であった。
老臣たちが互いに視線を交わし、王妃の側近が小さく息を吐く。危うい場面を、彼女は品格へ変えた。
ショシャナが顔を上げ、ハルツィットへ向けて一度だけ微笑む。微笑みは挑戦ではない。刃を鞘へ納める合図である。
ハルツィットは眼鏡に表情を隠したまま、しかし確かに頷いた。自分でも意外なほど、頷きが自然に出た。勝った者の余裕ではない。救われた者の礼だ。
儀礼が終わり、広間が解ける。使節たちは挨拶を交わしながら散り、楽の音が控えめに流れ始める。花束がほどけるように人の輪がほどけ、王城はいつもの石の顔へ戻っていった。
ハルツィットは控えの回廊へ下がり、窓辺で呼吸を落ち着かせた。胸がまだ早い。喜びと怖れが混ざり、どちらにも名札が付けられない。
背後から足音が近づき、止まる。
「お疲れだったな」
ヴェレッドの声である。彼は公の場の仮面を外し切らずに、しかし声だけは少し軽い。
「お疲れさまでございます、殿下」
「……殿下、か」
彼は苦笑した。呼び方はまだ変わらない。変えられない。その不器用さが、彼らの距離の証明でもあった。
ハルツィットは窓の外へ視線を逃がし、言う。
「わたくしは、先ほどの宣言を、受け止め切れておりません」
「怖いのか」
「……はい」
短い肯定が、ほどけた糸のように震えた。
「わたくしは職務だと言い切って、自分を守ってきました。けれど、選ばれた今は、守り方を変えなければなりません」
ヴェレッドは黙って聞いた。黙りは避難ではなく、受け止めの形である。
「君は、どう守りたい」
ハルツィットは答えを探し、見つけた言葉をそのまま出した。
「王家を。殿下を。……そして、わたくし自身を」
自分自身、と言った瞬間、胸の奥が熱くなる。自分を守ることを、彼女は許していなかった。許した途端、涙が喉の奥へ上がりそうになり、彼女は眼鏡に表情を隠したまま唇を結んだ。
ヴェレッドが、ほんの少しだけ近づく。半歩ではない。同じ高さの距離である。
「それでいい」
彼は言った。
「君が職務だと言い切るなら、俺は君の職務を守る。だが君が人であるなら、俺は君の心も守りたい」
言い過ぎた、と彼の目が言った。だが引っ込めない。その不器用さが、今は痛くない。
ハルツィットは小さく頷いた。頷きの中に、昨夜の笑みの残り香が混じる。
回廊の向こうから、別の足音が近づく。ショシャナである。彼女は周囲に侍女を伴わず、ひとりで歩いてきた。自分の歩幅で立つと言った通りだ。
「殿下、オクホワン嬢」
彼女はふたりへ礼をし、視線を真っすぐに置いた。
「先ほど申し上げ損ねました。わたくしは外務の補佐として、海洋国家との折衝に携わることになりました」
「そうか」ヴェレッドが言う。
「力を貸してくれ」
「ええ。貸しますわ」
ショシャナは微笑み、それからハルツィットへ向き直った。
「……貴女の強さは、飾りの外には出にくい」
言いかけて、彼女はほんのわずかに唇を噛み、言い直す。
「昨夜、貴女は誰より目立たずに、誰より場を支配しました。わたくしは、それを認めます」
ハルツィットは一拍置き、丁寧に返した。
「恐れ入ります。クムディニ嬢の華は、場を明るくします。わたくしには出来ぬことです」
「出来ぬのではなく、選ばなかったのでしょう」
ショシャナの瞳が揺れ、しかし揺れを隠さない。
「今はそれで結構です。けれど、いつか貴女が必要とするなら、わたくしは貴女の味方になります」
味方。言葉が回廊に残る。添え花のように静かで、だからこそ確かな一輪である。
ヴェレッドはふたりを見比べ、口元を誰にも見えぬ角度で緩めた。圧勝とは、相手を潰すことではない。勝ってなお、場を守ることだと、彼は今さらのように腑に落ちた。
ハルツィットは眼鏡に表情を隠したまま、しかし声だけは温かく言った。
「ありがとうございます。わたくしも、クムディニ嬢の働きを頼りにいたします」
ショシャナが頷き、踵を返す。足音は軽い。負けた者の重さがない。
回廊にふたりだけが残る。窓の外で雲が切れ、淡い光が庭の水滴を照らした。光の粒が跳ね、まるで明日へ向けた小さな合図のようであった。
ヴェレッドは言う。
「今夜から忙しくなる」
「はい。ですが」
ハルツィットは少しだけ間を置いた。
「わたくしは、昨夜より息がしやすいのです」
ヴェレッドが小さく笑った。その笑いは王太子のものではなく、ただの青年のものだ。
「なら、息の続く限り、共に歩こう」
ハルツィットは頷いた。半歩後ろではない。並ぶのはまだ怖い。けれど、並びたいと願う自分を、今日だけは責めずにいられた。
次話:嵐が去ったあと、ある令嬢の一言から『小さな計画』が動き出す。
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