【第三話】夜会選抜
王家主宰の国際夜会は、季節の挨拶の皮をかぶった戦場である。名目は友好、実態は牽制。杯の音の裏で条約が動き、笑みの角度で商路が決まる。貴族学園ゼル・プラヒームの生徒たちにとっても、それは卒業前に与えられる最大の実地試験であった。
婚約白紙の通達から半月、ハルツィット・オクホワンは『候補』に戻っていた。建前としては平等、実態としては残酷。誰の席でもあり得るという言葉は、誰でも蹴落としてよいという免罪符にもなる。
王城の控えの間で、ハルツィットは鏡の前に立っていた。濃紺のドレスは変わらず簡素で、飾りは最小。眼鏡もいつも通りだ。けれど結わえた髪の輪郭が、わずかに柔らかい。婚約者の任を解かれてから、彼女の指先は禁欲の鎧をほんの少し緩める術を覚えた。
侍女が胸元の留め具を確かめ、最後に息を潜めて一礼する。
「オクホワン嬢、準備は整っております」
「ありがとう」
礼を言う声が、以前より薄く温かい。侍女は目を丸くし、それを隠すように背筋を正した。
扉の外に足音が近づき、止まる。
「入ってもいいか」
ヴェレッド・グラーブの声である。
「どうぞ」
入ってきた王太子は、真紅のバラの飾りを胸にしていなかった。代わりに衣の襟元に小さな金の留め具が光る。夜会の主催者としての装いは整っているが、どこか私的な慎みも見える。
ヴェレッドの視線がハルツィットに置かれ、そこで止まった。褒め言葉を探している顔だと分かる。探すほど、口にする重さを計っているのだ。
「……そのままでも、十分だ」
慎重な言い回しが、かえって不器用である。
「殿下のお気遣いに感謝いたします。わたくしは、務めを果たします」
ハルツィットはいつもならそこで終えた。だが今日は、その次の一拍が続いた。
「……それと」
自分で驚いたように唇がわずかに動く。
「以前より、息がしやすくなりました」
ヴェレッドは瞬きをした。息がしやすい。職務の言葉ではない。
「そうか」
それだけで、彼の声の底が柔らかくなる。
そこへ第三者の影が差し込み、ふたりの間の空気が引き締まった。側近アドアド・カホルが、儀礼の角度で頭を下げた。
「殿下、各国使節の到着が整いました。候補の観察も、所定の位置にて」
観察。選別の正体が、言葉として形を持つ。
ヴェレッドは頷き、ハルツィットに視線を戻した。
「今夜は、誰のためでもない。君自身のために立ってみろ」
命令でも慰めでもなく、頼みの形で差し出された。ハルツィットは返答を作ろうとして、作れない。眼鏡に表情を隠したまま、目礼だけを返した。
ヴェレッドが先に歩き出す。ハルツィットはその半歩後ろへついた。
以前と同じ位置。だが今は、自分で選んだ距離である。
大広間へ向かう回廊は長い。壁には歴代王の肖像、天井には装飾、足元には磨かれた石。灯りが揺れ、影が重なり、歩く者の身分を薄く浮かび上がらせる。
扉が開くと、香りと音が波のように押し寄せた。異国の香、香辛料、ワイン、花。弦の調べ。靴の音。挨拶の連鎖。
外国使節団の先頭が王家へ深く礼をする。通訳が一歩下がり、相手の言葉が王国語へ滑り込む。夜会は翻訳の上で成り立つ。翻訳はしばしば、意味を隠す盾にもなる。
ハルツィットの胸に、冷たい落ち着きが満ちた。ここは学園の廊下ではない。言葉の刃を振り回す者は、刃ごと折られて消える。
上階の格子回廊には影が並び、杯を取らぬまま視線だけが動いていた。評議会の老臣、王妃の側近、外務の高官。彼らは笑わず、瞬きの回数さえ惜しむように候補を測る。
「北方は良い」
老臣の囁きが漏れる。
「海は、まだ」
王妃の側近が手元の札に印を付け、次の瞬間には指を離した。
視線の先で、ショシャナ・クムディニが見えた。淡い色のドレスが白百合のように清楚で、刺繍の光が控えめに主張する。取り巻きは少なく、笑みは上品に整えられている。だが橙の瞳だけが、灯りとは違う熱を隠し切れていない。
ショシャナはハルツィットを見つけると、一瞬だけ顎が固まった。婚約白紙の通達後、彼女は勝ちに近づいたはずだ。なのに、ハルツィットがこの場に立っている。
それが意味することを、ショシャナは読み取る。今夜は公開の舞台ではない。王家が主催し、王家が観察する。舞台の中央は、王家の都合でいつでも暗転する。
ヴェレッドは広間の中央で挨拶を終えると、自然な流れで『学園の代表』たちを各国の輪へ散らした。誰がどの輪へ入るかは偶然に見える。だが配置は、アドアド・カホルの持つ小さな札と、王太子の一瞥で決められていく。
ハルツィットは北方連盟の使節団へ導かれた。寒冷地の習俗に詳しい者が試される輪だ。対してショシャナは海洋国家の輪へ。交易の言葉が飛び交う場所で、華と機転が試される。
ハルツィットは北方の老使節に対し、王国語ではなく相手の母語で挨拶した。通訳の眉が跳ね、老使節の口元がほころぶ。
「わたくしどもの国では、今宵のような席で暖を取る香木は、冬に備える誓いの印と伺っております」
老使節は遠い雪原を思い出すように目を細めた。
「よく知っている。だが我らの香木は、単なる暖ではない」
「ええ。出征の前、家族が木片に願いを刻むと聞きます」
願いの刻み方、刻む言葉の禁忌、火にくべる順序。話題が深くなり、周囲の若い随員まで耳を傾ける。会話は刺繍のように広がり、相手の誇りを傷つけずに自国の誠意を差し出す形へ整えられていく。
ハルツィットの内側で、何かがほどけた。学ぶべきことを学んだ、それだけだと自分に言い続けてきた。だが今、相手の表情が和らぐたび、胸の奥が小さく温かくなる。役に立つことが嬉しいという感覚は、職務の名で隠してきた感情のひとつだった。
その頃、海洋国家の輪では、ショシャナが笑みを作っていた。鮮やかな逸話を挟み、流行の舞踏曲の話題で場をほぐす。話術は見事で、社交の技として非の打ち所がない。
しかし、海洋国家の若い外交官がふと、針の先のような問いを投げた。
「王国では、嵐の季節に港の女神へ何を捧げますか」
儀礼に見せかけた試験である。誤れば『海を知らぬ国』と笑われ、正確すぎれば『他国の信仰を利用する』と嫌われる。
ショシャナの頭の中で答えが並ぶ。塩、乾いた花、香木、灯りをひとつ減らすしきたり。けれど『女神』がどの女神を指すのか確信が持てない。海の名はひとつではない。港もまたひとつではない。
「……感謝を」
口にした瞬間、自分で薄いと分かった。外交官の笑みがわずかに固まり、周囲の会話が一拍だけ途切れた。
舞台だと、彼女は言った。観客は拍手も噂も投げると。今、その観客が無言で背を向けかけている。
ショシャナの胸がきしんだ。成功の手触りが手から滑り落ちる恐怖が、指先を冷やす。
そのとき、輪の外側から声が入った。
「嵐の季節なら、女神へ捧げる前に港の家々が窓を閉め、灯りをひとつ減らします」
ハルツィットだった。北方の輪を抜けたわけではない。外交官同士の流れの中で、偶然に近い角度で海洋国家の輪の縁へ寄っていた。
ショシャナが振り向く。眼鏡の向こうの濃い緑が、今宵の灯りで淡く透けている。
「灯りを減らすのは、海が怒る夜に『人の欲を見せない』ためと伺っております。捧げ物は塩と乾いた花が多いそうです。香りが強いものは風に散り、逆に港を荒らすと」
海洋国家の外交官が驚き、次に笑う。
「乾いた花。そう、我らは塩と乾いた花を供える」
ショシャナは喉の奥が熱くなるのを感じた。助けられた。助けられるなど、望んでいないはずだった。勝つためにここへ来た。奪うと宣言した。
なのに胸の底で別の感覚が動く。屈辱ではない。違う。
ハルツィットはショシャナの方を見ず、輪の中心へも踏み込まない。あくまで話題の補足として場を救い、救った事実を誇示しない。
それがショシャナにはいっそう刺さった。華やかさは武器だと信じてきた。だが今、武器ではない静けさが、場の調和を支配している。
上階の格子回廊で、評議会の老臣が小さく頷いた。王妃の側近が札にもうひとつ印を付ける。
「守り方が見える」
短い評価が、杯の音より冷たく響いた。
輪が次々に入れ替わり、夜会は深まる。各国の言葉が混じり、杯の数が増え、音楽が一段華やぐ。
ヴェレッドは広間の端で、候補たちを見ていた。誰に視線を向けても笑みを崩さない。だが目の奥の判断は容赦なく鋭い。傍らでアドアド・カホルがささやく。
「殿下、老臣たちの印は、ほぼ固まりつつあります」
「早いな」
「今夜は、知識よりも守り方が見えました」
守り方。相手の面子、自国の品位、場の空気。何を守れるかが、王太子妃の資質になる。
ヴェレッドの視線がハルツィットに置かれる。彼女は会話の端に立ち、誰かを立て、誰かの失言を拾い、場を整えていた。以前のように人形めいた遠さはない。小さく頷く角度に、相手への敬意が宿っている。
北方の老使節がふと、乾いた冗談を添えた。
「雪原では、言葉が凍る。凍った言葉は春まで解けぬ」
それに若い随員が真顔で返す。
「では春は交渉に向きませんね」
一瞬の沈黙のあと、老使節が声を立てて笑った。
そしてふと、ハルツィットも笑った。ほんの一瞬、眼鏡の影が薄くなり、胸の奥が透けるような笑みである。
ヴェレッドの口元が、誰にも見えぬ角度で緩んだ。
ショシャナはその瞬間を見てしまった。王太子の笑みが、誰へ向けられたか。舞台の照明が、どこを照らしたか。
胸が冷え、次いで熱くなる。勝ちたいという衝動が遅れて燃え上がる。だが燃え上がった火に、別の湿り気が混じる。
助けられた。救われた。
その事実が、ショシャナの誇りを傷つけるのではなく、揺らがせる。揺らぎは恐ろしい。だが揺らぎは、硬い殻の内側へ空気を入れる。
夜会の終盤、王妃の側近が候補たちを一列に集めることはなかった。選抜は公開されない。誰もが成功したと言えるように、誰もが失敗したと言い切れぬように。王家は噂の燃料を管理する。
候補たちは最後の礼を終え、それぞれの控え室へ引き上げていく。
ショシャナは回廊の曲がり角で足を止めた。追い風のような音楽が遠ざかり、代わりに自分の呼吸が耳に近づく。
そこへ、控えめな足音が重なった。
ハルツィットが、いつもの歩幅で近づいてくる。眼鏡に表情を隠しているのに、今夜はその奥に何かがあると分かった。
「クムディニ嬢」
呼びかけは丁寧で、余計な感情がない。だからこそショシャナの胸が波立つ。
「先ほどは……助け舟など、頼んでおりませんわ」
口にした瞬間、幼く響いたと自覚した。
「存じております」
ハルツィットは止まらず、すれ違いざまにひと言だけ残す。
「けれど、王家の場で恥をかくのは、あなたではなく王家です。わたくしは、その損を防いだだけです」
それは職務の言葉に似ていた。だが職務の形を借りて、相手を傷つけぬよう角を丸めてある。
ショシャナは反射で言い返そうとし、喉が詰まった。言い返す言葉を持たない。
ハルツィットが去っていく背を見送りながら、ショシャナの橙の瞳が揺れた。
奪う。そう決めた。
だが奪うべきものが、椅子だけだと断言できなくなっている。
回廊の窓から夜風が入り、花の香が一筋だけ流れた。その香は甘くも強くもない。添え花のように静かで、だからこそ残る。
ショシャナは拳を握った。爪が掌に食い込み、痛みが遅れて熱になる。
ゆっくりとほどくと、手のひらに三日月の痕が残っていた。
揺らぎを否定せず、しかし負けも認めない。
その夜、秘密選抜の札は、見えない場所でひとつ傾いた。傾いた音は誰にも聞こえない。だが傾きは、やがて世界の形を変える。
次話:下される決定の重みが、三人それぞれの矜持を試していく。
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