【第五話】変身作戦

 婚約が改めて確定してから半月が過ぎ、王城の回廊に春の匂いが戻り始めたころ、ハルツィット・オクホワンは自室の鏡台に向かい、いつもの眼鏡を外して布で拭いていた。

 曇りを払えば、表情が隠れる。隠れれば、務めは果たせる。そうやって自分を保ってきた。

 だが婚約が改めて確定した今、王城の廊下でさえ視線が変わった。礼は丁寧になり、距離が慎重になる。祝意の仮面の裏に、好奇と期待が織り込まれているのを、眼鏡越しでも読み取れた。


 扉が二度、控えめに叩かれる。侍女ではない打ち方だ。

「オクホワン嬢、いらっしゃいます?」

 聞き覚えのある澄んだ声に、ハルツィットは背筋を正した。

「はい。どうぞ」

 入ってきたのはショシャナ・クムディニであった。プラチナブロンドは真っすぐに落ち、橙の瞳は相変わらず炎の芯を隠さない。だが、その炎は今、敵意ではなく熱意の方へ向いている。

「お邪魔しますわ。突然ですが、貴女に緊急の用件がございます」

「差し支えがございましたか」

「ございます。大ありです」

 ショシャナは扇を閉じ、言葉を選ばずに切り出した。

「貴女が地味だからわたくしのように勘違いする者が現れるのです。王妃には他を圧倒する華も必要なのですよ!」

 あまりに堂々と言われ、ハルツィットは瞬きをした。叱責なのに悪意がない。むしろ焦りの匂いがする。

「……華、ですか」

「ええ。貴女は中身で勝てる。でも世の中は、箱の刺繍も見るのです」

 ショシャナはにんまりと笑った。礼儀の笑みではなく、企みの笑みである。

「外見改造計画、実行いたします」

 ハルツィットは反射で「必要でしょうか」と言いかけ、飲み込んだ。必要と口にすれば、また職務の盾へ逃げる。逃げ道を今は、少し塞いでおきたい。

「わたくしは、そうした装いの知識がないわけではありません。ただ……」

「似合わないと?」

 ショシャナが先回りして言う。

 ハルツィットは視線を落とした。鏡台の上には薄い化粧箱がある。王家の式典用に学んだ品だ。色の選び方も、光の置き方も知っている。知っていて、使わない。使わないことが安全だからだ。

「似合わないと、思い込んでおります」

「思い込みですわ」

 ショシャナは椅子の背に手を置き、こちらを見下ろした。

「貴女はヒナギクみたいに可憐な顔をしているのに、どうして石みたいな枠で囲うのです?」

 石みたいな枠。眼鏡のことだ。ハルツィットは眼鏡を指先でつまみ、膝の上へ置いた。途端に視界がぼやけ、輪郭が柔らかく滲む。

「視力が弱いのです」

「だからこそ。眼鏡の影を消しましょう」

 ショシャナが扉の外へ合図すると、控えていた女官が小箱を抱えて入ってきた。箱は真珠色で、蓋の端に魔道紋が刻まれている。

「王妃付きの魔道具師に頼みましたの。『瞳飾り』ですわ」

 箱の中には、透明な薄片が二枚、朝露のように光っていた。薄片は指先に乗せると羽ほど軽く、縁に細い銀の糸が走っている。

「目に……入れるのですか」

「入れる、ではなく、乗せますの」

 ショシャナは言い換えに気を配った。

「虹彩の上にふわりと寄り添って、光を整える。視界も正しく戻し、ついでに色も澄ませる。眼鏡の影を作らないための魔道装身具です」

 女官が手袋をはめ、短い詠唱で薄片を起こした。薄片はふわりと宙へ浮き、光の輪をまといながらハルツィットの瞳へ近づく。

 恐怖が喉に上がり、ハルツィットは息を止めた。

「怖いですか」

「少しだけ」

「少しなら上出来です。わたくしは、もっと怖かった」

 ショシャナの声に、妙な正直さが混じった。夜会で助けられた記憶が、ふたりの間に見えない橋を架けている。

 薄片が瞳に触れた。冷たさはなく、透明な水が表面を撫でたような感触だけが残る。次の瞬間、ぼやけていた世界が刺繍の線のようにくっきりした。

 鏡に映る自分の瞳が、いつもより明るく見えた。濃い緑の底に、澄んだエメラルドが顔を出している。

「ほら」

 ショシャナが満足げに頷く。

「貴女の目は、隠すには惜しい色ですわ」

 その言葉に、胸の奥がひとつ温かくなった。褒め言葉を受け取ることに慣れていない。受け取ると、指先が落ち着かない。

「次は髪です。きっちり結うのを、少しだけやめましょう」

 ショシャナは迷いなくハルツィットの背へ回り、結い紐をほどいた。ハニーブラウンの髪がほどけ、肩へ落ちる。長く押さえつけていた流れが、ふわりと空気を含んだ。琥珀色の風が首筋を撫でたように、軽い。

「……軽い」

「でしょう? 貴女はいつも、重いものを頭に乗せていますの」

 女官が櫛を通し、緩い編み込みで左右をまとめた。きちんと縛るのではなく、整えながら遊ばせる。鏡の中の自分が、少しだけ知らない人に見える。

「化粧は控えめに。ですが光を入れます」

 ショシャナは小箱を開き、淡い色の粉と薄い紅を並べた。

「学園で習ったでしょう? 式典の化粧は、顔を塗るのではなく、相手に読ませるためです」

「存じております」

「なら、今夜は読む相手がひとり増えますわ」

 相手。言われなくても分かる。ヴェレッドの顔が浮かび、ハルツィットは視線を逸らした。それでも頬が熱い。

 頬に薄く色が乗る。唇に淡い艶が宿る。目元は強くしない。ただ、瞳の縁に光が溜まりやすいよう影を少しだけほどく。鏡の中で、表情の揺れが隠せなくなっている。

 そこへ扉の外で足音が止まった。

「入るぞ」

 王太子の声である。

 ハルツィットは反射で立ち上がりかけ、ショシャナが肩を押して座らせた。

「座ったままで。今はお客様ではなく、贈り主です」

 扉が開き、ヴェレッド・グラーブが入ってきた。金髪碧眼の姿はいつものように整っているのに、目だけが落ち着かない。目が、ハルツィットの顔で止まり、次に外れ、また戻る。

 彼の手には長い箱があった。箱の蓋に王家の封蝋はなく、代わりに真紅のバラの刺繍が一輪、控えめに縫い付けられている。

「遅くなった。……受け取ってくれ」

「殿下、これは」

「婚約者として、ではなく」

 彼は言葉を探し、言い直した。

「君のために選んだ」

 その言い方が、胸の奥へ素直に落ちた。

 ショシャナが箱を受け取り、目の前で蓋を開ける。中にはロータスピンクを地に、淡い金糸の刺繍が散るドレスが収まっていた。花弁の輪郭は鋭すぎず、光は過剰ではない。けれど遠目に見れば、確かに華が立つ。

「まあ」

 ショシャナが声を上げた。

「殿下、やりますわね」

「意見は聞いた」

 ヴェレッドが少しだけ口元を緩める。聞いた、というのはショシャナの助言を取り入れたという意味だろう。

 ハルツィットはドレスを見つめ、喉が詰まった。今まで贈られてきたドレスは、自分が選んだ地味な色味だった。目立たぬ安全の色。けれどこれは違う。贈り主が相手の姿を想像して選んだ色だ。

「……恐れ入ります」

 礼の言葉が先に出てしまうのを、ハルツィットは恥じた。

 ヴェレッドは一歩だけ近づき、箱の中身を確かめるように視線を落とした。次に、わずかに咳払いをして距離を引く。

「……さすがに、ここで待つのは無作法だな」

 彼の声が、少しだけ硬い。

「準備が整ったら呼んでくれ」

 ショシャナが扇を掲げ、芝居がかった礼をした。

「ええ。殿下、廊下で深呼吸なさって」

「命じられる筋合いはない」

 そう返しながらも、ヴェレッドは扉へ向かった。去り際に一度だけ振り返り、ハルツィットを見て、すぐに視線を逸らす。

 扉が閉じる。金具が小さく鳴り、室内の空気がようやくほどけた。

「さあ、本番ですわ」

 ショシャナが扇を閉じた。

 女官たちが手際よく布を広げ、背の紐を確かめる。ハルツィットは立ち上がり、いつもの濃紺を脱ぎ、ロータスピンクの布に身を預けた。冷たい絹が肌を滑り、次第に体温で柔らかく馴染む。

 背で結び目が締まり、胸元の刺繍が呼吸に合わせて微かに動いた。

「鏡へ」

 ショシャナに導かれ、ハルツィットは鏡の前へ立った。

 そこに映ったのは、地味な眼鏡の令嬢ではない。瞳飾りが光を整え、瞳の緑を澄ませている。ほどけた髪は柔らかく肩を抱き、頬には淡い色が宿る。ドレスの刺繍が、彼女の小柄な輪郭を埋もれさせず、むしろ引き立てている。

 自分が王太子の隣に立つ姿を、初めて現実の形で受け止められた。

「……わたくし、でしょうか」

 声が震えた。

「貴女ですわ」

 ショシャナが満足げに頷く。

「隠していただけ。ほら、呼びますわよ」

 ショシャナが扉の外へ合図すると、控えていた女官が廊下へ出て声をかけた。

「殿下、準備が整いました」

 間を置かずに足音が戻り、扉が開く。

 ヴェレッドが入ってきて、次の瞬間、息を止めた。碧い瞳がまっすぐで、しかし口が何も作れない。彼は王太子としての言葉を捨て、ただの男の声で言った。

「……似合う」

 そのひと言が、胸の奥へ小さな灯を落とした。

 ハルツィットは息を吸い、逃げずに返す言葉を探した。職務の言葉ではなく、自分の言葉を。

「ありがとうございます。……嬉しゅうございます」

 敬体のままなのに、礼儀の型ではない。自分でも分かる。言ってしまった。

 ヴェレッドの口元が、誰にも見えぬ角度で緩む。

「それなら、よかった」

 ショシャナが咳払いをした。

「はいはい。ここからが本番ですわ。歩き方、扇の角度、視線の置き方。王妃には華が必要と言いましたけれど、華は暴れさせてはいけません」

「承知いたしました」

 ハルツィットは頷き、鏡の中の自分へ目を向けた。怖れが消えたわけではない。けれど怖れの隣に、別の感情が座った。選ばれることを受け止める覚悟だ。


 その夜、王妃付きの女官たちが用意した内輪の茶会で、ハルツィットはヴェレッドの隣に立った。半歩後ろではない。並ぶ距離である。

 灯りの下で刺繍は控えめに光り、瞳の緑は深い森から泉へ変わった。視線が集まるたび胸はまだ早い。だが逃げない。逃げずに、息をする。

 挨拶の輪がひとつ終わり、ヴェレッドが小声で言った。

「君は、君のままで華だ」

 ハルツィットは返事の代わりに、小さく笑った。笑い方を、初めて自分で選んだ。

 少し離れた場所でショシャナが扇の影からこちらを見ている。橙の瞳が満足げに細まり、にんまりとした。

 その笑みは勝者のものではない。協力者のものだ。花束の添え花が主役を押し上げたときの、密かな誇りの笑みであった。


finis

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地味眼鏡な女が王太子妃候補なんだが、美しく賢い女がその座を奪いに現れた 愛月撤灯(まなづきてっとう) @tettou_manazuki

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