【第二話】婚約白紙

 貴族学園ゼル・プラヒームの噂は、花粉のように目に見えぬまま広がっていく。礼法教室で起きた一件は昼のうちに誇張され、夕刻には筋書きまで添えられ、翌朝には『王太子妃候補が側妃を勧めた』という刺激だけが残った。

 だが当事者であるハルツィット・オクホワンは、噂の花びらを拾い集めることもせず、いつも通りの歩幅で廊下を渡っていた。眼鏡の奥の瞳は濃い緑のまま揺れず、結わえた髪の一本も乱れていない。崩れているのは胸の内だけだが、そこは誰にも見せぬ場所である。


 学園の図書塔は、朝の光をガラス越しに薄く落とす。ハルツィットは開館と同時に入り、重い辞典を抱えて閲覧席へ向かった。王太子妃教育の補遺に、評議会の儀礼規程、各地の慣習集。読み終えた頁の端に細い印が増えるほど、指先は乾いていく。

 学ぶのは職務のためだと、自分に言い聞かせる。王家に仕える家の娘が、王太子の隣に立つなら当然だ。そう言葉を組み立てれば、胸の熱が少しだけ冷える。

 だが冷えるのは痛みと同じだとも知っている。

 机の向かいに影が落ちた。見上げれば、白百合のような姿勢の令嬢が立っている。ショシャナ・クムディニだ。プラチナブロンドの髪が、朝の光で淡く燃える。

「お早うございます、オクホワン嬢」

「ご機嫌ようございます、クムディニ嬢」

 ハルツィットは視線だけで礼を返した。ショシャナは微笑む。清楚な仮面のまま、瞳の奥で炎が揺れている。

「昨夜の噂をお聞きになりましたか」

「噂は風のようなものです。止められません」

「風は帆を張れば進みますわ」

 言い方は柔らかいのに、言葉の芯が硬い。ハルツィットは返す語を選ぶ。

「クムディニ嬢は、帆を張られるおつもりですか」

「ええ、張り切っておりますの」

 ショシャナは机の端に、薄い革表紙の冊子をそっと置いた。角がすり減り、何度も開かれた痕がある。

 それはただの筆記帳ではなく、王太子妃教育の進度を整理するための帳面――彼女が自分で編んだ課題帳であった。表紙裏には課題一覧が細い字でびっしりと書き込まれている。

「もしよろしければ、いくつか質問しても」

「学ぶ意志は尊いものです。ですが、わたくしは講師ではありません」

「講師は講師として確保しましたわ。けれど、貴女の答え方を知りたいのです」

 ハルツィットは一瞬だけ沈黙した。知りたい、という動詞がここでは試す、と同義である。だが拒めば、逃げたと噂に色が付く。

「質問をどうぞ」

 問いは巧妙だった。条約の文言そのものではなく、条約が生まれた背景。言語の挨拶そのものではなく、挨拶の際に避けるべき手の動き。名産の名そのものではなく、贈答の禁忌。知識を知識のままでは終わらせず、相手の顔を立てる言い回しまで含めて問う。

 ハルツィットは答えた。答えながら、相手の目がどこで輝くかも観察した。ショシャナは覚えた知識を誇示するより、勝つための武器に整えようとしている。悪意だけではない。努力の量が、香水の甘さを押しのけて匂い立つ。

「……ありがとうございます」

 ひと通り終えると、ショシャナは扇を閉じ、深く息をついた。

「貴女は、やはり優れておいでです」

「優れているかどうかは、必要に足りるかどうかで決まります」

「その言い方が、いっそう腹立たしいのです」

 ショシャナは微笑みを崩さぬまま言った。腹立たしい、と口にするのに声が澄んでいる。

「必要に足りるだけでいいと、貴女は信じておられる。けれど、殿下の隣は舞台です。観客は拍手だけではなく、噂も投げる」

 ハルツィットは返せなかった。舞台という言葉が胸の奥に刺さる。彼女は舞台袖に立つ覚悟ならあった。だが照明の下に出ることを、自分に許していなかった。

「わたくしは、王家のために」

「ええ。だからこそ、王家のために奪いますわ」

 ショシャナはそう言い残し、図書塔を去っていった。残り香が薄くなるまで、ハルツィットは頁に視線を落とせない。


 その日から学園の空気が少しずつ変わった。令嬢たちは噂を娯楽にするだけでなく、陣営を作り始める。ショシャナの周囲には『華やかで賢い方が相応しい』と言う者が集まり、ハルツィットの周囲には『礼節こそ国の要』と言う者が残る。誰もが理念を口にするが、実際に守っているのは自分の居場所だ。

 ヴェレッド・グラーブは学園の中心でそれを眺めていた。王太子としての笑みを貼り付け、誰の肩にも触れない距離を保つ。だが耳に入る噂の速度が増すほど、胃の奥は重くなった。


 夜、王城に戻ると、ヴェレッドは執務室で側近アドアド・カホルの報告を受けた。蝋燭の火が揺れ、赤い封蝋の書類が机に積まれている。

「学園での動きは以上です、殿下。クムディニ家が講師を複数招聘しょうへいしたとの情報もあります」

「講師を」

「ええ。王太子妃教育の範囲を越えて、外交と商務の補講まで」

 ヴェレッドは指で机を叩くのをこらえた。若い令嬢の努力で済む話ではなくなる。背後に家が動いている。

「評議会も動くか」

「婚礼前の認証は評議会の所管です。口実はいくらでも作れましょう」

 ヴェレッドは窓の外を見た。王都の灯が蛍火のように散り、遠くで衛兵の槍が冷たく光る。王太子妃の座は恋の椅子ではない。だが椅子である以上、奪い合いが起こる。

 彼は思い出す。眼鏡に表情を隠したまま、『職務です』と言い切ったハルツィットの声。あの声は、彼女自身を縛る鎖でもあった。

「オクホワン嬢に知らせるべきだな」

「はい。先に知れば、策を講じられます」

「策ではない」

 即座に否定した声が、自分の耳に固く響いた。策ではないと言い切りたいのに、現実は策でしか動かない。

 アドアドは一拍置いてから、淡々と続けた。

「では、殿下。形式上、婚約を白紙に戻されては。的を外せば矛先は鈍ります」

「……」

 ヴェレッドは否と言いかけ、喉の奥で言葉が止まった。矛先を外す。それは政治の計算だ。だが同時に、彼女を守る唯一の手でもある。

 守るための手立てを、策と呼びたくないだけだ。そう気づいた瞬間、自分の胸の底が静かに恥ずかしくなった。


 翌日、ヴェレッドは学園の応接室を使い、ハルツィットを呼び出した。壁には王家の紋章が掛けられ、窓からは中庭の花壇が見える。だが花はまだ冬の名残で眠っている。

 ハルツィットは予定通りの時刻に現れた。濃紺の簡素なドレス、眼鏡、きっちり結った髪。彼女の装いはいつも通りで、いつも通りであることが今日に限っては痛い。

「お呼びでしょうか、殿下」

「座ってくれ」

 ヴェレッドが勧めると、ハルツィットは椅子に腰を下ろし、背筋を正した。沈黙が伸びる。彼は王太子として言葉を選び、男として言葉を選べない。

「学園で、君への圧が増している」

「承知しております」

「評議会が動く可能性がある。婚礼前の認証を口実に、候補の差し替えが議題に上るかもしれない」

 ハルツィットの指が膝の上で一瞬だけ動いた。だが表情は変わらない。

「それが国にとって最善なら、受け入れます」

「君は、そう言うだろうな」

 ヴェレッドは笑おうとして失敗した。彼女はいつも正しい。その正しさが、彼の息を詰まらせる。

「念のため伝える。クムディニ嬢は本気だ。家も動いている」

「本気で学ばれるのなら、素晴らしいことです」

「素晴らしい、で終えるのか」

 口から出た声音は、王太子のそれではない。苛立ちが混じっている。ヴェレッドは一度目を伏せ、呼吸を整えた。

「……すまない。君に責を負わせるつもりはない。ただ、君が傷つく場面が来る」

「殿下」

 ハルツィットの声は静かだ。静かすぎて、どこにも熱がないように聞こえる。

「わたくしは、傷つくべきではありません。わたくしの立場は職務であり、選ばれるのも外されるのも、王家の都合です」

 言い切った瞬間、ハルツィットの胸の内で何かが崩れた。崩れた音は外に漏れない。だが漏れないほど苦しい。

 ヴェレッドは彼女を見つめ、初めて知る。彼女は痛みを持たぬのではない。痛みを置く場所がないのだ。

「ハルツィット」

 名を呼んだ。彼女が一瞬だけ目を瞬かせる。眼鏡の反射が弱まり、濃い緑の奥に小さな光が見えた気がした。

「今後のことだが、婚約を一度、白紙に戻す」

 ハルツィットは動かなかった。息をする音すら消えたように見える。沈黙が一拍、普段より長い。

「殿下、それは」

「評議会の動きを封じるためでもある。君を的にし続ければ、学園も王城も荒れる。形式上、君を婚約者の任から解く」

 言いながらヴェレッドは、自分が何を守ろうとしているのかを測りかねていた。国か、秩序か、それとも。

 ハルツィットの指が膝の布をつまみ、すぐに離れた。乱れはそれだけだ。

「……承知いたしました。殿下がそう判断されるなら、それが最善なのでしょう」

 立ち上がると椅子が小さく軋んだ。目礼がわずかに深い。深すぎる礼が、言葉にできぬ動揺を代わりに語った。

「ご迷惑をおかけしないよう、速やかに手続きを進めます」

「待て」

 ヴェレッドの声が少しだけ強くなった。手を伸ばしかけ、伸ばせない。

「君は、何も言わないのか」

 ハルツィットは一拍置き、微かに首を傾げた。可憐ではなく確認の動作として。

「何を、でしょうか」

 ヴェレッドは答えられない。欲しいのは職務の返答ではなく、感情の返答だと露わになるからだ。

「……いや、行ってくれ」


 数日後、婚約白紙の通達が王城の内々で回った。学園にも「婚礼準備の見直し」として伝えられた。公には静かな手続きだが、沈黙はいつだって噂の燃料になる。

 令嬢たちは色めき立ち、子息たちは距離を測り直す。ハルツィットは立場を失ったはずなのに、むしろ視線が増えた。失脚を見届けたい者、空いた席に自分の花を挿したい者、ただ珍しさに集まる者。彼女はそれらをひとつずつ受け流し、学園の規則通りの生活を続けた。


 通達から三日が過ぎた放課後、食堂の空気が目に見えて割れた。

 ショシャナを中心に席が固まり、笑い声が花の輪のように広がる。一方でハルツィットの周囲は、椅子があるのに空席が目立つ。挨拶はある。だが目が合わない。礼はある。だが温度がない。

 教師は視線を泳がせ、咳払いだけを落とした。規則は平等をうたうが、王家の縁談は規則の外にある。

 放課後、ヴェレッドは回廊の陰でハルツィットを見かけた。彼女は書類の束を抱え、孤独に歩いている。声をかければ皆が振り向く。かけなくても皆が見ている。

 衝動のまま、彼は人目の届かぬ柱の影へ身を滑らせた。

「ハルツィット」

 名を呼ぶと、彼女は足を止め、目礼を返した。

「殿下」

「今は、殿下と呼ぶべきではないかもしれないな」

「では、どのように」

「ヴェレッドと呼んでくれないか、と言ったら困るか」

 冗談の形にして言った。だが本音は冗談ではない。

 ハルツィットは一瞬、言葉を探した。

「……殿下」

「そうか」

 ヴェレッドは笑ってしまい、すぐに咳払いで隠した。

「無理にとは言わない。君に伝えたいことがある」

「差し支えがございましたか」

 丁寧で、冷たい盾だ。

「差し支えではない。君は、よくやっている」

 褒め言葉は簡単なはずなのに、口にすると喉が熱くなる。

「学園でも王城でも、君が乱れぬように歩いているのを知っている。俺は、それを当然だと思ってきた」

 ハルツィットの指が、抱えた書類の端を掴む。紙がわずかに鳴った。

「当然ではない。君は、君の意志でそうしている」

 続けた瞬間、ハルツィットの肩がほんの少しだけ沈んだ。鎧を外した者の沈み方だ。

「……ありがとうございます」

 声が小さかった。礼儀の型ではない、個人の声である。

 ヴェレッドは言葉を重ねようとして、足音に気づいた。回廊の向こうに、誰かがいる。噂の目がある。

「今日はここまでにしよう」

「はい」

 ハルツィットは再び歩き出した。ヴェレッドはその背を少し離れた場所から見送った。

 彼女が角を曲がり、人目の届かぬ小さな階段室へ入る直前――書類の束が床に落ちる音がした。

 ヴェレッドは反射でそちらへ向かった。階段室の扉は半開きで、薄い隙間から灯りが漏れている。

 中ではハルツィットが膝をつき、落ちた紙を拾っていた。拾い方が遅い。指先が震えている。眼鏡がずれて、頬に影を落とす。

 顔を上げない。上げたら、何かがこぼれてしまうと知っているからだ。

 その頬に、光る筋がひとつ走った。涙だと気づくまでに、ヴェレッドは息を忘れた。婚約してから初めて見る、彼女の感情を乗せた表情だった。

 階段室の窓から差す夕陽が、瞳を一瞬だけ照らす。濃い緑の底で、澄んだエメラルドが揺れ、冬の雲の切れ間に覗く光の粒のように瞬いた。

 ヴェレッドは扉の前で立ち尽くした。声をかければ鎧を締め直させてしまう。かけなければ孤独に戻してしまう。

 王太子としての正しさと、ひとりの男としての衝動が、胸の中で噛み合わずに軋んだ。




次話:王家主宰の夜会で、静かな観察と駆け引きが幕を開ける。

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