地味眼鏡な女が王太子妃候補なんだが、美しく賢い女がその座を奪いに現れた
愛月撤灯(まなづきてっとう)
【第一話】職務宣言
貴族学園ゼル・プラヒームは『身分を問わぬ学び舎』をうたうが、石畳の廊下に落ちる足音は階級の高さで重さが違う。朝の鐘が鳴るころ、絹のすれる音が風より先に角を曲がり、礼法の教室へ向かう列ができるのだ。
王太子ヴェレッド・グラーブが在籍しているとなれば、平等の看板はさらに薄くなる。金髪碧眼の横顔は絵画のように整い、真紅のバラを胸に飾れば、それだけで周囲の視線が花弁のように開いた。彼が歩くだけで、空気は儀式の順番を思い出す。
その隣に立つべき婚約者、ハルツィット・オクホワンは、誰の記憶にも『地味な眼鏡』の二語で収まる女として刻まれていた。爵位は高く、言葉は正確で、礼節は完璧である。それでも甘い噂の輪に彼女の名が上がるとき、添えられるのは華ではなく、苦笑だけであった。
ハルツィットはその評価を把握している。把握したうえで静かに周囲を見渡し、学ぶべきことを学び、聞くべきことを聞き取ってきた。視界の端でひそひそと咲く嘲りは、春の花粉のように避けられぬと割り切っている。
彼女が眼鏡を外さぬのは視力のためだけではない。光を遮る薄い壁があると、感情がばれにくいからだ。王太子妃候補に必要なのは愛らしさではなく、判断の冷静さだと教えられてきた。そう信じて積み上げた年月が、今さら崩れるはずがない。
今日の礼法は、王家の式典を想定した実技であった。教師が壇上で杖を鳴らし、席次と目礼の角度を指示する。令嬢たちは肩を正し、練習用の扇を手に微笑む。微笑みの奥では、互いの家格が細い針で測られている。
休憩の鐘が鳴ると、波が引くように教室がざわめいた。ヴェレッドは窓際の席で数名の子息に囲まれ、形式だけの談笑を続けている。学園での彼は王太子である前に生徒という建前だが、誰も本気では信じていない。
学園では婚約は既定路線とみなされる。しかし王太子の婚礼は国事であり、正式な婚礼の宣言がなされるまで、王家と評議会の判断で差し替えが起こり得る。だから令嬢たちは、火の気のないはずの縁談にまで薪をくべる。
ヴェレッドは笑いながらも、視線の片隅でハルツィットを追っていた。彼女の所作は一分の狂いもない。けれど完璧さは、誰の手にも触れさせない壁にも見える。笑みひとつ取っても、礼儀の型なのか、感情なのか判別がつかないのだ。
ハルツィットは自席のまま、文房具を整えていた。細い指が紙を揃え、ペン先が規則正しくしまわれる。その所作には無駄がなく、きちんと整いすぎているがゆえに、近寄りがたい壁を作ってしまっていた。
「ハルツィット様」
呼びかけの声がひとつ、蜂蜜より粘ついた。振り向くと、取り巻きを連れた令嬢たちが半円を描いて立っている。彼女らの香水が混じり合い、甘さが濃くなって鼻を刺した。
ハルツィットは席を立たず、眼鏡の奥から相手を見上げる。顎をほんのわずかに引いて、目礼だけを返した。
「何かご用でしょうか」
先頭の令嬢が扇を開き、微笑んだ。慈愛の仮面の下に、刃の光が覗く。
「殿下がお気の毒ですわ。学園ではお優しいから、何もおっしゃらないだけ。ご婚約者として、重荷になっているのではなくて」
「ご心配はありがたく存じます」
淡々と返され、令嬢の眉がわずかに動いた。取り巻きのひとりが、慌てて言葉を継ぐ。
「王太子妃は国の花ですもの。式典や夜会で、民も他国も仰ぎ見るお立場ですわ。もっと華やかな方が――」
その言い方は正論の形をしている。しかし芯は、見目の優劣だけだ。
教師は壇上で書類を繰っていた。王族に連なる高位貴族の諍いに、教師は杖一本では割って入れない。平等の看板は、壁の装飾に過ぎぬことがよく分かる。
先頭の令嬢が苛立ちを隠し切れず、扇の影で唇を歪めた。
「ですから単刀直入に申し上げます。王太子殿下の婚約者というお立場、辞退なさってはいかが」
周囲の空気が一瞬だけ凍り、すぐに薄い氷の上でざわめきが走った。
ハルツィットは立ち上がり、呼吸を乱さずに相手を見た。眼鏡越しの瞳は濃い緑で、森の奥のように感情を隠す。彼女の胸の内では何かがきしむ音を立てていたが、それを表に出す理由はない。
「王太子妃は職務です」
凛としたその一言で、空気の温度が変わった。職務。令嬢たちが最も口にしたがらない、冷たい言葉である。
「わたくしは王家に仕える家臣の娘として、必要な教養と礼節を身につけました。もしわたくしよりも王太子妃に相応しい令嬢が現れたなら、その時は喜んで辞退いたしましょう」
令嬢たちの扇が止まった。予想していたのは、反論か涙か怒りである。ハルツィットの声は淡々として、砂時計の砂のように落ちる。
「な、何を……強がって」
「強がりではございません。王公貴族の婚姻は政の一部です。何よりも王家のためになるよう動かなければなりません」
言い切ると、彼女はさらに一歩踏み込んだ。相手の視線が揺らぐ距離へ、礼儀正しく近づく。
「わたくしは側妃や愛妾の存在も否定いたしません。お側に侍りたいだけならば、王太子殿下に打診してみてはいかがでしょう」
甘い香水の波が、逆流するように引いた。令嬢たちの頬が一斉に赤くなる。侍女や女官の言葉ではない。王太子妃候補が、王家の制度を正面から口にしたのだ。
「そ、そんな……」
「はしたないことを……」
小声の抗議が散り、しかし矛先は定まらない。彼女らはハルツィットを追い落としたいのか、王太子の注意を引きたいのか、自分でも整理できていない。ふわりとした憧れが、誰かの席を奪えると勘違いしているだけなのだ。
怒号が出そうになった瞬間、教室の端で椅子がわずかに鳴った。ヴェレッドが立ち上がった音である。彼はゆっくりと歩み寄り、令嬢たちの前に影を落とした。
「ここは学園だ」
声は低く、しかしよく通った。真紅のバラを思わせる気配が、場を支配する。
「礼法の授業の場で、誰かを辱める言葉は慎むべきだ。諸君の家は、そのように教えているのか」
令嬢たちの背筋が固まった。王太子は怒鳴らない。怒鳴らずに切り捨てる。彼の言葉は剣であり、剣の手入れが行き届いている。
「殿下、わたくしたちは……国のために」
「国のためと言うなら、まず礼を守れ」
ヴェレッドはそれ以上言わなかった。言わずとも分かる空気を作ったのだ。令嬢たちは引きつった笑みを浮かべ、扇で口元を隠しながら散っていく。背中に残るのは悔しさと屈辱である。
教室に静けさが戻ると、ハルツィットは視線を床へ落とした。自分の発言が波紋を呼ぶことは分かっている。だが、呼ばれる波紋の中で泳ぐのが、王太子妃候補の仕事だと知っている。
「ハルツィット」
ヴェレッドの呼びかけは名だけであった。いつもなら「オクホワン嬢」と距離を置くはずの場面だ。彼女は顔を上げる。眼鏡に光が反射し、一瞬だけ彼の表情が映らない。
「殿下、差し支えがございましたか」
「いや」
短い否定のあと、彼は言葉を選んでいるように口を閉じた。周囲に耳がある。彼は王太子として慎重であるべきだ。だが、その慎重さの裏で、別の感情が細く動いているのをハルツィットは察した。
「君は、ああいう言葉を平然と言えるのだな」
「必要であれば」
「必要、か」
ヴェレッドは苦笑に近いものを浮かべた。彼の碧い瞳が、ハルツィットの濃い緑を正面から見据える。視線が交わるだけで、胸の奥が騒ぐのを、彼女は知られたくない。
「殿下も、必要だから婚約を受け入れておられるのでしょう」
言った瞬間、自分の声が冷えすぎたと気づいた。だが修正はしない。修正すれば、そこに私情が混ざる。
ヴェレッドは何か言い返そうとして、やめた。代わりに軽く手を挙げた挨拶だけを残し、元の輪へ戻っていく。周囲の子息たちが慌てて彼に合わせた。
離れていく背中を見送りながら、ヴェレッドの胸に妙な痛みが残った。彼女の言葉は正しい。正しいが、正しさの刃は触れる者を等しく傷つける。彼は自分が傷ついたことに腹を立てるより先に、彼女がその刃を握り続けている理由へ見当をつけようとした。
ハルツィットは席に戻り、書類束の角をもう一度そろえた。指先がわずかに震えている。震えを止めるために、彼女は呼吸を数えた。星の数を数えるように淡々と、淡々とである。
廊下の向こうで、令嬢たちの笑い声が再び上がった。さきほどの一件は、すぐに別の物語へ姿を変えて流れていく。学園とはそういう場所だ。人の評判は風の向きで変わり、花は咲く場所を選ばない。
その廊下で、笑いの輪から一歩だけ離れた場所に、ひとり静かに立つ令嬢がいた。プラチナブロンドの髪をまっすぐ背に流し、橙の瞳が冷たい灯を宿している。ショシャナ・クムディニ嬢。
彼女はさきほどのやりとりを、最初から最後まで聞いていた。ハルツィットの『喜んで辞退』という言葉が、耳の内側で何度も反響する。あれは高潔か、傲慢か。どちらにせよ、自分たちを見下した響きに聞こえたのだ。
ショシャナは成金趣味の金髪縦ロールを好まない。人を威圧する飾りは嫌いで、白百合を思わせる清楚な装いを選ぶ。だからこそ、周囲は彼女を『敵にならない』と油断してきた。
彼女の口端がわずかに持ち上がる。清楚な顔立ちに、その笑みは不釣り合いなほど鋭かった。
「ならば、現れて差し上げますわ」
誰に向けたでもない独白である。だがその言葉は、彼女の中で誓いになった。王太子妃は職務だと言うのなら、職務に相応しい自分を証明すればよい。華と才を兼ねた者が座るべきだと、世界に示せばよい。
ショシャナは庭へ抜けた。冬の名残のある花壇の前で足を止め、冷えた空気を肺へ入れる。遠くで鐘が鳴り、学園の一日がまた規則に沿って進んでいく。
「お嬢様、あの方に関わると面倒が……」
侍女が小さく制止する。
「面倒で結構ですわ。面倒を避けて座れる椅子ではありませんもの」
言いながら彼女は指先で髪を整える。背筋が伸び、歩幅が決まった。花に触れずとも香りを支配する者の歩き方である。
ショシャナは庭から回廊を抜けて自室棟へ向かった。自室へ戻ると、机の引き出しから分厚い冊子を取り出す。王太子妃教育の
「明日から、追加の講師を手配して。言語と歴史、あと各地の因習もですわ」
「はい……ですが、すでに十分に」
「十分など要りません。必要なのは、あの女が口にした『相応しい』を奪い取ること」
ショシャナは紙の上にペンを落とした。墨がにじみ、線が伸びる。自分の名が、未来の肩書きへ変わる瞬間を描くように。
窓の外で雲が流れ、日差しが差し込んだ。光の粒子が机上の金具に反射し、きらりと小さな星のように瞬く。ショシャナはその光を見て、ただ一度、息を深く吸った。
そして唇を結び直す。学園の平等の看板を、今度は自分の手でひっくり返すために。
次話:婚約が揺れ、王太子は彼女に『ひとりの令嬢』として向き合い始める。
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