第七章 ― 魔都アビサルの核心
ノクスと並んで駆けることは――
世界の縁を疾走するようなものだった。
破壊は、彼女たちと共にあった。
事故ではない。
必然として。
ノクスの命のもと、
護衛された悪魔の隊商は進む。
生きた森を越え、
酸に侵された砂漠を渡り、
古き名を囁く河を横切る。
人間の山賊。
狂信的な異端審問官。
封印狩りの追跡者。
――すべてが、行く手を阻んだ。
――そして、すべてが、死んだ。
アリアンヌは、
もはや躊躇しなかった。
正確に斬り、
獰猛に魔力を呼び、
優雅に、殺した。
そして――
最も恐ろしいことに。
彼女は、微笑んでいた。
深淵の国の眼には、
もはや彼女は
「人間」ではない。
――紅の剣(スカーレット・ブレード)。
下位部隊を率い、
低い声で命を下す。
その言葉は、
疑われることなく
実行された。
かつては見下していた怪物たちも、
今では彼女が通ると
視線を伏せる。
身体には、
いまだ傷が残っている。
だが今――
その傷には、名があった。
「カーン」
「モルドラシャ」
「皮剥ぎの丘の黒曜矢」
一つ一つが、勝利。
一つ一つの痛みが、
伝説の皮膚に重ねられた層。
だが――
周囲を最も驚かせたのは、
力だけではなかった。
年長の将軍たちでさえ、
囁きを交わす理由。
それは――
ノクスの傍らで、
アリアンヌが安らいでいること。
寝所は、別々だ。
だが時折――
第四夜の静寂の中、
ノクスは音もなく彼女の天幕に入る。
言葉はない。
ただ、
裸の腕が腰を抱き、
折り畳まれた翼が
冷気から守る。
アリアンヌは、
問わない。
――ただ、呼吸する。
なぜなら、
そこでは――
誰も彼女を
異形とは呼ばない。
そこでは――
誰も彼女に
隠れることを強いない。
内なる悪魔と、
外に在る欲望を抱え――
彼女は、完全だった。
やがて――
名が、広がり始めた。
「堕ちた騎士」
東では、
裸の獣を従えると語られ、
南では、
影と女の半身だと囁かれ、
北では、
第一の翼に口づけされ、
深淵の花嫁として
生まれ変わったと噂された。
そして――
ある未明。
長い口づけの後、
ノクスは
彼女の耳元で囁いた。
「……私のお気に入りだ」
その任務は、
一見――平凡に見えた。
アリアンヌは、
悪魔の護衛隊を率いていた。
三台の荷車。
二個の飛行部隊。
五人の支援系呪術師。
深淵にとって不可欠な資源を運ぶ任務。
中立地帯を横断する。
太古の闇。
魔力を帯びた泥。
名を囁く植物。
――特別なことは、何もない。
だが――
心が最も静かな時、
世界は毒を吐く。
魂の裂け目を渡る最中、
待ち伏せは起きた。
祝福された矢。
人間の兵士――
盗賊ではない。
訓練された正規軍。
そして――
深紅の太陽騎士団の法衣を纏う魔導士たち。
彼らを率いるのは――
青いリボンで
黒髪を束ねた女。
アリアンヌは、
一瞬――凍りついた。
サレル隊長。
かつて彼女を鍛えた者。
師であり――
崩れた神殿で
最初に刃を向けた一人。
生きていた。
そして――
終わらせに来た。
「アリアンヌ!」
その叫びは、
峡谷を貫いた。
「まだ間に合う!」
「その獣どもを捨て、戻れ!」
「中にあるものを――
浄化してやる!」
笑い声が、
響いた。
喉からではない。
――内側から。
胸の封印が脈打つ。
内なる悪魔が、
歓喜に唸る。
『聞いたか?』
『“浄化”だと』
『まるで――
お前が汚れているかのように』
『見せてやれ』
『ここで“穢れ”と
呼ばれるものを』
アリアンヌは、
岩壁へと登った。
皮膚に刻まれた
灼ける印のような
赤い瞳。
深淵の黒き外套が、
翼のように揺れる。
風が、
彼女の声を
谷全体へと運ぶ。
「サレル」
「あなたは、
私を鍛えたんじゃない」
「鎖をつけただけ」
「そして私は――
“義務”と呼ばれた首輪を
引き千切った」
「あなたが
不浄と呼ぶものは――」
「私を、完全にしたもの」
戦いは、短い。
――だが、激烈だった。
荷車は、
影の壁に守られ、
呪術師たちは、
円陣を組む。
悪魔たちは、
飢えた鉤爪のように
人間の陣へと舞い降りる。
アリアンヌは、
剣の雨の中を
火と鋼の舞で降下した。
三人の兵が、
刃に倒れ、
二人の魔導士は、
冒涜的な魔力の破裂で
封印ごと沈黙した。
そして――
最後に。
彼女は、
サレルと向き合った。
剣と剣。
師と弟子。
古き世界と、
新たな地獄。
「……まだ、
上手く戦うな」
息を切らし、
サレルが言う。
「……あなたは、
まだ戻れると思っている」
「堕ちているだけだ」
「私は――
もう堕ちた」
「そして、
もっと良い何かを
見つけた」
二人は、
激突した。
魔力が爆ぜ、
岩が裂け、
炎が立ち上る。
そして――
サレルは倒れた。
生きている。
――だが、敗北した。
アリアンヌは、
剣を掲げた。
殺せた。
――だが、殺さなかった。
跪き、
隊長の首の
青い首飾りを掴み、
囁く。
「……あなたは、
私の怒りに値しない」
「ただ――
侮蔑だけ」
彼女は、
隊商へと戻った。
血にまみれ、
無言で。
そしてその夜――
彼女は、
言葉もなく
ノクスの隣に横たわった。
だが――
ノクスは、気づいた。
腕を回し、
彼女を引き寄せる。
「……連れ戻そうと
したのか?」
「……ええ」
「それで?」
「……あなたを
選んだ理由を
思い出した」
ノクスは、
彼女の肩に
口づけた。
「……いい子だ」
帰還の空は、赤かった。
天候のせいではない。
――何かが、変わったのだ。
戦場で。
彼女の内側で。
そして――
ついに、
彼女が何になりつつあるのかを
世界が恐れ始めた、その瞬間に。
深淵の国の門は、
彼女の前で開いた。
以前のような、
慎重さでも、
形式ばった儀礼でもない。
――将軍を迎え入れるように。
彼女が去る時に見送った兵たちは、
今や、
別の眼差しで彼女を見る。
畏敬。
期待。
そして――
飢え。
もはや誰も、
「人間」を見ていない。
見ているのは――
力。
権威。
創造主と呼ばれた存在に刃を向け、
勝利した女。
評議会の間では、
五人の将軍が議論していた。
噂は、
彼女よりも先に
到着していたのだ。
「彼女が、前線を率いた」
「禁じられた血統魔術で
呪術師を二人、沈黙させた」
「深紅の騎士団の古参を、
悪魔を完全解放せずに打ち倒した」
そして――
最も重く、
最も恐れを孕んだ言葉。
「彼女は、
怒りで殺さなかった」
「生かす者を、
選んだ」
「それこそが――
真の力だ」
ノクスは、
広間の影から
それを見ていた。
緩やかな衣。
畳まれた翼。
半ば忘れられた杯。
だが――
その瞳は。
燃えていた。
誰も――
他の将軍でさえ、
口に出すことを恐れる感情で。
誇り。
数時間後、
生きた石の回廊で、
二人きりになった時――
アリアンヌは、
彼女の隣を歩いた。
「……私のことを、
話していた」
「ええ」
「彼らは、
私が何になるかを
恐れている?」
ノクスは、足を止めた。
顔を向ける。
壁の結晶が放つ
暗い光が、
彼女の横顔を舐める。
「恐れているのは――
すでに避けられぬ未来だ」
アリアンヌは、
自分の指を見た。
傷跡。
今や――
灼けることなく、
鼓動する封印。
まるで、
ノクスのそれと
踊るかのように。
「……もっと、欲しい」
「なら――
登れ」
ノクスの声は、
柔らかな唸り。
「だが知れ。
頂には、
灰と支配しかない」
「登れば――
戻れない」
「私の元にさえも」
アリアンヌは、
一歩近づいた。
顔を上げ、
まっすぐに見据える。
「なら――
一緒に来て」
「それが無理なら、
私を止めて」
「……私は、
止まらない」
翌朝――
深淵の塔々を駆け巡る
噂が、爆発した。
「堕ちた騎士が、
五つの試練に召喚された」
――五将の試練。
魔王の後継を選ぶ儀。
至高の将軍となる道。
挑む者は少なく。
生き残る者は、
さらに少ない。
彼女の名は、
国境を越え、
恐怖と欲望を纏って広がる。
「アリアンヌ」
「紅の剣」
「名を焼き払う者」
「闇の翼に選ばれし者」
そして――
人間の世界でも。
新たな囁きが、
生まれ始めた。
「……彼女は、生きている」
「そして今――
怪物たちを、率いている」
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