第六章 ― 煉獄の鍛錬

彼女は、血を流していた。

――だが、

誰も、その血を拭わなかった。


罰ではない。


儀式だった。


訓練場の石床は、

汗、唾、魔力、

そして砕かれた骨の層で染まっている。


その中央――

まだ前の鍛錬の熾火が残る中で、

アリアンヌは、再び倒れた。


両膝を床につき、

腕を伸ばし、

叫ばぬよう顎を噛み締めて。


ノクスは、

焦れた獣のように

彼女の周囲を歩く。


将軍の足音は、

広間のアーチに反響し、

鈍い雷鳴のように響いた。


一歩ごとに、

空気が――

熱を帯びて弾ける。


音ではない。

存在だ。


「……立て」


声は高くない。


――だが、

無視できなかった。


アリアンヌは、立ち上がる。


全身が張り詰め、

肋骨の一本は

砕けているかもしれない。

視界が脈打つ。


「……もう一度」


彼女は、踏み込んだ。


一閃。

精密な軌道。

刃の周囲で、

魔力が鞭のように渦巻く。


ノクスは、

乾いた回転で躱した。


空中で、

アリアンヌの手首を捕らえ、

残酷な優雅さで捻り上げ――


次の瞬間、

背中から床へ。


轟音。


広間が、震えた。


「……お前は、

 まだ“受け入れられたい者”として戦っている」


「それが――

 私には、吐き気がする」


外側では、

アリアンヌは答えなかった。


内側では――

悪魔が、笑った。


『彼女は、お前を壊す』


アリアンヌは、

血に満ちた口の中で、

思考だけで答える。


『なら、壊せ』


『だが――

 私を、研げ』


訓練に、時刻はなかった。


夜明け前に始まることもあれば、

食事の最中に中断されることもある。


ノクスは現れる。


汗に濡れて。

雨に打たれて。

あるいは――

まだ新しい血に、裸で。


そして、ただ一言。


「……今だ」


剣か。

魔法か。

肉体か。


――すべて同時に。


「混沌に、規律はない」


ノクスは言う。


「あるのは――

 限界まで鍛え抜かれた本能だけだ」


アリアンヌは、

毒を持つ獣と戦い、

炎を纏う兵と斬り結び、

自らの動きを

完璧に模倣する

鏡の影と対峙した。


勝つこともあった。

死にかけることもあった。


だが――

退いたことは、一度もない。


やがて――

胸の封印が、

訓練のたびに

震えるようになった。


脅威ではない。


――交感だった。


静かな未明、

痣に覆われた身体で、

アリアンヌは

深淵の空を見上げ、

低く呟く。


「……私は、まだ不完全」


「……でも、

 近づいている」


そして――

要塞の高み、

私室の影から。


ノクスは、

常に見ていた。


最終形へと至るまで――

己の創造物が

燃え尽きる瞬間を

見届けたい、

飢えた女神のように。

六度目の月が巡った夜、

アリアンヌは内庭へと呼び出された。


前触れもなく。

準備もなく。

息を整える時間すら、与えられずに。


闘技場の段には、

無数の影が埋め尽くしていた。


悪魔たち。

兵士たち。

下位の将軍たち。


そして――

最上段には、いつものようにノクス。


溶けた鉄の玉座に腰掛け、

黒曜石の杯を手に、

細められた瞳で見下ろしている。


笑みはない。

だが――

瞬きもしない。


「……今日は、殺せ」


高みから、声が落ちた。

冷たく。

断定的に。


アリアンヌは、問わなかった。


その足はすでに、

闘争の円へと踏み出していた。


足元の黒砂は熱を帯びている。

太陽のせいではない。

――新しい死のせいだ。


一歩進むごとに、

ざわめきが消えていく。


金属音は、

風に飲み込まれた。


闘技場の中央に立つのは――

カーン。


皮を剥ぐ犬(スキン・ハウンド)。


三メートルの、

硬化した筋肉の塊。


四本の腕には、

黒曜石の鉤爪。


深淵の下位将軍の一人。

三百年以上を生き、

敵が意識を保ったまま

皮を剥ぐことで名を馳せた存在。


剥いだ皮は、

自らの外套に縫い付ける。


――それが、

彼女の試練だった。


「……相応しい存在になりたいか?」


ノクスの声が、

上から響く。


「ならば、証明しろ」


「犬を倒せ」


「さもなくば――

 元の姿のまま死ね」


「怪物の真似事をする

 人間として」


カーンは、笑った。


湿った、

獣の笑い。


「……小さすぎる」


「壁に、よく似合いそうだ」


アリアンヌは、

答えなかった。


ただ――

剣を、構えた。


裸の肌。

見開いた眼。

流れる準備の整った血。


彼女は――

踏み込んだ。


最初の交錯は、

凄惨だった。


カーンは、

拳で地面を叩き潰し、

岩を引き剥がして

爆弾のように投げつける。


四本の腕が回転し、

鎖に繋がれた刃が

破壊の渦を作る。


アリアンヌは、

その中を踊った。


熱が脇腹を裂くのを感じ、

肋骨を伝って

血が流れるのを見る。


――だが、

止まらない。


防御は、考えない。

「倒れたら?」など、

思考に入らない。


考えるのは――

どこを斬るか。

どう、裂くか。


六度目の交錯で、

剣を失った。


八度目に――

内なる悪魔が囁いた。


『殺せ』


『恐怖ではない』


『美しいからだ』


アリアンヌは――

笑った。


痛みそのものから生まれた

影の曲刀を呼び出し、

跳躍。


カーンの上を、

回転しながら舞う。


刃を――

顎の下へ。


そして――

押し込んだ。


最後まで。


沈黙。


完全な、沈黙。


カーンは――

山のように崩れ落ちた。


アリアンヌは、

死体の胸に膝を突き立てる。


呼吸は乱れ、

身体は震える。


――だが、

瞳は生きていた。


そして、初めて――

彼女は、泣かなかった。


嘆かない。

悔やまない。


死は――

正しかった。


相応しかった。

彼女のものだった。


その時――

高みで、ノクスが立ち上がった。


ゆっくりと。


その瞳には――

誇りが、宿っていた。

沈黙。


カーンは地に伏し、

白濁した瞳、

驚愕のまま半開きの口。


深淵の群衆は、拍手しない。

悪魔は、人間のように祝わない。


――観察する。

――記憶する。

――認める。


アリアンヌの身体は震えていた。

だが――

それは疲労ではない。


血は、まだ流れている。

しかし胸の封印は、

抑え込まれた太陽のように燃えていた。


指先には、

黒き刃の感触。

それは、すでに煙となって消えつつある。


――彼女は、殺した。

そして、

その感覚を、愛していた。


足音。


ゆっくりと。

胸の奥で鳴る

戦鼓のように。


ノクスが、

観覧席の階段を下りてくる。


チュニックは、

脚に黒い波のように触れ、

翼は畳まれているのに、

一歩ごとに熱が増していく。


悪魔たちは、道を空けた。


――彼女は、

静かな嵐。


闘技場に降り立った瞬間、

周囲のすべてが消えた。


残ったのは――

二人だけ。


勝者と、

それを見届けた者。


アリアンヌは立ち上がろうとした。

だが――

脚が、崩れた。


倒れる前に、

ノクスが支えた。


片手で、

少女の顎を確かに掴み、

顔を持ち上げる。


「……ようやくだ」


囁きは、

近すぎる距離で。

唇の熱が、

新しい血と混ざり合う。


「お前は、殺した」


「防衛のためではない」


「――決断として」


「――支配として」


アリアンヌは、荒く息を吐く。


視線が、交わる。

紅玉と、琥珀。

飢えと、飢え。


「……まだ、私の対等ではない」


ノクスの声は、

柔らかな唸り。

骨だけが聞き取れる、

低い雷。


「だが――

 近づいている」


そして――

彼女は、口づけた。


勝利の印ではない。

契約だった。


ノクスは、

刃を奪うように

アリアンヌの唇を取った。


所有。

熱。

痕跡を残す意志。


口づけは、

熱く、

粗く、

紛れもなく――

現実だった。


アリアンヌは、

彼女の唇に

低く声を漏らした。


痛みではない。


――もっと深い、

望まれていた感覚。


ノクスの手が、

傷だらけの背に食い込み、

彼女を引き寄せる。


深淵の観衆は、動かない。


口づけもまた、勝利だ。

そして――

これは、彼女たちの勝利。


唇が離れた時、

ノクスは、

舌先で

アリアンヌの口元の血を舐めた。


「……次の段階へ行く準備は、できた」


アリアンヌは、笑った。


汚れた。

裂けた。

力に満ちた笑み。


「……見せて」

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