第五章 ― 第一翼ノクス

彼女は――巨人だった。


大きさではない。

存在そのものが。


ノクスが足を踏み入れると、

広間は狭くなる。

空気は熱を帯び、

世界の鼓動は――遅くなる。


まるで、

彼女が通るために

宇宙が一度、立ち止まるかのように。


ノクス。

第一将軍。

破滅の翼。

魔王の翼ある審判者。


髪は、

消えかけた熾火の滝のように流れ、

その瞳――

爬虫類めいた琥珀色は、

すべてを見通す。


翼は、

完璧な脅威として折り畳まれ、

褐色の肌の下では、

火の脈が脈打っている。


首元には、

牙の首飾り。

人のもの、

悪魔のもの、

そして――

太古のもの。


彼女は、声を荒げない。


だが――

口を開けば、

沈黙が従った。


そして、

アリアンヌは――


動けなかった。


恐怖ではない。


もっと深いもの。


脅威から来る緊張ではなく――

認識から生まれる緊張。


ノクスは、

彼女の前まで歩み寄った。


裸足のまま、

暗い石の床を踏む。


一歩ごとに、

小さな熾火が残る。


魔法ではない。

――彼女の熱は、

許可を求めない。


ノクスは、

アリアンヌを

上から下まで見渡した。


傲慢ではなく。

――分析。


まだ鍛えられていない

武器を測る、職人の眼。


「……お前は、生きた矛盾だ」


そう告げる。


「理解できぬ魔力」

「受け入れぬ強さ」

「そして――

 まだ、自分が打つに値するかを

 問い続ける心臓」


ノクスは、

手を上げた。


黒く、

湾曲し、

鋭い爪。


それを――

アリアンヌの胸の中心へ。


鼓動の宿る場所。

封印が燃える場所。


触れ方は、

驚くほど軽い。


だが――

感覚は、雷だった。


背骨を駆け上がり、

身体の奥深くへと

一直線に落ちていく。


「……お前は、

 古きものを宿している」


アリアンヌの息が、

わずかに乱れた。


「見てみたいのだ」


ノクスは、低く続ける。


「お前が――

 赦しを乞うのをやめた時

 何になるのかを」


アリアンヌは、震えた。


弱さではない。


初めて、

 炉の熱を知った刃のように。


身体の内で、

魔力が応える。


封印が光り、

黒い脈が首元まで這い上がる。


ノクスは、

満足そうに微笑んだ。


「……いい子だ」


その瞬間から――

アリアンヌの世界は、変わった。


彼女は、

客ではない。

囚人でもない。


――計画だった。


そして――

ノクスは、

 唯一の設計者だった。

ノクスは、

言葉から始めなかった。


――衝撃から始めた。


最初の朝、

彼女はアリアンヌを

訓練場の石床へと叩きつけた。


前触れもなく。

手加減もなく。

振り返りさえせずに。


「立て」


アリアンヌは、立った。


「来い」


――彼女は、攻めた。


そして――

再び、地に叩き伏せられた。


もう一度。

さらに、もう一度。


魔力も使わず、

武器も呼び出さず、

ノクスは

触れ、回り、間合いと意志だけで

彼女を制圧し続けた。


「お前は、

 自分を正当化しながら戦っている」


「だが――

 怪物は、説明しない」


「ただ、在る」


「そして――

 世界が、屈する」


訓練は続いた。


アリアンヌの腕から

血が流れ落ちるまで。


抑え込まれた熱が

皮膚を裂くまで。


筋肉が、

慈悲を乞うまで。


だが――

慈悲は、なかった。


あるのは、

ノクスの視線だけ。


固定され、

灼けつくようで、

逃がさない。


砂漠の太陽のように――

殺すか、

生まれ変わらせるか。


二週目、

ノクスは

アリアンヌに

魔力の使用を許した。


広間は、

渦巻く影に満たされ、

空中には

燃える符号が刻まれる。


動作一つ、

印一つごとに、

アリアンヌの内なる悪魔は

歓喜の咆哮を上げた。


――だが、ノクスは。


一歩も、退かなかった。


炎を突っ切り、

影の触手を

舞うように躱し、


そして――

捕まえる。


そう、

必ず捕まえる。


その瞬間、

世界が――

一拍、止まる。


ノクスは、

彼女を床へと押さえつける。


腹に、膝を当て、

両手首を

頭上で押さえ込む。


顔と顔の距離は、

指一本分。


「……まだ、躊躇っている」


「まだ、抑えている」


「なぜだ?」


「誰に、

 気に入られたい?」


アリアンヌは、

血を吐いた。


――だが、

笑った。


「……あなたが、

 どこまで私を押すのか

 見たいだけ」


ノクスは、

眉をわずかに上げた。


「……いい答えだ」


そう言って、

彼女を解放する。


だが――

離れる前に。


爪先で、

アリアンヌの顎を

かすめる。


ただの接触。


それでも――

約束に満ちた一瞬。


三週目――

アリアンヌは、

勝った。


一撃。


ノクスの腿に、

浅い――

だが確かな、

切り傷。


広間全体が、

凍りついた。


高所から見守っていた

他の将軍たちが、

目を見開く。


ノクスは、

傷を見下ろし――

微笑んだ。


「……私を、切ったな」


アリアンヌは、

荒い息を吐きながら立っていた。


汗にまみれ、

壊れかけ、

――それでも、立っている。


「……許可は、

 求めなかった」


ノクスは、

ゆっくりと近づく。


獣のように、

しなやかに。


一歩、

また一歩。


彼女の前で、止まる。


唇が――

近すぎる。


「……いい」


「今ようやく――

 本当に、興味が湧いてきた」

その夜――

深淵の要塞は、

訓練と魔力の鞭の重みに沈み、眠っていた。


だが――

アリアンヌは、眠っていなかった。


割り当てられた塔の頂で、

膝を抱え、

引っかき傷だらけの手を重ねながら、

空を見上げていた。


星のない空。

浮かぶのは、

閉じられた神の眼のような

宙に漂う熾火だけ。


何がより強く燃えているのか――

血管を駆ける血か、

それとも、

喉の奥で禁じられた祈りのように震える

ノクスという名か。


将軍の腿を裂いた、

あの一太刀以来――

何かが、変わっていた。


ノクスは、

以前のように冷たくは語らない。

アリアンヌを、

独りで血を流させることもない。


今は――

見ている。


長く。

本能の臭いを放つ、

あの蛇のような視線で。


塔の扉が、軋んだ。


――ノクスが、入ってくる。


鎧はない。

翼も、

炎の冠もない。


腰まで開いた暗色のチュニック。

解かれた髪。

腿には、

新しく刻まれた傷が、まだ残っている。


「……起きているのか」


アリアンヌは、答えなかった。


ノクスは近づく。

急がず――

獲物が逃げないと知る捕食者の歩みで。


背後に、立ち止まる。


「ここで、何を探している?」


「……静けさ」


「見つかったか?」


「あなたが来るまでは」


沈黙。


そして――

ノクスは、笑った。


低く。

温かく。

闇に注がれる、

こぼれた酒のように。


「噛み返すことを覚えたな。

 それが、気に入った」


彼女は、

アリアンヌの隣に腰を下ろす。


近すぎるほどに。

腰が、触れる。


両者の脚には、

同じような傷跡。


強い腕。

赤と琥珀の瞳。


二つの武器。

痛みで鍛えられ、

力を宿し――

今、危険なほど近い。


ノクスは、

少女の横顔を見つめた。


「……私に、何を望む?

 アリアンヌ」


「……すべて」


一瞬の躊躇もなく。


ノクスは、顔を向け、

額を――触れさせた。


「なら――受け取れ」


その口づけは、

甘くない。

ためらいもない。


奪い合いだった。


唇と唇。

舌と吐息。


歯の間で、

世界が終わるかのように。


アリアンヌは、

将軍の唇に

呻いた。


だが――

離れなかった。


同じ激しさで、

応えた。


手が絡み、

脚が絡まり、

傷跡が触れ合う。


破壊のために生まれた

二つの存在が――

互いを喰らう。


息を切らして離れた時、

ノクスは、

アリアンヌの下唇を

軽く噛んだ。


「……まだ、私の対等ではない」


「だが――

 近づいている」


そして――

久しく忘れていたことが起きた。


アリアンヌは、

微笑んだ。


生き延びるためでもなく。

皮肉でもなく。


欲望ゆえに。


なぜなら――

彼女は、もう知っていたから。


ノクスに相応しくなること。

そして――

彼女と共に、世界を踏み潰すこと。

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