第四章 ― 砕けた森

森は、彼女を喰らわなかった。


――受け入れたのだ。


彼女の足元で折れた枝は、道となり、

野生の爪は、日々の試練へと変わった。


死は、終わりではなく――

儀式になった。


血を流すたび、

彼女は――より強く戻ってきた。


アリアンヌは、

獣の肋骨で寝床を作り、

頭蓋骨と棘の蔓で罠を張った。


剣は――

もはや武器ではない。


腕の延長。


まるで、

魂に鉄が宿って生まれたかのように。


かつて制御不能だった魔力は、

今や彼女の周囲で

薄衣のように揺れていた。


飼い慣らされたのではない。

――尊重されたのだ。


彼女は力を支配しない。

共に、踊る。


夢の中で、

悪魔の囁きは少なくなっていった。


弱ったからではない。

――畏敬ゆえに。


『お前は――

 私を超えつつある』


『そして……

 私は、誇らしい』


アリアンヌは、

時の感覚を失った。


日が、週になり。

週が、月へと溶けていく。


そして――

声を、聞いた。


人のものではない。

だが――

明瞭な声。


黒い槍を携え、

四つ目の獣に跨り、

禁じられた紋様を刻んだ皮膚。


――悪魔たち。


彼女は、距離を保って追った。


襲わず。

隠れず。


ただ――

観察し、

学び、

耳を澄ませた。


彼らは語っていた。


ある場所のことを。


国家。

強く。

統一され。

夜に喰われた山々の下に

隠された王国。


――深淵の国。


アビサル・ネイション。


そして、

畏れと、欲望と、

祈りにも似た声音で――

彼らは、一つの名を口にした。


ノクス。

深淵の国についての囁きを聞いてから、四夜目。


アリアンヌは、

悪魔の騎手たちが残した

深く刻まれた足跡を辿っていた。


焼け焦げた地面。

裏返された骨。

地に刻まれたルーンの痕。


なぜ追っているのか――

彼女自身にも、分からなかった。


ただ一つ。

ノクスという名が、

胸を――痛ませた。


まるで、

ずっと知っていた何かを、

今になって

ようやく大きな声で聞かされたかのように。


その道は、

歯のように地に突き刺さる黒い石に囲まれた

空き地へと続いていた。


中央に立つのは、二体の悪魔。


背が高く、

生きた骨の鎧を纏い、

湾曲した槍を手にしている。


皮膚には、

儀式の傷跡。


彼らは、

アリアンヌを見た。


――だが、

襲わなかった。


そして、

笑いもしなかった。


「人間だ」


最初の悪魔の声は、

砕けた硝子のようだった。


「なぜ、

 同胞が死ぬ場所を歩く?」


アリアンヌは、

恐怖でも、

懇願でもなく――

ただ、答えた。


「私は、もう死んだ」


「だから今は――

 帰る場所へ歩いている」


沈黙。


二体目の悪魔が、

一歩、前へ出る。


空気を嗅ぐ。

呼吸が、

ゆっくりと、重くなる。


「……封印が、裂けている」


「古き刻印……

 第一次戦争以前の残響だ」


彼女は、理解できなかった。


――だが、

否定もしなかった。


代わりに――

力が、語った。


抑えられていても、

皮膚の上で揺らめく

黒い煙。


「何を望む?」


最初の悪魔が問う。


「強者が向かう場所を」


「怪物に、

 名が与えられる場所を」


「……深淵を、望むのか」


「望む」


二体は、互いを見た。


「なぜ、

 裏切り者の子に

 肉の山脈を越えさせねばならぬ?」


アリアンヌは、

前に出た。


――たった一歩。


だが、

大地が震えた。


左眼が、

赤く光る。


肩に――

地獄の印が灯る。


炎を刻んだ刺青のように、

肉の上で燃え上がる。


「光は、

 私を殺そうとした」


「だが――

 闇は、生かした」


二体は、

長く、彼女を見つめた。


そして――

笑った。


獲物ではない。

新たな群れの一員を見出した

捕食者の笑み。


「ならば――

 ノクスに会うがいい」


「……ノクスとは?」


「魔王の第一の翼」


「境界の守護者」


「紅蓮の刃の女王」


「天の獣を、

 己の舌で屈服させた者だ」


「……彼女は、

 私を迎える?」


悪魔は、

静かに答えた。


「お前が辿り着く前に――

 彼女が、お前を感じ取る」


彼らは、道を開いた。


霧が、裂ける。


そして――

アリアンヌは、

深淵の国へと至る

最初の一歩を踏み出した。


胸の奥で、

雷のように鳴り響く

その名を――

抱きながら。


ノクス。

肉の山脈を越えることは、

生きた喉の内側を這い進むようなものだった。


岩は脈打ち、

空気は硫黄と乾いた血の臭いに満ち、

灰の雨が一定の間隔で降り注ぐ。


――まるで、

空そのものが呼吸しているかのように。


アリアンヌは、

前を行く二体の悪魔に続いた。


問いは、しなかった。


一歩一歩が、試練だった。

そして――

彼女は、すべてを越えた。


遠くに、さらなる存在が現れる。


縫い合わされた肉で作られた哨兵。

胸に眼を埋め込まれた番人。

六本脚の獣――

二股の舌で、

彼女の周囲の空気を嗅ぎ取る。


――だが、

誰も彼女を襲わなかった。


彼女の内側にあるもの。

裂けた封印。

生きた魔力。


すべてが、感じ取られていた。


――彼女は、

ここに属していた。


六日目の終わり――

彼らは、辿り着いた。


深淵の国は、

都市ではなかった。


それは――

休眠した火山の内部に打ち込まれた帝国だった。


巨獣の骨で築かれた塔。

守護者の意志で蠢く、生きた金属の橋。

宙に浮かぶ光――

鼓動する心臓のように、脈を打つ。


訓練の叫び。

儀式の声。

恍惚の咆哮。


アリアンヌは、

黒き大階段の頂で立ち止まった。


守衛たちが、道を開く。


――彼女は、進んだ。


そして――

そこに、いた。


ノクス。


磨き上げられた頭蓋骨の段に座し、

砕けた玉座に身を預ける。


黒き翼は、

帳のように折り畳まれ、

長い角は、

悪魔の王冠のように後方へ伸びる。


深紅の髪は、

重い結びで束ねられ、

露わな腕には、

溶けた紅玉のように輝くルーンが刻まれていた。


そして――

その瞳。


燃える琥珀。


アリアンヌを見るその視線に、

恐れはない。

疑念もない。


あるのは――

飢え。

そして、

好奇心。


「来たな」


ノクスの声は、

香りを帯びた刃だった。


「待っていたのか?」


「いいえ」

「だが――

 封印が燃え、震えた時、感じた」


「古き歯車が、

 再び動いた」


「お前は――

 戦争の残響を抱えている、小さき者よ」


「私は、人間だ」


「……長くはない」


ノクスは、立ち上がった。


一歩ごとに、

戦鼓のような重み。


アリアンヌの前で、止まる。


身長差は、わずか。

だが――

存在の差は、圧倒的だった。


ノクスは、

爪の先で

アリアンヌの顎を持ち上げる。


「お前は、壊れている」


「だが――

 折れてはいない」


「……力が欲しい」


「ならば、

 代価は何だ?」


アリアンヌは、

視線を逸らさなかった。


瞬きすらせずに。


「……すべてを」


沈黙。


そして――

ノクスは、笑った。


ゆっくりと。

致命的に。


舌先で、

唇を湿らせながら。


「ようこそ、深淵へ――アリアンヌ」


「さあ……

 お前の破滅が、

 何で出来ているか――

 見せてもらおう。」

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