第二章 ― 亀裂の入った封印

任務は、あまりにも単純だった。


「放棄された神殿の掃討だ」

そう言われた。

まるで、忘れ去られた墓の埃を払わせるかのような気軽さで。


偵察を兼ねた巡回任務。

初心者向けの仕事。

山中の遺跡から声が聞こえると言い張る、

偏執的な貴族への――政治的な“配慮”。


アリアンヌは、疑問を挟まずに引き受けた。


彼女は、いつもそうだった。


肉をまとった機械のように、

命令を完璧に遂行する。


だが、その構造物には――

彼女を呼ぶ何かがあった。


神殿は、土と根に覆われ、

半メートルほど地中に埋もれていた。

外壁の像は損壊し、菌類に侵され、

古代のルーンは――

まるで歴史そのものを消し去ろうとするかのように、

怒りを込めて削り取られていた。


彼女は、最初に入った。


一人で。


空気は濃く、生温かい。

眠る獣の吐息のようだった。


崩れ落ちた石と、太古の塵に覆われた

中央大広間の奥深く――

それは、彼女を待っていた。


――像。


女性的でありながら、人ではない。

細く、屈み、

眼の代わりに刻まれた歯。

指一本一本に彫られた鉤爪。


石の唇からは――

暗い血が流れていた。

新しく、

温かい。


「……ありえない」


アリアンヌは近づいた。

他の兵士たちは上階に残していた。

彼女自身が、入口で止まるよう命じたのだ。


直感か。

恐怖か。

本能か。


――あるいは、

もっと古い何か。


像の台座に手を触れた瞬間――

氷のように冷たいのに、

指の下で脈打っていたその石に触れた瞬間――


世界が、叫んだ。


ギギギギギィィィ――ッ!!


時間そのものを引き裂くような音。


石は、乾いた骨のように

真っ二つに裂けた。


そして――

その内側から跳ね出したのは、

“存在”ではなかった。


熱だった。


物質ではない。

霊的で、肉的で、

赤く、

生きていて、

飢えている熱。


アリアンヌの胸が燃え上がった。

血管が脈打つ。

肉の奥で、

第二の心臓が鼓動を打つ。


憎しみを打ち、

飢えを打ち、

――彼女自身を打つ。


『……ついに』


声は神殿に響かなかった。

彼女の内側に、直接響いた。


『……自由だ』


彼女はよろめき、後ずさった。

倒れかけ――

だが地に着く前に、足が踏みとどまった。


まるで根を張るかのように。


床が、彼女の重みでひび割れた。

世界が――

今の彼女を認識したかのように。


上階から、兵士たちの叫び声が響く。


「魔物だ!

 神殿が汚染されている!」


だがアリアンヌは、

彼らが気づくより先に見ていた。


影の蛇が、壁から滴り落ちる。

封印が破れたことで、

初めて“生まれた”存在たち。


反射的に、彼女は腕を上げた。


指先から――

黒い炎が噴き出す。


一瞬の爆発で、

二体の獣が灰と化した。


剣が、意思を持つかのように鞘を離れる。

一閃。

空中で、三体を切り裂いた。


手首の周囲で、

地獄の魔術が舞う。

回転する印、禁忌の紋章。


彼女は学んだことがない。

だが――理解していた。


内なる悪魔が、

狂った指揮者のように

彼女を導いていた。


そして彼女は――踊った。


恐怖と共に。

力と共に。

恍惚と共に。


だが、やがて――

呼吸が乱れ始めた。


血が沸騰するように感じる。

指が震え、

視界が二重に滲む。


アリアンヌは膝をついた。

荒く息を吐きながら。


流れを止めようとした。

扉を閉じようとした。

熱を、内に押し戻そうとした。


だが――

力は、外へ出たがっていた。


何世紀も閉じ込められ、

今ようやく解き放たれた

飢えた獣のように。


魔力が燃え、

皮膚が煙を上げる。


そして――

その瞳は。


赤く、輝いていた。

神殿が、震えていた。


壁は剥がれ落ち、

天井は軋み、

大地そのものが――

ある名を囁いていた。


アリアンヌには、その名が分からなかった。

だが――

彼女の血は、知っていた。


彼女は膝をつき、荒く息をしていた。

吐息は、黒い靄となって漏れ出る。


肌は、まだ煙を上げている。


魔力は止まらなかった。

必死に押し戻そうとする。

流れを閉じようとする。


だがそれは――

素手で川を塞ぐようなものだった。


力は、溢れたがっていた。

爆発したがっていた。

殺したがっていた。


その時――

他の者たちが、降りてきた。


最初に姿を現したのは、

部隊長のサレスだった。

盾を構え、視線は硬い。


アリアンヌを見るなり、

彼はその場で立ち止まった。


彼女の周囲には、

異形の死体の円があった。

焼け、裂かれ、

あり得ないほど正確な斬撃で破壊されている。


そして、その中心に――

沈黙の虐殺の女王のように。


アリアンヌがいた。


傷ついた獣のように呼吸し、

灼ける瞳を持ち、

冒涜的な魔力が、

生きた墨のように腕から滴っていた。


「……アリアンヌ?」


サレスが名を呼んだ。

だがその声は――

震えていた。


「わ、私……」


そう言おうとした。

だが、声が――違った。


反響する。

歪む。

二つの声が重なったように。


彼女の声と――

“何か”の声。


次に現れたのは、

見習い魔導士のリネルだった。


アリアンヌの周囲を回る

魔法陣を見た瞬間、

彼女は二歩後ずさった。


「……禁呪よ……」


息を呑み、囁く。


「アリアンヌ……

 あなた、何をしたの……?」


説明しようとした。


分からないこと。

像に触れただけなこと。

何かが、侵入してきたこと。


だが、言葉は――

次第に異形になっていく。

次第に人でなくなっていく。


内なる悪魔が、囁いた。


『彼らは受け入れない』

『最初から、決して』

『今、終わらせろ』

『消される前に』


アリアンヌは、必死に首を振った。


「……違う。

 誰も、傷つけたくない」


だが――

兵士たちは、すでに彼女を囲んでいた。


剣が掲げられ、

詠唱が始まり、

目が見開かれる。


恐怖。


彼女は、その表情を知っていた。


村で――

「化け物」と呼ばれた時の顔だ。


サレスが、一歩踏み出す。


「アリアンヌ。

 武器を捨てろ。今すぐだ」


「……何も、していない」


「これ以上、我々を追い込むな」


彼女は、彼らを見た。


共に戦った者たち。

酒を酌み交わした者たち。

彼女が笑わなくても、笑ってくれた者たち。


――その剣先が、

今は彼女に向いている。


アリアンヌは、剣を落とした。


手を開き、

降伏を示した。


だが――

叫んだのは、リネルだった。


「召喚してる!

 見て、魔法陣が――!」


制御不能の印が、

アリアンヌの足元で回転していた。


彼女は描いていない。


それは、

肉から生まれていた。


生存を求め、

身体そのものが叫ぶように。


「違う……!」

彼女は泣いた。

「望んでない……!」


――もう、遅かった。


一人の兵士が、

拘束の球を放った。


反射的に、

アリアンヌは腕を上げる。


魔力が弾き――

倍となって、返った。


爆発は、一瞬だった。


二人の兵士が吹き飛び、

一人が、

黒い炎に包まれて叫んだ。


焦げた肉の匂いが、

空気を満たす。


――沈黙。


粉塵が、落ちる。


サレスは、倒れていた。


死んではいない。

だが――

アリアンヌを見る目は、

まるで、悪魔を見るかのようだった。


彼女は、自分の手を見た。


魔力は、まだ滴っている。


内なる悪魔が――

笑った。


『また来る』

『必ず、殺しに来る』

『お前が、自分の力を理解する前に』


『だが――

 私なら、教えてやれる』


『導いてやれる』


『抵抗を、やめればいい……』


「……黙れ」


彼女は、

自分自身に囁いた。


そして――走った。


剣も取らず。

振り返りもせず。


森が――

彼女を呼んだ。


そして、

彼女は応えた。

アリアンヌは――走った。


葉が鞭のように顔を叩き、

枝が鎧を引き裂いた。

指の革には、

まだ兵士たちの血が燻っている。


叫びたかった。

吐きたかった。

消えてしまいたかった。


だが――

彼女の内側は、すべてが燃えていた。


力は止まらない。

皮膚の下で震え、

熱病のように脈打つ。


悪魔は眠らない。

理解したくない言葉を囁き、

慰めを与え、

支配を約束した。


『彼らは、お前を愛していなかった』

『最初から、決して』

『愛とは、首輪だった』

『噛みついた瞬間、処刑台を用意した』


彼女は――無視した。


何時間も、走り続けた。


やがて、再び日が沈みかけた頃、

彼女の足は――

あり得ない場所へと、彼女を導いた。


――村。


彼女の村。


かつての家。

家だった“ふり”をしていた場所。


石造りの家々、

藁葺きの屋根、

中央の井戸、

子どもたちが走り回っていた焚き火跡。


一瞬、思ってしまった。


『もしかしたら……

 話を聞いてくれるかもしれない』

『助けてくれるかもしれない』

『――抱きしめてくれるかもしれない』


だが――

彼女は、見てしまった。


広場に作られた円。

掲げられた松明。

集まった人々。


その目にあるのは、

恐怖ではない。

怒りだった。


先頭に立っていたのは――

養父母。


母は数珠を握り、

父は斧を持っていた。


そして、その隣に――

近衛の制服を着た一人の姿。


リネル。


見習い魔導士。

包帯だらけだが――生きている。


「化け物が戻ってきた!」

誰かが叫ぶ。


「封印が、彼女を汚した!」

「脅威だ!」

「存在そのものが、間違いだ!」


アリアンヌは、両手を上げた。


「誰も、傷つけたくない……!」


だが――

彼女の言葉は、雷鳴のように響いた。


魔力が、

意志とは無関係に

手首の周囲で渦を巻く。


汗が流れ、

身体が震える。


抑えようとする。

閉じ込めようとする。


だが――

できなかった。


それは、

キスで火山を封じようとするようなものだった。


幼い頃に知っていた少年――

ミケル。

かつて、花をくれたことのある少年。


彼が――

最初の石を投げた。


石は、彼女の脚に当たった。


続いて――

次々と。


石。

火。

罵声。


「怪物!」

「異形!」

「生まれた時のように、燃えろ!」


彼女が膝をつき、

傷だらけになった時――


養父が、歩み寄ってきた。


斧を、振り上げる。


「……許してくれ、娘よ」


アリアンヌは、彼を見た。


そこに――

痛みはなかった。


ただ、

枯れ井戸のような虚無だけ。


「……私は、

 あなたの娘じゃない」


――その瞬間。


力が、解き放たれた。


咆哮と共に。


黒い炎の壁が、

彼女を中心に爆発する。


松明が宙を舞い、

人々が悲鳴を上げる。


村の中央にあった像が、

音を立てて裂けた。


煙が晴れた時――


アリアンヌの姿は、

そこにはなかった。


彼女は、

森へと逃げていた。


燃えながら。

独りで。


刻まれた身体で。

吐き捨てられた名を背負って。


内なる悪魔が――

満足げに笑う。


『ようやく、理解したな』

『愛されることは、嘘だ』

『だが――恐れられることは』


『自由だ』


そして――

森は、彼女を飲み込んだ。


それは、

安らぎではない。


繭(さなぎ)だった。


アリアンヌには、

もはや家も、味方もない。


騎士ではない。

人間でもない。


今――

彼女に残ったのは。


彼女自身と、

内なる獣だけ。


狂気の縁で踊りながら、

新たな目的を――

飢え求めて。

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