第十章「断崖」

夜明けは、唐突だった。


赤い月の余韻を引きずる間もなく、

空は淡い青に戻り、

世界は何事もなかったかのように振る舞う。


だが、

前にあるものだけは、嘘をつかなかった。


断崖。


切り立った岩壁が、

海と空を断ち切るようにそびえている。


その上に――

魔王城。


城は威圧しない。

睨みもしない。


ただ、そこに在る。


「……でかいね」


アレルの声が、少しだけ乾いていた。


ミリアは黙って十字を切る。

ガルドは、城を見上げて目を細めた。


トーマスは、

一歩、前に出かけ――

止まる。


(……違う)


ここは、

前に立つ場所じゃない。



三度目の場所


ガルドが、杖を手に取った。


酒瓶は、もう持っていない。


「……ここじゃ」


その声は、老いていながら、

不思議と強かった。


「わしはな、

この道に――三度、来ておる」


アレルが息を呑む。


「三回も……?」


「一度目は、力を信じて来た」


ガルドは淡々と語る。


「剣も、魔法も、

仲間も揃っておった」


「だが、

押し切る場所ではなかった」


沈黙。


「二度目は、

知恵を信じて来た」


「道を調べ、

伝承を集め、

最短を選んだ」


ガルドは苦く笑う。


「……城はな、

正解を嫌う」


「生き残ったのは、

わし一人じゃ」


アレルは言葉を失っていた。



老賢者の確信


「三度目は、

最後じゃ」


ガルドは断言する。


「力も、知恵も、

使わぬ一行」


「それでも、

逃げなかった」


「……それで、

ようやく分かった」


トーマスを見る。


「前に立つ者が

剣を持たず」


「勇者が

斬る前に迷い」


「僧侶が

祈らずに待ち」


「それでも、

誰も引き返さなかった時」


杖で、断崖の影を指す。


「道は――

向こうから現れる」



立つ順番


トーマスは、

無意識に前へ出そうになり、

自分で止めた。


(……譲る)


前を譲る。


それは、

逃げではない。


役目を渡す動きだ。


アレルが、

断崖の縁へ進む。


剣は、抜かない。


ミリアは一歩後ろ。

ガルドは、動かない。


レイナは、船に残る。


「ここから先は、

奪う場所じゃない」


それが、

彼女の答えだった。



境界


断崖の先には、

何もない。


下は、

霧と闇。


「……行くね」


アレルの声は、

誰に向けたものでもない。


彼女は、

踏み出す。


その瞬間。


足裏に、

確かな抵抗が返る。


岩ではない。

橋でもない。


「……ある」


アレルが呟く。


ミリアが、

事実だけを告げる。


「足場、あります」


ガルドが、

小さく笑った。


「……来たな」



越える


足場は、

一歩分だけ。


次は、

踏み出さなければ現れない。


戻れない。


それでも――

前は、軽い。


トーマスは、

半歩後ろに立つ。


前に立たない。

だが、

逃げてもいない。


それが、

この場所での正解だった。


断崖が、

沈黙を破る。


否。

拒絶を、やめる。



影の入口


霧の向こうに、

城の“裏側”が見える。


門ではない。

階段でもない。


入ってしまう場所。


ガルドが、

最後に言った。


「……行け」


「ここから先は、

世界が答える」


老賢者は、

一歩、後ろに下がる。


それが、

道を示す者の

最後の仕事だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る